⑤『胡蝶の夢』 「語学の天才」司馬凌海 | 元世界銀行エコノミスト 中丸友一郎 「Warm Heart & Cool Head」ランダム日誌

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司馬遼太郎生誕100年 作品にみる横浜

 

掲題の2023年9月7日の産経ウェブ。

ご参考まで。

 

幕末から明治にかけて蘭学を学び医学を志した松本良順、司馬凌海、関寛斎の眼から、激動した日本を重層的に見据えた作品で、江戸身分制社会の不合理さ、悲惨さ、怒りが作品の底流に流れている。

「横浜は第三勢力形成」

主人公の松本は旧幕府医学所の頭取で、維新後に軍医総監になった。司馬凌海は松本の弟子で佐渡の出身、名は島倉伊之助。語学の天才といわれたが、世間からは誤解され、周りの人々からは嫌われて短い生涯を終えている。関は、徳島藩により招かれて侍医となるが、維新後、医者を捨て北海道で開拓生活に入るも大正元(1912)年に自裁する。3人とも長崎で幕府がオランダから招聘(しょうへい)した医者のポンペ・ファン・メールデルフォールトに医学を学んでいる。

 

特に、横浜と深く関わるのは司馬凌海である。

 

維新直後に横浜へ来て、新政府の横浜裁判所に雇われたのである。作中では、横浜が開港した経緯、土地の地勢などが細かく記述されている。注目すべきは、維新直後の日本の政治状況から横浜の占める立場について

 

「日本の政情が東西にひき裂かれ、これに対し、外国公館と居留地をもつ横浜は、その第三勢力を形成しているといってよかった」

「たしかに新政府は横浜という点のみを得た。幕府の神奈川奉行所を接収し、その建物の門柱に、『横浜裁判所』という看板をかかげ、旧奉行所の機能をひきつごうとしていた」

 

横浜は新政府、旧幕府にとっても枢要な位置にあった、と明快に書いている。

雇われ英語を教える

司馬凌海は、新政府の横浜裁判所の総督、東久世通禧(みちとみ)(七卿落ちの一人)に雇われて英語を教えた、とある。

 

佐渡で出版された『寫真(しゃしん)集・司馬凌海先生』の年表には、明治元(1868)年の項に

「横浜にいて東久世通禧の通訳をしていたらしい」

とあり、ややあいまいな記述となっていた。

 

東久世の日記「慶応四戊辰年日録」が『神奈川県史』に収載されており、6月14日の項には

「今日より司馬凌海に英国文典(文法書)を読習す」

と記されており、『胡蝶の夢』の調査が行き届いていたことに驚いた。

 

司馬凌海は「語学所」、そして「軍陣病院」につとめている。

語学所は『街道をゆく(横浜散歩)』においても説明されており、幕末に幕臣やその子弟にフランス語を学ばせる所で、慶応元(1865)年の開校といわれ、教師は、勝海舟から「妖僧」といわれたフランス人のメルメ・カションだった。

 

軍陣病院は、イギリス人の医者、ウイリアム・ウイリスの発案により当初、江戸での開設が予定されたが、野毛山修文館(旧幕府の漢文学校)に変更され、患者数の増加に伴い、太田陣屋(現・横浜市中区)を使用したのである。野毛山修文館は、現在の老松(おいまつ)中学校(同・横浜市西区)の場所で、やがてこれが十全病院となり、横浜市立大学医学部病院の前身だとの説もある。

 

なお、軍陣病院で治療を受け、死亡した者は56人。横浜市西区の久保山墓地の官修墓地に長州藩士7人、土佐藩士7人の墓がある。

旅籠の一隅で逝った

明治12(1879)年、司馬凌海は結核の治療のため、静養していた熱海から東京へ向かう途中、東海道戸塚宿で没した。

 

作品ではその最期を

「戸塚の宿(しゅく)の松原が夕もやにけむるころ、旅籠(はたご)に着いた」

「夜、大喀血をし、窒息したのかどうか、旅籠の一隅で誰にも看取られることなく逝(い)った」

戸塚宿のどの旅籠か特定しようと調べてみたが、現在のところ不明である。

 

入澤達吉医学博士の『司馬凌海傳(でん)』(昭和4年)に

「病が癒へない為(た)め、東京に帰らんとして、途中東海道の戸塚で逝去」

と簡潔に記されているだけで、場所の特定はなかった。

 

墓は当初、東京都豊島区の駒込にあったが、その後、東京都港区の青山霊園に移されている。(随時掲載)

増田恒男(ますだ・つねお) 昭和23年、横浜市生まれ。44年、日本大学卒業後、同市役所に勤務。平成12年から司馬遼太郎記念館(大阪府東大阪市)に勤務し学芸部長を務める。22年に退職。主な著書に『佐藤政養とその時代-勝海舟を支えたテクノクラート』などがある。論文も『神奈川台場考』『保土ケ谷宿をめぐる文芸と文人たち』『文明開化を生きた歌人-大熊弁玉』など多数。