司馬遼太郎生誕100年 作品にみる横浜
掲題の2023年9月11日付産経ウェブ記事。
ご参考まで。
越後長岡藩(7万4千石)の河井継之助の生涯を描いた作品。河井は戊辰戦争の時、藩の局外中立をはかって官軍と幕軍の調停を試み、官軍に嘆願するも受け入れられず、結局、奥羽越列藩同盟に加わり官軍と対峙(たいじ)し、藩を滅ぼすことになる。広い知識をもち時代を見通しながらも、「サムライ」の美意識に殉じたのであった。
作中では横浜がしばしば登場し、重要な舞台となっている。
河井の行動や思考方法に横浜という地が、そして横浜にいた外国人が大きな影響を与えたといえる。河井は横浜を通して政治、経済を学び、外国の文化、文明を実感し、西欧世界を見たのであろう。河井の生き方を決定づけた地が、まさに横浜であった。
作中には開港直後の横浜について
「この町はほんのすこし前までは人家五十軒程度の漁村にすぎなかったが、先々月にここが開港場に指定されてから日に日に内外の商店がふえ、もはや市街地を形成しはじめている。(中略)この土地は町人が商いをするためにできた町である。(中略)のちのち日本中の港市が横浜同然になれば、武士階級はほろび、町人の世にならざるをえないであろう」
と、にぎわい始めている様子や町の性格が描写されており、さらには資本主義経済の力および封建主義の行き詰まりなども暗喩している。
河井は、武士にも商人の感覚が必要と考え、備中松山藩の山田方谷(ほうこく)のもとを訪れる旅にでる。その際に書いたのが日記『塵壺(ちりつぼ)』で、旅立ち早々、開港直後の横浜に寄った記述がある。
「(安政6=1859年)六月七日 神奈川泊」から引用すると
「横浜へ行く。新たに出来し家にて、色々店を広げ、中にも目立つは塗物店、其の結構、都会にもなき処なり。未だ普請も出来上がらず、銀銭の価も定まらざる故、交易も墓々(はかばか)しからず。出来揚(あが)りに成(な)らば、嘸(さ)ぞ立派に相(あ)い成る可(べ)し」
この時代、武士の多くは横浜および外国人に対して嫌悪感、攘夷の気持ちを抱いていただろう。
しかし河井は冷静、客観的に横浜の町、経済動向を観察し、かつ横浜の発展性をも予見している。
当時の日本は外国との金・銀価格差があり、日本の損失は大きかった。河井もその点に着眼している。鋭い観察眼をもっていたのである。(随時掲載)
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増田恒男(ますだ・つねお)
昭和23年、横浜市生まれ。44年、日本大学卒業後、同市役所に勤務。平成12年から司馬遼太郎記念館(大阪府東大阪市)に勤務し学芸部長を務める。22年に退職。主な著書に『佐藤政養とその時代-勝海舟を支えたテクノクラート』などがある。論文も『神奈川台場考』『保土ケ谷宿をめぐる文芸と文人たち』『文明開化を生きた歌人-大熊弁玉』など多数。