昨日、久しぶりに
ジブリ映画『もののけ姫』
を観ました。
ジブリ映画は一つの作品の中で
・自然と人間との共存
・病気と差別 など
いろんな切り口でテーマを感じることができますが、私が一番感じたのは〝シシガミさま〟の存在。
命=
〈死〉と〈再生〉
です。
『もののけ姫』は1997年の作品なので、
もう30年弱前の作品。
そのころ私もまだ
22歳のぴっちぴちでしたw
もうだいぶ前に観た作品なので
いろんなことを忘れていたし、
あの頃は気がつかなかったちょっとしたシーンもあって面白かったな。
(アシタカが怪我をした後、ちゃんと服の穴が繕われてたこととか・笑)
で、私は
あの時見た「シシ神の森」を感じたくて
数年後に屋久島の『白谷雲水峡』に会いに
行ったんだよね。
会社を辞めての
30歳の時でした。
会社に疲れた…
というより、“家族”に疲れた…
“親”に疲れた…
人間であることや
“自分”であることに疲れてました。
で、屋久島の苔の森のトレッキングの時に見た
木の根っこの間に巣をつくっていた
ちいさなミソサザイを見て
「野鳥」に恋をした❤️
そしてさらにそこから何年も経って、
和紙をつかったアートのテーマとして
「野鳥」シリーズをつくりだすんだよね🕊🌈
不思議なもんで
人生は繋がっていないようで
地続きでつながってる。
子供の頃や
まだ二十歳そこそこのころに感じた
感動や願いや希望は
忘れているようでちゃんと
根っこの部分では記憶されていて、
30時経った今も
あの時感じた願いや希望を
手探りで探している。
そういう意味で
本当に人生は“あっという間”
なんだろうな。
半世紀生きてみて思うのは、
やっぱりこの【命】には
この人生でやりたいことや叶えたいこと
知りたいことがあって、
その目的に逆らって生きていると
どんどん人生は暗く険しいものになり
生命力は枯渇する
ということ、です。
そして
自分を見失って、
世間や親の目に逆らわないように
認められるように生きていると
人間の命の限界は
40〜50歳
なのだと思う。
物質として「肉体の限界」が
40〜50年だと
言い換えてもいいのかな。
30代の頃の私は、
イラストレーターとして開業しながら
レッドオーシャンな業界で
事業のみで生活することができなかったので、
アルバイトをしたり
派遣の仕事をしたり
以前から興味のあった
ボディセラピーの副業をしたりして
食いつないでいました。
↑
今も、外側から見た
〈ガワ〉の状況は大差ないけど…
そこに起きたのが未曾有の大震災、
2011年3月11日の【東日本大震災】。
震災から2年目から、
私は知り合った友人が参加していた
石巻市の仮設住宅でのボランティアに
参加することになりました。
合計4度、
ロミロミによるボディケア員として訪れました。
自分もしんどいけど…
今もっと大変な人たちがいる。
自分にも何かできることがあるんじゃないか?
と、私は自分のキャパを超えて
やってはいけないことをやったのです。
そして2015年に心不全になり、
救急車で運ばれて入院。
【バセドウ病】を発病。
寛解するまで2年がかかり、
自分ではどうにもならない状況下でやっと…
自分は生き方を
「間違えた」。
と認めたの。
身体的にも・精神的にも
一回死んだのです。
自分はどうして
こんなに生き難いんだろう❓
小さな頃からずっと
そこはかとなく感じていた気持ち。
きっとそれは
自分が間違えているからだ。
だからもっと
親にみとめられるような「いい子」にならなきゃ。
(↑自分の気持ちを二の次にしてでも)
それはきっと
自分がダメだからだ。
だからもっと努力をして
社会にみとめられる「優秀な人間」にならなきゃ。
そうしているうちに、
本来の自分がどんな個性を持ち、
どんな気持ちで生きているのかが
分からなくなっちゃったんだよね。
だってそれはぜんぶ、
「自分がダメだから」で「自分ができない」
からだったから。
自分の生き難さをどうにかしたくて
足掻けば足掻くほど、
アリ食い虫罠にハマるように
自分を見失って命が削られていった。
今でも私の中に
あの頃の
「全てを終わらせて消えたい私」はいます。
細胞は全ての感情を記憶してる。
「カラダの痛み」として記憶しているのです。
たしかに私は
「間違えてた」のです。
けど
〝何を〟間違えていたのか?
の〝何を〟を間違えてたの
あまりにも生きるのがつらかったから、
その原因を自分のせいにした。
そこまでは間違えてなかったけど…
間違えていたのは
自分を否定して、
自分じゃない立派な〝誰か〟になろうとしこと。
私のまわりには
「自分の気持ちを大事にしていいよ」
という大人がだれもいなかったから、
まさか
自分の生き難さが
自分の気持ちを大切にしていないこと
が原因だとは思いもよらなかったのです
〝自分を生きる〟
って
耳障りの良い言葉だけど、
そんな甘いもんじゃないよ。
「自分ファーストで生きる」って
そんな楽な道じゃないのです。
なんせ今まで何十年もの間、
他人を優先させて自分を二の次にすることが
正しくて美しい生き方だと
教えられ・思い込んできたのだから…
急に「自分の気持ちを優先させて生きる!発言する!行動する!」
っつても、周りはそれに同意しない大人ばかりなんですからっ
自分の在り方で
周りの人間関係を再構築するまでは
時間がかかります。
衝突もしなきゃいけない場面もあるし、
プルプル震えながら人に意見を言わなきゃいけない時もある。
自分を守るために。
自分を守るために
戦わなきゃいけないなんて、
今までの人生で許した頃もなければ
努力したこともないわけで…
1回、1回、
それこそ「○ぬ覚悟」で
やらなにゃいけないのです
40~50代で大きな人生の転機により
一度死んだ後、
今度は日常の中で「自ずからの手で」
小さく自分を殺してゆかなきゃいけない。
こびりついた「思い込み」を。
その時に大きな力になったのが、
毎日そこはかとなく
カラダの中からポカポカにする感覚を
〈おまたカイロ〉でつくっていたことです
現実の世界では
私の味方になってくれる人は
(私の気持ちの理解者は)
いないけれど、
カラダの内側から
そこはかとなく湧き上がる
生きる気力
最初は小さな囁き声のような
パワーだったけれど、
だれも私を信じてくれないのなら
私だけは信じて
自分の人生で採用してあげようと思ったの
カラダの中で
他人の意見に支配された感覚を、
自分のカラダの「欲」で支配しなおそうって思った。
だって
私は間違えたから。
頭の中で「幸せになれる」と信じて努力してきたことは、
ぜんぶ他人から得た情報たちで
それらは私を幸せにはしなかったから。
そして
カラダの欲求というものは、
まったく道理の通用しない
「○○したい」だったから
すごくおもしろかったんです
生きるベクトルを真逆にしたら
脳みそは違う情報を引き寄せるようになって、
「自分ファースト」「カラダファースト」で生きるための
ヒントをたくさん持ってきてくれるようになった。
心屋仁之助さんのBeトレに1年通ったり。
吉野さやかちゃんの発信に出会ったり。
雲黒斎さんのお話会にも通ったな。
ここで、人間の「エゴ(自我)」についての興味が湧きました。
それとこの本は
「人間の自我」について言及した本で
すごーくためになりました
一通り触れてみて思ったのが、
実際のところ
自分の実益=健康
につながらなきゃ意味なくない❓
ということで、今は
「健康」と「アート」を事業化する
ということにチャレンジ中です
私にとって
努力することや頑張ることは
むずかしいことではありません。
むしろ、好き(笑)
だけど注意が必要なのが
努力のベクトルをどこに向けるか❓です。
自分のことを蔑ろ・二の次にして
他人に向けてしまうと、
自分の活力がどんどん枯渇してしまうし、
最悪なのは
「他人のエネルギーを吸いにくる」
エネルギーバンパイアが寄ってくること
「やさしさ」を売りにしていると、
無料でそれを得ようとする依存癖のある人を
引き寄せてしまいます。
そういう人間関係が重なると
人と関わるのが嫌になっちゃうんだよね
一回、死んだから分かる。
自分が死にたくなるような環境や人間関係を、
身の回りに置いてはいけない。
日常のささやかな行動の選択が
いつの間にか
逃れ難いような状況をつくってしまうのです。
言いにくいことを
めんどうだからと言わずに済ませた
「ツケ」を払うのは未来の自分です。
そうならないように
今までなぁなぁにしてきた行動を
自分で気づいて
矯正し続ける
努力をしなきゃいけないんです。
大人になってからの生き直しは
簡単じゃないよ、むずかしい
だけど
誰のために努力する❓
「幸せ」を感じるセンサーの
中心点はどこにある❓
少しずつ太陽の光の色も変わってきて
春が近づいてきたのを感じる
今日この頃。
大丈夫!
もう一度、
はじめよう🐾
〈ここまでの長文読んで下さった方、ありがとうございました〉
中野ともみ