救貧から防貧へ-養育院経営が導いた渋沢栄一の福祉観- | 元世界銀行エコノミスト 中丸友一郎 「Warm Heart & Cool Head」ランダム日誌

元世界銀行エコノミスト 中丸友一郎 「Warm Heart & Cool Head」ランダム日誌

「経済崩落7つのリスク」、
「マネー資本主義を制御せよ!」、
「緩和バブルがヤバい」、
「日本復活のシナリオ」等の著者による世界経済と国際金融市場のReviewとOutlook

「国家の盛衰を決めるのは、政治経済体制が収奪的か包括的かの差にある」(アシモグルら)

掲題のセミナーが昨日大倉山記念館で開催され、映像や音声も交えた2時間弱の講演を興味深く拝聴してきました。
概要は次の通り。
 
前半 渋沢栄一と養育院
  渋沢栄一 新一万円札に 実業界だけでなはない渋沢の社会貢献
  養育院 渋沢栄一院長の銅像 99周年 (東京都板橋区)
  現在の東京 養育環境に問題ある子どもたちの自立支援
  明治維新で町中に浮浪者
  渋沢栄一 大蔵省の役人になる
  救貧施設”養育院”の創設
  渋沢栄一 「偶然」「いきがかり」で養育院の経営者になる
  院長になって間もなく養育院廃止決定!
  渋沢栄一 廃止に抗い、養育院を存続・発展させる
  養育院事業のような貧民救済(救貧)では世の貧困は一向に解決しないと知る
 
後半 どうする渋沢?!
  渋沢栄一 実業家はもう辞める(実業界引退)
  救貧より防貧を
  幕府崩壊後の新時代の近代商工業建設だけではもやは済まなくなった渋沢
     「たまたま関わることになった養育院なくして渋沢なし」
  渋沢栄一逝去後の養育院、東洋思想の人道か、西洋の人権思想家
  遺された養育院渋沢栄一銅像は、現代の日本をどう見る?
 
キーワードは、もちろん、「救貧から防貧へ」なのでしょうが、
「貧富の懸隔(格差)」や、
「仁道、仁政とは人民、衣食住安定の道なり」等がありました。
 
現代の経済学風に言えば、国民経済の真の道は、
物価安定と持続的な経済成長の同時達成にあり、
等ということかもしれません。
 
明治、大正を経験して、そして昭和の初期に
90余年の長寿を全うした渋沢栄一(1840~1931)
に関する今回の講演会を聴いて、
やはり、日清戦争(台湾併合1894年)、
日露戦争(朝鮮併合1904年)、
第一次世界大戦(1914年)等の
一連の大日本帝国主義と富国強兵政策の下での
明治維新以降の日本資本主義の戦争、
バブル景気、
インフレ、
不況や恐慌等の一連の厳しい景気循環等を経験して、
渋沢栄一は幕末・維新以降の大日本帝国主義に代わる小国主義や、
高橋是清等による富国強兵政策に代わる
富国裕民政策を模索していたのではないか等と考えました。
 
筆者は、渋沢栄一については「論語と算盤」しか読了しておらず、
宮本氏のレジュメでのお勧めの本(6冊)のうちの
いずれかを今後早晩読んでみたい等と思いました。
 
(もっとも、その前にウォルフレン「日本権力構造の謎」(下)
を読了することが先決であることはいうまでもありません(笑い)。)
 
なお、以下は同講演会の(事前の)チラシです。
 
 
  • 講 師:宮本 孝一(東京都健康長寿医療センター老年学情報センター 司書)
  • 日 時:令和6年(2024)6月15日(土) 14時~15時30分 (開場は13時45分)
  • 会 場:横浜市大倉山記念館ホール(東急東横線大倉山駅下車、徒歩7分)
  • 定 員:80名(入場無料、事前予約制・先着順) ※定員を超えた場合はご入場頂けません。

500もの会社経営に関わった大実業家として知られる渋沢栄一(しぶさわえいいち)。若き渋沢がめざしたのは、商工蔑視の国・日本を西洋のような商工業中心の国に変えることでした。

 

一方で「偶然」「いきがかり」(渋沢談)で、1874(明治7)年から救貧施設「養育院」の経営に携わっています。幕府瓦解の混乱で東京中にあふれた失業者・浮浪者も、西洋式の事業形態(=株式会社)が増えれば仕事に就ける。貧困は怠け者の自業自得。そう、30代までの渋沢は考えていました。

 

ところが、西洋式の商工業は日本に根づき、巨大企業が続々と出現しても、極貧の生活困窮者は減るどころか増えるばかり。商工業の発達が社会の闇を広げる現実に直面しました。

 

渋沢は1931(昭和6)年に亡くなるまでの約50年間、養育院院長を務め、東京の貧困層の現状や貧困層に対する蔑視とも、自分の仕事として四つに組み続けました。

 

渋沢はなぜ養育院院長であり続けたのか、その中で渋沢の社会福祉の考えが「貧困は自業自得」からどう変わったか、その結果どのような晩年を送ったのか、を見ていきます。