「日本美術をひも解く」皇室美の玉手箱 | けろみんのブログ

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東京藝術大学大学美術館で開催されている、特別展「日本美術をひも解く」

東京藝術大学

正木記念館階段


2020.8.6~9.25まで開催されます。
尚、前期1は終わり、9月6日から後期になります。前期、後期に分かれているとはいえ8月28日まで前期、8月30日から後期という作品(動植綵絵など)と、9月4日まで前期、9月6日から後期という作品(屏風土代など)があり、なんか複雑です。これを書いているのが9月5日なので、今からは展示替えや場面替えのある作品は完全に終わっていますが。

この展覧会は今まで三の丸尚蔵館所蔵の名品たちは国宝指定を受けず特別扱いでしたが昨年から制度が変わって、5件の作品が国宝指定されたことをうけての展示です。

通期展示の国宝作品→
「蒙古襲来絵詞」(前巻、後巻の入れ替えあり)
「春日権現験気記絵」(巻四、巻五の入れ替えあり)

前期の国宝作品→
狩野永徳「唐獅子図屏風」

後期の国宝作品→
小野道風筆「屏風土代」
伊藤若冲「動植綵絵」

と分けられます。

【唐獅子図屏風】
感想
右隻を狩野ATOKじゃない永徳が桃山時代に、左隻を曾孫の狩野常信が江戸時代に制作した作品。獅子は想像上の動物でライオンと思わなければ違和感がないが、筋肉かと思われるサッカーボール的な丸い模様とたてがみが見事なカールを描き、力強い武士のようです。そんな所が権力者に愛された画風なのでしょうか。友人が日本画の巨匠の曾孫であられる方で、しかも唐獅子を描いている巨匠なので友人が横に一幅描いたら狩野常信の唐獅子のようにはしゃいだ感じになるかな?などと全然関係ないことを考えました。

【蒙古襲来絵詞】
蒙古人達の服装やサンダルのような履物をみて「どこか見覚えがある」と思ったら一時期流行ったゲーム「ゴーストオブツシマ」でした。デザイナーは教養が深いなぁと思いました。
【屏風土代】まだ見てないのでわかりません……
チラシには「漢字から和様を築いた三跡の一人」とあります。素晴らしいですね!⟵(何も分かってない)

【春日権現験記絵】
鎌倉時代、1309年頃と700年もの時を経ているにも関わらず、制作事情が全て明らかで西園寺公衡が発起し鷹司基忠父子が詞書を担当し、高階隆兼が絵を担当したことが目録から分かっています。しかも20巻全てが欠けることなく伝わっています。絹本なのに!すごい凄いです。
お話は20巻全て春日大社への信仰心を忘れないと出世したりいい事があり、疎かにしたり、春日大社を蔑ろにする政などがあると厄災が訪れる、などとにかく飴と鞭な春日大社に翻弄される人や天狗達が色鮮やかに、細かく丁寧に描かれています。
顔料や染料の階調を増やすため絹地の裏から彩色するという「裏彩色」技法が使われています。
これは伊藤若冲も色鮮やかな画面を作るため使っており、伝統的な技法のおかげで、何百年たっても艶やかな色合いが保たれています。
前期の巻4、後期の巻5のあらすじは次の通りです。


    

巻第4


【天狗参入東三条事 (第1段)】

東三条殿に参入した天狗法師は、春日社の神主時盛が現れると逃げ失せた。

【永久春日詣時神託事 (第2段)】

出家を決めた藤原忠実が暇乞いのた めに春日詣をすると、 童子姿の春日明神が現れた。


【普賢寺摂政事(第3段)】

近衛基通は、 寿永2年(1183) に平家とともに都落ちしようとしたところ、 黄衣の神主に呼び止められ思いとどまった。


【三条内府事(第4段)】

重病の三条内大臣のために春日社で祈祷させ たが、「我を崇めなかったため命を召した」 と春日明神の託宣があり、内大臣は落命した。


 【後徳大寺左府事 (第5~6段)】

藤原実定は、春日参詣をしたところ

大納言に再任された。 また内大臣の解任の時も、春日明神の御利益で還任することができた。


巻第5


【俊盛卿事 (第1~4段)】

藤原俊盛は春日詣を毎月続け、 出世を果し家 は富み栄えた。 やがて衰退し栄枯盛衰の理を思い知った俊盛は、臨終の 時まで春日明神の加護を願い続け、3年後に童子に導かれて往生した 

【季能卿事(第5段)】

俊盛の息子の藤原季能は、 天狗が化けた恐ろし げな姿の僧が現れる夢を見たが、 春日明神によって天狗は退散した。





【動植綵絵】

伊藤若冲が40歳になり、23で家督を継いだ青果問屋を弟に譲り画業に専念、相国寺に寄進するため全身全霊を込めて制作した30幅連作のうち今回は10幅を公開。約10年ほどかけて制作された代表作。
展示されている作品は次の通り
動植綵絵

展示順でななく、制作年順です。

・芍菜群蝶図 1757~58頃

花鳥を画面いっぱいに描かれることが多い中、上部が大きく空いた瀟洒な構図を取っている。動植綵絵の中でも早い時期に制作された作品だそうです。

・梅花小禽図 1758年

無数の梅花は表から胡粉で塗ったもの、裏からだけ塗ったもの、表裏両面から塗ったものと3種類あるそうです。

・向日葵雄雞図 1759年

北米原産の向日葵は1666年には確実に日本に伝わっていたが画題として取り上げる人は少なかったそう。点描の種部分は西洋画に思え、ふの入り方が様々なアクセントカラーの小さな朝顔に囲まれてより、ひまわりが大きく感じます。雄鶏は若冲お得意中の得意。

・紫陽花双雞図 1759年

1759年には五幅が制作されています。警備員夫婦のような警戒のポーズをとる番の鶏に菱形に意匠化された紫陽花。白色の紫陽花は胡粉の裏彩色を施し表は1枚1枚濃度を変えながら胡粉を塗っている。群青による青い紫陽花も一切手を抜かず1枚1枚塗られているそうです。

・老松白鶏図 1761年以前

密集した松の緑に純白のニワトリが眩い作品。羽の細かな羽毛まで丁寧に描かれています。

・芦鵞図 1761年

 動植綵絵の中で1761年に描かれたのはこの作品だけらしい。私が見に行った時はこの作品あたりから人気がなく、足を停めずに見る方が多かった。水墨画風の背景に鵞鳥がまるで、ひなの監視をするカルガモのようにキリッと立っているというシンプルな構図ですが、よーーーくみると鵞鳥の目は黒目が胡粉で3層に塗り分けられているらしい。鵞鳥の首の部分は胡粉の薄塗りから厚みを僅かに変えながら立体表現、羽毛は羽の線まで精密に描いている。しかも殺風景な水墨画風背景は藍色がかかった緑の裏彩色をして、深みのある暗がりにしているらしいというマニアにはたまらない作品。

・蓮池遊魚図 1765以前

水中から見た視線で描かれた鮎(1匹だけオイカワ)と、水面の真上から見たような蓮花。ふたつの視点が組み合わさるピカソか!と思う構図だがボケーっと見ていた私には蓮が水中花に思えた。

・桃花小禽図 1765年以前

ピンクと白メインの比較的あっさり目の彩色にみえて、実はピンク色に3種類使い分けていたり、その三種類の蘂の黄色もそれぞれ微妙に色調を変えるという、物凄いこだわりを持って描かれている。鳩は外グマという体の部分を塗り残して周りを墨で塗る手法に、胡粉で極細羽毛表現を施して浮かび上がるように描かれているらしい。
あちこちで見つめ合う鳥が可愛らしい。

・池辺群虫図 1765年以前

なんと60種を超える生物が描かれている。伊藤若冲は動植綵絵をして、この世の生物、植物全てを総動員して釈迦三尊像を荘厳せしめようとしたことがよく分かる作品です。現場では「あ、カブトムシ!」という声が多く聞こえ他の作品もそうですが、展示作品選びに夏を意識したのかもと思いました

・芦雁図 1766年頃

末弟を失った伊藤若冲は、1765年にそれまでに完成した動植綵絵を相国寺に寄進。それから一年余りで描いた6幅のうちの一つがこの作品で雁が、飛翔せず落下(急降下?)しているしくらい色調が末弟を失った悲しみが投影されているのではないか?という推測もあるそうです。なお私が見た時はこの作品も人気がありませんでした。

この日は藝大学祭の日で大変賑わっており、日本画第1研究室の展示は予約無しでみられました。(学校内は完全予約制でした)撮影可能部分を動画にしたので、東京藝術大学の雰囲気を味わってくださいね。


ナマニクさんの寄稿した本が出たよ!