織田有楽斎 | けろみんのブログ

けろみんのブログ

日記・観た映画のこと・観た展覧会の感想

2024.3.3

織田有楽斎 

400年遠忌記念特別展

「信長の弟、茶人の才」


無学な私は織田有楽斎を知りませんでした。なんなら「ゆうらくさい」と入力して変換されずおかしいなと思ってたんです。こういうことはよくある事で伊藤若冲も「わかおき」と読んでましたし、無知って恐ろしいですね。

そして展覧会情報から「逃げた男」というレッテルを貼られていることを知りました。本能寺の変で織田信長の息子織田信忠に自害を勧め、自身は自害せずに逃げたと。自害が美徳の日本人の心には有楽斎のように上手く切り抜けて75歳の天寿を全うしたというのは受け入れ難いところなのでしょう。常に人生の分岐点で重要な決断を迫られる運命を乗りきって賢いです。

全く有楽斎を知らないと思ってましたが国宝の「如庵」は見たことがありました。如庵のあるホテルに泊まったのです。このホテルには犬山城が見える部屋と如庵が見える部屋、どちらも国宝を眺められる部屋があるのですが、私たちは如庵側でした。内心「茶室よりお城が見えた方がいいよぉー」と思ってました。次の日如庵を眺めたかどうかは全く記憶にありません。はとバスのちょっとお高めツアーでした。


展覧会は、書と茶道具が中心でとても地味です。書には現代語訳がついています。昔の人は筆まめで、そしていい状態で現物が保存されていることが凄いです。現代のメールやSNSは手軽ですが後世に残すには紙媒体が1番です。
茶道具には全然興味がわかないのですが鎹で継いである輪花碗や、全然違う陶器でかけた所を補ったお道具など、普通なら価値の下がる破損を修理して大切にする感覚が大名っぽくなくて面白いですね。狩野山楽の蓮と鷺の襖には、五位鷺もひっそり描かれていて可愛かったです。




3月3日この日は記念講演会「有楽の茶の湯」があり、当選したので受講しました。読み方も知らない人物の展覧会なのに、講演会など豚に真珠であるとは承知でしたが、知らない世界(戦国時代)の知らない話(有楽斎)を聞くのが好きなのです。

講師は筒井紘一氏。京都府立大学客員教授、茶道資料館顧問。茶の湯に関するご著書多数。

茶道は、中学1年生のときにお菓子が食べられると言うので茶道部に一日体験して、お袱紗の捌き方に四苦八苦して何かをお袱紗で拭くだけでめっちゃめんどいことをしなきゃいけないことに辟易してすぐ諦めました。その後は茶道の家元について学び、着物を着てあちこちの茶会に招かれ……るような良いとこ育ちじゃないので未だに謎の世界です。

それなのにこの講演会、茶道についての基礎知識が必要ですし、お話し言葉が上品なので聞き取りも難しく(おしょうきゃく??焼却?償却?正客か!)完全に場違いで申し訳なく思いました。しかも隣の席は正伝永源院の副住職様で恐れ多かったです。

しかし先生の語り口はとても魅力的で面白く、思わず笑ってしまうことが度々ありました。特に時間オーバーした頃の、これも話そうかな、でも時間が……やっぱりやめておくいや話そう、と結局決心してお話になったところが良かったです。

講演会のレジュメがコピーした資料を貼って手書きで題名、番号がふってあり、とても味わい深いです。


その中から有楽斎についての茶道事典からの記述をコピーしました。①②などと振って下線をつけたところは、下に先生のお話を入れました。

織田有楽【おだうらく】天文16年(1547)—元和七年(1621)十二月十三日。安土桃山の大名。通称源五、名は長益。信長の弟(信秀の十一男)。室は平手中務小輔政秀の娘。本能寺の変後秀吉に仕え、 御伽衆となり、摂津国嶋下郡味舌2000石を領した。関ヶ原の役には徳川方に属し、戦功により大和国山辺郡の地を加えられ、都合三万石の領主となった。慶長十九年(1614) 大坂冬の陣が起こった時、秀頼の生母淀殿の叔父に当たる関係から、大坂城に入った。が、徳川方に背馳することの不利を説き、関東からの和議提案に対し積極的に斡旋の労を取っている。和睦成立後は城を出て京都東山に隠棲し、夏の陣には東西いずれにも加担することなく静穏な晩年を送った。ただ元和元年六月家康より大坂城炎上で焼失した茶道具のことを問われている(『駿府記』)。また同年八月幕府に請願して、所領三万石のうち四男長政に大和国戒重一万石、五男尚長に大和国柳本一万石を分与、残りの一万石は養老料として手元に保留し た。茶湯を利休に学び、更に創意工夫を加え、有楽流と称する一派を開いた。①利休門下七哲の一人 に加えられるほどの数寄者であった(『古今茶人系譜』」。茶会参席の早い事例としては、③天正十一年 (1583) 十月大坂での津田宗及茶会に秀吉とともに出席したことが挙げられる(『天王寺屋会記」)。茶人としての評価が高まったのは同十八年以降とみてよい。②書院風の台子茶にも関心をもったが、利休相伝の侘びたる数寄屋の茶事に執心した。大徳寺 の玉室宗珀に参禅し、古澗慈襠(建仁寺)・昕叔顕晫(相国寺)らの禅僧と親交を結び、また一休宗純,古岳宗亘,虛堂智愚などの墨蹟を好んで茶掛に用いた(『有楽亭茶湯日記』)。有楽自会は、文禄元年(1592)十一月肥前名護屋の陣中で催して以来多くなる(『宗湛日記』)。茶室としては、京二条囲・大坂天満囲・春草炉・如庵などが知られる。
書院・大広間の飾り付も担当し、秀吉の前田利家邸御成りの時は、有楽がことごとく指図して完成させたという(『文禄三年前田邸御成記』)。有楽茶会には公家・武士・僧侶・町衆などあらゆる階層の茶湯堪能者が参席し、また道具も京極茄子·宗伍茄子·草部屋肩衝·玉垣文琳など有楽所持の名器が使用された(『有楽亭茶湯日記』)。元和四年建仁寺塔頭正伝院を再興、菩提所とし、続いて斬新な意匠で知られる茶室「如庵」を造って余生を送った。有楽の茶の継承者としては孫の三五郎長好、 堺妙国寺の住僧高橋玄旦、織田信貞の子貞置がおり、その理念と作意は『茶道正伝集』『喫茶織有伝』により後世に伝えられた。如庵有楽正伝院と 号した。「渡辺良次郎]

①利休七哲に入る時と入らない時がある。七哲の記述のある「茶湯逸話集」(千家の伝承)「茶湯古事談」などに常にスタメンな人もいれば、落ちたり落ちなかったりする人がいる。裏千家では、有楽斎は七哲に入らない。


②書院風の台子茶と利休相伝の侘び数寄屋茶事
書院の道具は完璧が求められる。
侘び数寄の道具は「今少しかくあるべし」が良い。
もうちょっと〜ならいいんだけどなー。くらいの「隙」があるのがよい。

③津田宗及茶会1583年10月
客 羽柴秀吉、織田有楽、前田利家
台子 文琳 天目茶碗を使用。

この「台子」というものが何か知らなくて聞くと???な話です。台子とは水差しなどをおく茶道具の1つで秀吉によって秘伝とされ7人に伝授された(北斗の拳みたい)

1607年、大阪で有楽斎、織部を請して台子茶湯が行われた。四ツ飾り、二ツ置きの最高の組み合わせで水差しは朝鮮渡りの逸品でこのような場合見物するべきなのに織部公は所望しなかったので有楽斎はその様子を覗いて(織部は台子の茶をわかってないんだな)とニヤニヤとわらっていた。その後織部は台子の茶をよく知るため棚の中をよく見せて欲しいとお願いした。そしてよく見ておこうと風炉の炭の置き方まで確認しようとしたら風炉が熱くて飛び上がってしまい、台子の天井に頭をぶつけてお道具散乱。もうむちゃくちゃになってしまったので有楽斎はここで一転、枕を取り出して
「織部ちゃん京で色々気詰まりだったんでしょ、今日はお作法抜きでのんびりしよ」と言って小姓が茶を立てるのを2人で寝っ転がりながらみてた。

という逸話が残っています。

その他、興味深かかったお話


・利休の教えから更に使う道具を変化させたのが織部、所作など成形を変化させたのが有楽斎

・一汁三菜は、変わってないらしい

1593.1.17 朝の御会事(この頃は朝茶が主流)

一、つほ皿に鮭焼き物串刺しにしてひとつ
一、汁 サクサクにササへ薄く切り入れて
一、ごぼうの白あえ
一、めし
一、黒平皿に膾 大根しらかたい、くらげ、しょうが菓子に 牛蒡、椎茸煮しめて

なんだか美味しそう!お弁当のおかずみたいなメニューですね。

・綺麗好き過ぎるのはいけない。常は普通、何かの時に綺麗にしていると良い。

・古いものが尊ばれるが家で使うには新しいものが良い

・お正客(神のような存在)に尻を向けるのは超失礼だが、点仕舞い建水の所だけは客に後ろを向けて良いと有楽は教えた。神経痛持ちのひとがしりを向けないように取り込んでひっくり返して大変なことになったからだそう。建水とは、点前の際お茶碗をすすいだ湯水を捨てる器物。

茶道の作法にはキッチリ意味があるのでそれを頭に入れると楽しめるんじゃないのかと思います。私には縁がないですが……

 

ナマニクさん寄稿の雑誌はここでかえるよ!