「ペリーとヘボンと横浜開港 情報学から見た幕末」を読んで | 元世界銀行エコノミスト 中丸友一郎 「Warm Heart & Cool Head」ランダム日誌

元世界銀行エコノミスト 中丸友一郎 「Warm Heart & Cool Head」ランダム日誌

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丸山健夫による「ペリーとヘボンと横浜開港」(臨川書店)を先週のある2日間で一気に読了してしまった。

それだけ面白かったということなのでしょう。

 

目次は、

第一章 モリソン号の旅

第二章 ペリーは長期の海外勤務

第三章 ヘボンの辞書が文化を運ぶ。

 

第三章のヘボンに関しては、

「横浜のヘボン先生」等で、

既に親しんでいたため、

あまり新鮮味はなかったが、

特に第一章のモリソン号に関する記述から始まって、

全体を流れる日本人漂流民、

特に音吉彦蔵ストーリーにはかなり惹きつけられました。

 

音吉(おときち、文政2年(1819年) - 慶応3年(1867年1月18日)は、江戸時代の水主・漂流民。後にはジョン・マシュー・オトソン (John Matthew Ottoson) と名乗った。名は乙吉とも記される。山本音吉とも。ロンドンに初めて上陸した日本人(1835年)とされ、マカオで現存する最古とされる日本語訳の聖書の編纂に関係し、モリソン号事件では漂流民として船に乗り、上海デント商会英語版)に勤めた。1849年のイギリス船マリナー号の浦賀来航に際し、中国人「林阿多」(リン・アトウ)と名乗り通訳として同行し、更に1854年日英和親条約締結の際に通訳としてイギリス側に同行した。また、初めてイギリスに帰化した日本人とされており[1][2][3]、ほぼ地球を一周した。(ウィキペディア)

 

 

浜田 彦蔵(はまだ ひこぞう、旧字体:濱田彥藏天保8年8月21日1837年9月20日) - 明治30年(1897年12月12日)は幕末に活躍した通訳、貿易商[1]。「新聞の父」と言われる[2]洗礼名ジョセフ・ヒコ (Joseph Heco)。幼名は彦太郎(ひこたろう)。日本人で初めてアメリカ合衆国の市民権を取得した(1858年)。帰国後は「アメ彦」の通称で知られた。

 

いずれにしても、日本人漂流民たちの代表例としては、

ジョン万次郎がおそらく日本では最も有名なのでしょうが、

音吉と彦蔵もジョン万に負けず劣らずの

真の幕末の英雄達だったと見て間違いないのではないでしょうか。

 

しかし、何故、日本人漂流民の音吉らを、

わざわざ善意で香港・沖縄経由で日本へと送り届けようとした

米商船モリソン号は軍艦でもなく、

非武装の単なる小型帆船なのに、

江戸幕府側からの砲撃の嵐にあったのでしょうか?

 

筆者は当初大いに疑問に思ったのでしたが、

それは直ちに氷解しました。

 

モリソン号事件(モリソンごうじけん、: Morrison Incident)は、1837年天保8年)7月30日、アメリカ合衆国の商船「モリソン号」を日本の砲台が砲撃した事件[1]

鹿児島湾浦賀沖に現れたアメリカのオリファント商会英語版)の商船「モリソン号」をイギリス軍艦と勘違いし、薩摩藩および浦賀奉行太田資統異国船打払令に基づき砲撃を行った(江戸湾で砲撃を命ぜられたのは小田原藩川越藩)。しかし、このモリソン号にはマカオで保護されていた日本人漂流民の音吉庄蔵寿三郎ら7人が乗っており、モリソン号はこの日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航していたことが1年後に分かり、異国船打払令(外国船打払令)に対する批判が強まった[1]。(ウィキペディア)

 

その謎を解くカギは

フェイトン号事件にあるに違いありません。

 

フェートン号事件(フェートンごうじけん)は、文化5年8月1808年10月)、鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が極東の日本にまでおよんだものである。

 

1641年以降、欧州諸国のなかでネーデルラント連邦共和国(のちのオランダ)のみが日本との通商を許され、長崎出島オランダ東インド会社商館が設置されていた。イギリスも江戸時代初期には平戸に商館を設置して対日貿易を行っていたが、オランダとの営業競争に敗れ経営不振のため1623年に長崎平戸の商館を閉館し、その後再開を試みるも江戸幕府に拒絶され続けていた(平戸のイギリス商館については、イギリス(平戸)商館参照のこと)。

 

18世紀末、フランス革命戦争が勃発すると、1793年にオランダはフランスに占領され、オランダ統領ウィレム5世はイギリスに亡命した。オランダでは地元の革命派によるバタヴィア共和国が成立し、オランダ東インド会社は1798年に解散した。バタヴィア共和国はフランスの影響下にあるとはいえ一応オランダ人の政権であるが、フランス皇帝ナポレオン1806年に弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、フランス人によるオランダ王国(ホラント王国)が成立した。このため、世界各地にあったオランダの植民地はすべてフランス帝国の影響下に置かれることとなった。

 

イギリスは、亡命して来たウィレム5世の依頼によりオランダの海外植民地の自国による接収を始めていたが、長崎出島のオランダ商館を管轄するオランダ東インド会社があったバタヴィアジャカルタ)は依然として旧オランダ(つまりフランス)支配下の植民地であった。しかし、アジアの制海権は既にイギリスが握っていたため、バタヴィアでは旧オランダ(つまりフランス)支配下の貿易商は中立国のアメリカ籍の船を雇用して長崎と貿易を続けていた。

事件の経過[編集]

文化5年8月15日1808年10月4日)、ベンガル総督ミントーの政策によりオランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲートフェートンフリートウッド・ペリュー艦長[1])は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した[2]。これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館では商館員ホウゼンルマン(Dirk Gozeman)とシキンムル(Gerrit Schimmel)の2名を小舟で派遣し、慣例に従って長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えのため船に乗り込もうとしたところ、武装ボートによって商館員2名が拉致され、船に連行された。それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装ボートで長崎港内の捜索を行った。長崎奉行所ではフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求したが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけだった。

 

オランダ商館長(カピタンヘンドリック・ドゥーフは長崎奉行所内に避難し、商館員の生還を願い戦闘回避を勧めた。長崎奉行の松平康英は、商館員の生還を約束する一方で、湾内警備を担当する佐賀藩福岡藩の両藩にイギリス側の襲撃に備える事、またフェートン号を抑留、又は焼き討ちする準備を命じた。ところが、その年の長崎警衛当番であった佐賀藩が太平に慣れ経費削減のため守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の10分の1ほどのわずか100名程度しか在番していないことが判明する。松平康英は急遽、薩摩藩熊本藩久留米藩大村藩など九州諸藩に応援の出兵を求めた。

 

翌16日、ペリュー艦長は人質の1人ホウゼンルマン商館員を釈放して薪、水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求し、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきた。人質を取られ十分な兵力もない状況下にあって、松平康英はやむなく要求を受け入れることとしたが、要求された水は少量しか提供せず、明日以降に十分な量を提供すると偽って応援兵力が到着するまでの時間稼ぎを図ることとした。

 

長崎奉行所では食料や飲料水を準備して舟に積み込み、オランダ商館から提供された豚と牛[3]とともにフェートン号に送った。これを受けてペリュー艦長はシキンムル商館員も釈放し、出航の準備を始めた。

 

17日未明、近隣の大村藩主大村純昌が藩兵を率いて長崎に到着した。松平康英は大村純昌と共にフェートン号を抑留もしくは焼き討ちするための作戦を進めていたが、その間にフェートン号は碇を上げ長崎港外に去った。

結果[編集]

結果だけを見れば日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決した。

 

しかし、手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主鍋島斉直に100日の閉門を命じた。

 

フェートン号事件ののち、ドゥーフや長崎奉行曲淵景露らが臨検体制の改革を行い、秘密信号旗を用いるなど外国船の入国手続きが強化された。その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は1825年異国船打払令を発令することになる。

 

この屈辱を味わった鍋島藩は次代鍋島直正の下で近代化に尽力し、明治維新の際に大きな力を持つに至った。

 

また、この事件以降、知識人の間で英国は侵略性を持つ危険な国「英夷」であると見なされ始め、組織的な研究対象となり、幕府は1809年に本木正栄ら6名の長崎通詞に英学修業を命じ、それに続いてオランダ語通詞全員に英語とロシア語の研修を命じた[4]。本木らはオランダ人商人ヤン・コック・ブロンホフから英語を学び、1811年には日本初の英和辞書『諳厄利亜興学小筌』10巻が完成し、1814年には幕府の命による本格的な辞書『諳厄利亜語林大成』15巻が完成した[4]

 

一方、イギリスは1811年になってインドからジャワ島に遠征軍を派遣し、バタヴィアを攻略、東インド全島を支配下に置いた。イギリス占領下のバタヴィアから長崎のオランダ商館には何の連絡もなく、商館長ドゥーフらはナポレオン帝国没落後まで長崎出島に放置された。ドゥーフたちは本国の支援もないまま、7年もの年月を日本で過ごしていくこととなる。(以上、ウェキペディアより)

 

以上が、米商船モリソン号事件の原因あるいは遠因となったと見られる

英軍艦フェイトン号事件の概要なのですが、

幕末に敗軍の将となった榎本武揚をして

「我々は、薩長に負けたのではない、イギリスに負けたのだ」と言わしめた

(出所:「新・幕末史 グローバル・ヒストリーで読み解く列強vs日本)

大英帝国と英海軍最盛期の19世紀の歴史とかなり整合的に見えます。

 

そこで、筆者は、幕末維新は米国ペリーではなく、

むしろ英国フェイトン号事件で

既に始まっていたのではないかとの疑問を抱き始めています。

 

しかし、筆者のそのような疑問に対して、

Bingは次のような教科書的な回答を示しました。

 

(Bing)  フェートン号事件は、文化5年8月(1808年10月)、鎖国体制下の日本で起きたイギリス軍艦の侵入事件です。この事件は、ナポレオン戦争の余波が極東の日本にまで及んだもので、イギリス海軍のフリゲート艦フェートンがオランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港しました1

 

この事件は、日本が外国の脅威に対してどれほど無防備であったかを露呈し、その後の日本の外国船に対する警戒心を高めるきっかけとなりました。フェートン号事件の後、幕府は異国船打払令を発令し、外国船を強く排除する方針を打ち出しました。これは、日本が外国との関わりをより一層制限することにつながり、結果的に幕末維新へと繋がる一因となったと言えます2

 

しかし、幕末維新がフェートン号事件で既に始まっていたとは言い難いです。幕末維新は、より広い意味で、日本が近代国家へと変貌を遂げる過程全体を指し、多くの内外の要因が複雑に絡み合って進行しました。フェートン号事件はその過程の中での一つの出来事に過ぎず、維新の始まりとするには時期が早すぎると考えられます。維新の動きが本格化するのは、ペリー来航や安政の大獄など、より後の時期の出来事が重要な役割を果たしています。フェートン号事件は、幕末維新への道のりの中で、外国の圧力に対する日本の対応の変化を示す重要なマーカーであると言えるでしょう12

 

(中丸)  明治維新は、結局、薩長による尊王攘夷派による倒幕の結果です。

維新への動きは下関事件が典型ですが一貫して攘夷ではありませんか。

 

幕府側は、むしろ、ペリー、ヘボンやハリス等の小国主義的な

共和制の米国に触発されて、

開国に動いていたのではありませんか。

 

むしろ薩長は尊王攘夷で、君主制の英国によるアヘン戦争すら厭わない大国主義や

軍国主義的な大英帝国主義に、ほぼ始めから向かっていたのではないでしょうか?

 

これに対して、幕府側は当時の世界の覇権国である

大英帝国に対抗するために、

むしろ米国の共和制と小国主義で当初から拮抗させようとしていました。

 

しかし、南北戦争というの内乱の影響で米国からの支援が困難になっていった1861年以降は、

米国に代わり主としてフランスの支援によって

大英帝国の覇権主義をけん制させるバランス戦略を採用していたように見えます。

 

そうだとすると、やはり、米軍艦のペリー来航よりも英軍艦によるフェイトン号事件こそが、

幕末と維新という我が国の大内乱のそもそもの起点になった

ということも可能なのではないでしょうか。

 

(Bing)  幕末期の日本は、内外からの様々な圧力により、大きな転換期を迎えていました。尊王攘夷派として知られる薩摩藩と長州藩は、外国の脅威に対抗するために、外国船の打ち払いを主張しました。特に長州藩は、下関事件(馬関戦争)で実際に外国船を攻撃し、その結果として四国連合艦隊による報復を受けました1

 

一方で、幕府はペリーの来航やヘボン、ハリスなどのアメリカ人との接触を通じて、開国の必要性を感じていました。ペリー来航後の日米和親条約締結や、その後の安政五カ国条約は、幕府が主導権を握りながらも、外圧に屈して開国を進めたことを示しています2

 

薩摩藩と長州藩が尊王攘夷の立場を取りつつも、最終的には倒幕へと方針を転換し、薩長同盟を結成しました。この同盟は、幕末から明治維新へと続く動きの中で重要な役割を果たしました。薩摩藩は、一時期は佐幕派として行動していましたが、長州藩との同盟により、倒幕の方向へと舵を切ったのです3

 

モリソン号事件は、幕末期の日本が外国との関わりをどのように捉えていたかを示す出来事であり、ペリー来航と並んで重要な意味を持っています。しかし、ペリー来航が幕末の動きを加速させたという点で、より大きな転換点となったと考えられます。フェイトン事件やモリソン号事件は、日本が外国との関係を再考するきっかけを提供したという点で、幕末維新の歴史的背景の一部として重要ですが、ペリー来航が開国への直接的な契機となったと言えるでしょう4

 

いずれにしても、簡単に解消するような幕末維新に関する歴史問題ではないのですが、

「ペリーとヘボンと横浜開港」は、同本の中にある興味深い音吉、彦蔵、モリソン号事件から、

本では触れられていないフランス革命の余波としてのフェイトン事件と

幕末の関係性という可能性にまで視野を広げることもできるものと思われ、

期待以上に面白くて、また有意義な読書となりましたニコニコ

 

ご参考になれば幸甚です。