夢を否定するダーク・ロック。相川七瀬「夢見る少女じゃいられない」 | よねともが気ままに思うブログ

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本日は相川七瀬「夢見る少女じゃいられない」(1995年リリース) です。




相川さんは1990年に友達の付き添いで大阪でのアイドルのオーディションに行くことになりましたが、友達が諸事情で来れなくなり、急遽自身がオーディションに参加することになり、工藤静香さんの歌を歌ったのですが、結果落選することになります。

しかし、このオーディションに審査員として来ていた織田哲郎さんには、何か光るものがあると感じ、1991年、高校1年生の相川さんをスカウトしますが、断られてしまいます。織田さんは連絡先を渡し「音楽をやりたくなったら俺のところに連絡してよ」と声をかけます。相川さんは当時は高校生活が楽しくて、音楽をやる気は無かったそうですが、その3ヶ月程した時に織田さんの元に相川さんから「音楽をやりたい」という連絡を受けて、3年ほど費やしてデビューに向けた土台作りを行っていきます。

相川さんは大阪でバイトをしながらボイストレーニングの先生に付いてレッスンを受けつつ、織田さんからの指令で原稿用紙に歌詞をひたすら書かせました。束で持ってくることもあり、大半は織田さんによってボツになっていたそうですが、中にはかなり出来の良い歌詞が出てきていたそうです。

織田さんは相川さん用に幾つか曲を書いていました。そして相川さんが18歳の時に上京し、そこから「相川七瀬」という歌手のイメージを一から構築していきました。

そして相川さんが20歳の時に、この「夢見る少女じゃいられない」でデビューすることになります。

作詞・作曲・編曲・プロデュースは織田さんによるもので、ジャケット写真を決めたのも織田さんによるものでした。見た目から少し影があるような、そして歌手の顔が一部隠れているという、デビュー作のジャケットにしてはかなり冒険的なジャケットで、スタッフからも反対意見が多かったそうですが、織田さんは「これで行く。責任は全部俺が取るから」といって一存で決めたそうです。

このようなジャケットにしたのも、全て織田さんの思う当時の音楽に対するアンチテーゼを全て「相川七瀬」に託したものでした。タイトルからも分かる通り、「夢見る少女じゃいられない」と夢を見ること、叶えることへ否定的となっています。当時は織田さんも曲を提供していたビーイング系のポップで明るく前向きな曲が世間を席巻していました。しかし、この風潮を嫌った織田さんが、ポップではなく「ダークなロック」を作ろうとして作ったものがこの曲で、尚且つ「相川七瀬」でした。歌詞も

きっと誰かがいつかこの世界を 変えてくれる そんな気でいたの

自分ではなく、誰かが変えてくれる。それでいい、と自分で変えることの虚しさをここで述べています。

そして、織田さんによる作曲・編曲の妙。ビーイング系で培ってきたポップなサウンドを捨て、歪んだエレクトリックギターのサウンドを前面に出した、「ダークなロック」を展開しています。エレクトリックギター・キーボード・ベース・ドラムプログラミングといった全ての楽器演奏を織田さんが行っています。ロックンロール+多重録音は、近藤房之助+織田哲郎「BOMBER GIRL」で採用していたレコーディング方式で、この方式を相川さんの一連の作品で存分に発揮した形となります。また、エレクトリックギターの演奏は、それまで織田さん自身が「こういうギターを弾きたい!」という願望をそのまま実践に移したものとなっており、相川さんの一連の作品で演奏されるギターはそういったものとなっています。

デビューシングルながら、40万枚を売り上げるヒットソングとなり、現在でも相川さんの代表作となっています。織田さんの戦略は見事的中しました。これ以降、相川七瀬は「ポップで前向きな曲」から変わって世間を席巻することになります。



なお、2021年には織田さんのYouTubeチャンネルにて、織田さん自身が弾いてみたという動画を上げています。もし宜しければこちらもどうぞ。