掲題の今朝の朝日社説。
かなり説得的だが、
問題なしとしません。
設計図がないわけではありません。
例えば、拙著「日本復活のシナリオ」なら、
既に上梓した2021年11月からあります。
さらに、2022年春以降に台頭してきた
我が国のインフレや「生活費高騰の危機」への対応も、
「日本大復活!」のシナリオが既に存在しています。
遺憾ながら、同社説も含めて、
アベノミクス三番煎じに過ぎない、
キシダやウエダノミクスによる、
「物価高騰に打ち勝つ賃金上昇を狙え」等とする
「二兎を追うもの一兎も得ず」に過ぎない虚言や
蜃気楼等に惑わされて、
改革への有効なアイデアに
少しも思い至らないだけなのでしょう。
ここは日本の主要メデイアに期待するよりも、
世襲化・特権化が一段とすすむ
自民党最大派閥の安倍派を中心とする我が国の「上級国民」が
主として高インフレ税や10%消費税率などによって
一般国民を収奪・搾取する
非民主的で非包括的な政治経済体制の打破を、
一般国民自身が自覚し、
強い意志とともに自らが狙う以外にないでしょう。
所詮、自民党や公明党などの与党の支持率など
たかが知れているというものです。
無党派層こそが日本の選挙民の過半数を
既に占めているではありませんか。
新年早々にも予想される総選挙では、
一方で、安倍派を中心とする「政治とカネ」の不祥事と、
他方で、「アベノミクス三番煎じでカネ余りの中で、
制御不能なインフレと資産バブル増幅」を所与とすれば、
民主的で包括的な政治経済体制への「令和維新」が
起こり得ると信じようではありませんか。
すくなくとも、
本年前半にも起こり得る次期総選挙では
世襲化し特権化する議員には
一切投票しないことにつきるでしょう。
それだけでも日本大復活への光が
見えてこようというものです。
遺憾ながら、リベラルな同社説とはいえ、
それらの意味では期待外れの論説と言わざるを得ません。
繰り返しますが、日本の将来を決めるのは、
権威や主要メデイア等ではありません。
我が国の未来を切り拓けるのは、
私たち一人一人の自覚と強い意志以外にないのです。
国会周辺にも白いものが舞った。東京23区は大雪注意報発令下だった。
94年1月29日未明、衆院内の一室は外気とは対照的な高揚感に包まれていた。当時の細川護熙首相と野党自民党の河野洋平総裁による「政治改革」合意の記者会見である。
リクルートに始まる金権事件の続発と底なしの政治不信。政界は塗炭の苦しみをなめ、身をよじりながら出した答えが、この合意だった。
30年後のいま、パーティー券裏金問題が広がり、永田町で再び政治改革の4文字が飛び交う。しかしそこに、かつてのような熱はまだない。
言葉だけで終わるのか、「第2の改革」が成就するのか。問われる年である。
■派閥に手を突っ込め
かつて自民党が、政治とカネの問題の元凶として「解消」を決意したはずの派閥は、そのエネルギーを縮減させたとはいえ、なお健在だ。
当時は、旧田中派と、その流れをくむ竹下派が長く権勢を誇り、カネまみれの腐敗土壌を育む象徴的な存在と見なされた。
今回の裏金問題も、最大派閥によって長く続いた「安倍1強」支配のおごりや緩みと切り離して考えることはできない。
スキャンダルの背後に潜む構図は、30年の時を経ても相似形である。
衆院選挙制度の転換を核とする先の改革は、党執行部の権限強化をもたらしはしたが、内部統制のあり方については各党の自発性に委ねた。
いわば積み残しにしてきた古くて新しい課題を、これを機に改めて取り上げなければならない。
派閥、とりわけ権力派閥の振る舞いに手を突っ込まない限り、政治資金の透明化はおぼつかないというべきだろう。
■資金問題だけでなく
30年前の改革実現に大きく寄与したとされるのは、与野党にまたがる当選1、2回の若手議員だった。
世論の逆風を肌で感じた彼らの危機感は尋常ではなく、各党幹部を激しく突き上げた。改革への慎重派や懐疑派が座る会議に押しかけ、文字通り肉弾戦を繰り広げる場面もあった。
まだ若手が比較的自由に物を言えた時代だったのだろう。それは皮肉にも、改革が諸悪の根源と見なした中選挙区制の効用だったかもしれない。同士打ちの激戦を自力で勝ち上がってきた議員には、「怖いものなし」とうそぶく者がいた。
小選挙区制の導入によって、首相と官邸、党執行部に権力が集中し、陣笠議員の比重はいよいよ軽くなった。選挙の度に生まれる「○○チルドレン」と呼ばれる新人は、おおむね従順でおとなしい。
若手に限らず、物言えば唇寒しの風潮も年を追って強まっている。
今回再浮上した政治改革論議をめぐり、風通しのいい党内論議がどれほど交わされるのか、心もとないといわざるをえない。
政治とカネが当座のテーマだとしても、改革を論じる機運がともかくも生じたのだとすれば、さらに幅広い論点への挑戦をためらうべきではない。
30年という節目にあたり、先の改革の功罪、あるいは不足と過剰といった点に着目した再検討は必須ではないか。
例えば、安倍元首相に典型を見る「強すぎる首相」という問題である。
その長期安定の見かけとは裏腹に、極めて短期志向の政権運営が際立った。任期を多く残して恣意(しい)的に衆院を解散し、その度に政策の看板を掛け替えた。
この間、国の借金や社会保障といった長期的な重要課題は閑却された。
岸田首相も先の通常国会でいたずらに解散風を吹かせ、「専権」をもてあそんだ。
首相の、正確には内閣の解散権をどう考えるか。これも古くから積み残され、先送りされてきた大問題である。
■設計図作りの難しさ
先の改革は、「永久与党、万年野党」の55年体制を脱し、二大政党ないし勢力による政権交代のある政治をめざした。
冷戦終結や湾岸危機、バブル経済崩壊といった大状況のめまぐるしい変化に対応し、政治の決定力、実行力を手にしようとする試みであり、それは政治とカネへの取り組みと表裏一体の企図だった。
政権交代は確かに実現したが、全体としての展開はおよそ所期のもくろみとはかけ離れてしまった。
衆参両院のねじれは、決定力を欠く短命政権を立て続けに生み出した。二大政党、勢力への収斂(しゅうれん)は挫折の連続だったし、今後それが実現する兆しもまったく見えない。
国民の政治不信はますます深まり、無関心は広がり、選挙の投票率は下がり続ける。
多くの人間が関わる政治という営みは、描いた設計図通りにいくものではないという現実を思い知らされる。
改革を論じるなら、そのことを踏まえた上で重心の低い議論を進めてもらいたい。