週のはじめに考える 消える「民主」と「6・4」 | 元世界銀行エコノミスト 中丸友一郎 「Warm Heart & Cool Head」ランダム日誌

元世界銀行エコノミスト 中丸友一郎 「Warm Heart & Cool Head」ランダム日誌

「経済崩落7つのリスク」、
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「日本復活のシナリオ」等の著者による世界経済と国際金融市場のReviewとOutlook

「国家の盛衰を決めるのは、政治経済体制が収奪的か包括的かの差にある」(アシモグルら)

掲題の今朝の東京新聞社説。

かなり説得的。

ご参考まで。

 

 中国では今年6月4日、当局が歴史から葬り去りたいと願う事件から35年を迎えます。国も共産党も、犠牲者遺族らが求めている事件の再評価どころか、真相究明にも背を向けたままで、その日はまた過ぎゆく気配です。例年と異なるのは、香港で民主化運動が壊滅させられたことで、事件を悼み、抗議の声を上げる機会が、今後中国全土から完全に失われるだろうということです。

◆天安門事件をタブー視

 その事件とは、1989年6月4日に北京の天安門広場で、学生らによる民主化運動が武力弾圧された天安門事件です。中国の公式発表ですら死者319人に上る流血の惨事ですが、機密解除された英外交文書は犠牲者数「1万人以上」と推計しており、事実関係すらいまだに明らかではないのです。国民は事件を一般的に「6・4」などと呼びます。

 

 中国当局は今も事件をタブー視し、その数字にさえ神経をとがらせています。香港からの報道では、杭州で昨年秋に開催されたアジア競技大会の陸上女子100メートル障害決勝で、中国選手2人がレース後に抱き合った写真が、当局の検閲対象になったといいます。2人が腰につけたゼッケンの番号は「6」と「4」で、事件の日付を連想させるとして問題視されたようですが、滑稽なまでの過剰反応に啞然(あぜん)とします。

 

 事件の評価については、2021年に公表された中国共産党の「第3の歴史決議」には、「政治風波(政治的もめごと)」や「動乱」と記されました。中国政府は事件後、この公式見解を繰り返してきました。ただ、「風波」という軽い言葉で民主化運動の意義を矮小(わいしょう)化し、反体制的な「動乱」と決めつけるのは、武力弾圧を正当化するための方便に感じます。

◆武力弾圧を決めた鄧氏

 香港では今年3月に国家反逆行為などを取り締まる国家安全条例(国安条例)が成立しており、事件の真相究明を求め追悼する活動は完全に封じ込まれるでしょう。

 

 「一国二制度」の香港では追悼活動が認められ、毎年6月4日にビクトリア公園で大規模なろうそく集会が行われてきましたが、中央政府が2020年に香港国家安全維持法(国安法)を施行して以降、集会は禁止されました。それでも昨年までは、集会を強行しようとして警官隊に強制排除される民主派が存在しましたが、国安法を補完する国安条例が「香港の民主」にとどめを刺しました。

 

 元々、「一国二制度」は、香港返還を巡って難航した中英交渉の中で、時の最高権力者・鄧小平(とうしょうへい)氏がひねり出した政治的知恵でした。ただ、元中国紙記者は、「中国の立場からすれば、『一国二制度』は大陸では社会主義、香港では資本主義の二制度をとるという趣旨ではなく、『一つの中国』を前提に香港で一定期間、資本主義を許容する、という意味にすぎない」と解説します。だからこそ、時限的な「例外」である香港で、一党独裁による社会主義を脅かすような政治的自由を認めることはないというわけです。

 

 一方、「6・4」、天安門事件の悲劇的結末に深く関わっているのも、また鄧氏です。学生の民主化運動に理解を示し、政治改革の必要性を認めていた元党総書記の胡耀邦(こようほう)氏、事件当時の総書記だった趙紫陽(ちょうしよう)氏に対し、経済面では「改革開放の総設計師」と呼ばれながら、政治改革には絶対反対の立場をとっていたのが事実上、中国トップの鄧氏でした。結局、鄧氏は事件の武力弾圧の腹を決め、人民日報に「旗幟(きし)を鮮明にして動乱に反対せよ」との社説を掲載させます。後は、周知のような血しぶきの結末。趙総書記は政治の表舞台から姿を消しました。

 

 鄧氏は政治改革を認めると、一党独裁の体制転覆につながりかねないと恐れたのでしょう。日本外務省が20年に公開した外交文書で鄧氏が、1989年11月、日本の経済訪中団に事件に関して「国権が人権を圧倒する」と述べたことが明らかになっています。近年の習近平(しゅうきんぺい)政権では「国権」が何よりも優先する姿勢はさらに強まったとも言えましょう。その流れの中で、香港民主も「6・4」も葬り去られようとしているのです。

◆政治改革に希望を見る

 今年の6月4日には、米ニューヨークや台湾で事件の追悼集会が計画されています。事件を歴史の闇に封印しようとする動きは許されませんが、習政権のグリップが強まる中国本土は無論、苛烈な民主勢力弾圧が続く香港でも、追悼集会が復活するのは極めて困難に思われます。ただ、事件で失脚したとはいえ、政治改革の実現に政治生命を懸けた指導者が中国にも存在したという事実に希望を見いだしたいと思うのです。