京都・智積院の名宝展 | けろみんのブログ

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京都・智積院の名宝


2022.11.30~2023.1.22




京都の三十三間堂近くにある智積院は、真言宗智山派で成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山など大きなお寺の総本山になるありがたいお寺だそうです。私はかなりのばかなので、ちしゃくいんがよめず「ちけんいん」と発音しました。最近TikTokにハマってるのですが、そのライブでも「私明日ちけんいんのなんとかっていう、てんらんかいにいくの」などといい、まるで展覧会に行くという文化的な活動をアピールしたかのように見えて、実は展覧会の名前を読めてないし最後まで覚えていないという知識の浅さをお披露目してしまったのです。



さて智積院は根来寺という、寺が豊臣秀吉に滅ぼされた寺が起源でその後秀吉の子、鶴松がなくなった時の供養に立てた寺祥雲寺(供養のために長谷川等伯ととの一派が描いた金碧障壁画がある)の場所に再建したものです。その為貴重な長谷川派が93枚描いた金碧障壁画がそのままひきつがれました。

全てが

①金碧障壁画である

②花木図である(鳥などは描かれない)

③大画方式(樹木を大きく描く)

ということで一貫してます。



その後の大火やらなんやらで障壁画は数が減り、1度「まくり」(屏風や襖から外した状態)になってましたが、1705年に書かれた目録に、追記として1727年には再び襖の形に仕立てられた、と記されています。


そのため、この金碧障壁画はあちこち切り貼りされて小さくなったり、大きくなったり間が抜けていたりします。


この展覧会のサブタイトルは「叙情と荘厳」です。それはこの、長谷川等伯率いる金碧障壁画によく現れている特徴です。


長谷川等伯は能登の七尾に生まれ、初めは仏画、肖像画を描き上京してからは宋元絵画に触れました。トーハクの「松林図屏風」が長谷川等伯の水墨画の代表作なら、金碧障壁画の代表作は智積院の楓図に違いありません。

今回は息子長谷川久蔵の描いた「桜図」と並んで初めて展示されます。

この金碧障壁画が秀吉の子供鶴松の供養のために作られたものであることに加え、長谷川等伯の息子久蔵は鶴松三回忌を待たずに亡くなったため、この絵は豊臣秀吉親子、長谷川等伯親子の子供を弔うものとなってしまいました。


松に秋草図(国宝)長谷川等伯

2m28cmと描かれた当初の大きさのままである。大画面に臆することなく巨大な松をドンと描き、むくげ、すすき、紅白の菊、ふようと繊細な秋草が画面いっぱいを占め、桃山時代の狩野派が作り上げた大画の手法に長谷川等伯らしい叙情性をもたらしている。白い花が多いのは鶴松の供養のためだとか。


楓図(国宝)長谷川等伯

六面のうち二面が別になっているが元々北側に展示されていたため、その面だけ色鮮やか。



桜図(国宝)長谷川久蔵

咲き誇る桜は、落雁菓子のように盛り上がっていて、写実的に描かれたほかの花々と違いデザイン化されている。地面には、可愛らしくすみれやたんぽぽも描かれている。私には狩野派との違いは、よくわかんない。


松に黄蜀葵図(国宝)長谷川等伯

3m30cmという大きさにまけない、風が強く吹いているようなダイナミックな画面。本当の画面はもっと小さく、上に横の図を載せているような形になっている。上に雲といきなり松の枝があるせいで、ちょっとおかしな構図になってて気が変になる。


雪松図(国宝)長谷川派

娘婿長谷川等秀が描いたのではないかといわれている。清々しい、雪模様の松。松自体は季節関係ないが雪と、椿など冬の花を添えることで季節感をだしている。松の色がほかのと少し違った。


十六羅漢図屏風 長谷川等伯

等伯死の前年に描いた作品。十六羅漢のユーモラスな顔が良い。


他にも、張即之という天才書家が書いた「金剛経」は太い線と細い線のコントラストがすばらしく、同じ張即之の杜詩断簡では大きな文字が太くダイナミックに書かれていてその違いをみたり、堂本印象の滅多に見られない障壁画など寺のお宝がいっぱい。


なんと言っても長谷川派が描いた障壁画の展示がダイナミックで、現在まで伝わってよかったとおもえる展覧会でした。