☎️ RRRRR
(表現が昭和ですね)
知らないケータイ番号でした
はいもしもし
母「…………」
ん?間違い電話?
「もしもーし」
母「……わたしです」
声ちっさ!!
新手のワタシワタシ詐欺かと思ったわ
母「あ、あのね、報告だけしとくんですけど。
お父さん、入院したからね」
「えっ!!なんで?!どうしたの?何か病気なの?」
母「そんなに大きな病気じゃなくて、大腸に菌が入って、それを処置するだけだから、大丈夫。ただ、コロナもあるから、誰もお見舞いには行けないし、私も会えないの。だから行かなくて大丈夫だからね」
「誰も行けないの?」
母「うん、行けないから、2週間ていどの入院にはなるけど、何もできないから大丈夫。ただね、入院だからその報告だけしとくからね」
「わかった。わざわざありがとう」
母「………。娘ちゃんはもう卒業したの?大学はもう決まったの?」
「まだ卒業してないよ。まだ2月じゃん。3月が卒業式だよ
それに、まさに今入試の最中で、何校か受けてるし、今日も大学に入試に行ってるよ。」
母「まだ決まってないの?」
「まだだよ。今のところ5校受けてて、2校滑り止めは受かってるけど、結果待ちが3校、これから受けるとこが2校で全部で7校受験してるんだよー」
母「そんなに受けるの?大変じゃない!」
そりゃ大変だよ。
お金もそうだし、子供のケア含めて色々受験準備するって事、簡単な事じゃないし。
「色々やりたい事があるみたいだから、そのために資格取れる大学を受験してるの。大変なのはわかってるし、本人頑張ってるから、私は応援することしか出来ないからね」
今さらながらの会話ですが。
何年ぶりかの会話なので
私の家族の生活については
細かいことは何も知らないのです
母「資格取るのって難しいみたいじゃない。大学入ったからって、資格取れるわけじゃないんだし…」
母はいつも私の言うことやることを頭から否定するので、
いつもこんな感じで否定から入ります
「まぁでも本人頑張ってるんだし。応援するしかできないから、体調管理とか、心身共に受験に没頭出来るようにする事だけ考えてるよ」
母「そう。頑張ってるんだね」
ちょうど、娘が受験から帰ってきたので
娘に代わる?と言ったら
母「話したい」
で、そのまま娘に代わりました
娘も「うんうん、元気だよー。ばあばも元気??じいじの入院てどうなの?うんうん。えー!そりゃ大変だったね!うんうん。
そっかー。じゃ、まだ次郎くんの赤ちゃんには会えないんだねー。うんうん。
そう、今日試験があったのー。これで5校目なんだよ。まだ全部終わってないから、終わってから、受かったとこの大学に通うことになると思う。え?どこの大学って?多分言ってもわからない大学名だけど、決まったらまた話すね」
みたいな会話をしてました。
多分私より娘のが喋ってたと思いますが
母自身、私と話すのは罪悪感を感じてしまうだろうから、娘がいて良かったです
こんな会話は、
同じ市内にいるんだし
普通の親子なら普通に何ヶ月も前にあっていいレベルの会話なんですが
宗教という壁
カルトという疎外された空間において
親子の何気ない会話まで出来なくなってたんですね
でもなんだろう
この暖かいかんじ。
電話はそのまま娘が切って終わったんですが
心地よい笑顔になるのはなんでだろう
自然の情愛ってやつか…??
よくよく考えてみると
母とのなんとなく暖かい気持ちになるのは良いんだけども
父の入院のおかげっていうのが
ちと複雑なものですね
3年くらい前に母と話した時に
「父に何かあった時には必ず私に連絡してほしい。もしも輸血の問題が起きたとしたら、未信者である父の輸血同意書に私がサインするから」と
かなり強気で話したのを
母が覚えてたのかもしれない
母から電話があったのなんて10年ぶりでしょうか?
他愛無い話し含め会話出来たのはかなりの進歩なのではないかと思います
母も同じような笑顔になれたんでしょうかね