歌川国芳 父の画業と娘たち | けろみんのブログ

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日記・観た映画のこと・観た展覧会の感想

原宿駅(JR)明治神宮前原宿駅(副都心線、千代田線)
太田記念美術館
2019.10.4~10.27 まで開催です。


大画面を使った斬新な構図で迫力ある作品で有名な歌川国芳の名作がずらり。

西洋画を取り入れた陰影と劇的な効果も魅力の一つです。

今日は講演会「歌川国芳の娘 芳鳥と芳女」を聴講しました。

浮世絵師の娘で、絵師になった人→意外と多い。


・葛飾北斎→葛飾応為
晩年の北斎の作品は葛飾応為が手伝っていたのではと言われている。しかし応為自身の錦絵(摺物)はなく、肉筆浮世絵と版本が数点残されているのみ。 

(太田記念美術館所蔵の葛飾応為作品は2020.1.11~2.9まで展示)

・河鍋暁斎→河鍋暁翠

女子美術学校において女性として初めての日本が教授となる。

国芳の弟子にも「歌川芳玉」という女性絵師がいる。今回の展覧会で1点植木を愛でる美人画のとても良い物が見られる。

芳玉は、河鍋暁斎の絵の手習いの回想にも「玉女」として登場。国芳の向かって左隣に玉女とある。ネット調べでは国芳が幼い暁斎を遊郭に連れて行ったりするので、父親が心配し師匠を変えたとか……

↓とても生き生きと動いているかのように描かれている。
猫がいっぱい!

今回取り上げられるのは「歌川国芳の娘」
存在は確認されているものの、今まで紹介されていない人物。

1839 (国芳43歳)  長女 とり(芳鳥)誕生
1842 (国芳46歳) 次女 よし(芳女)誕生

・歳をとってから生まれた子供なので、とても可愛がっていたのではなぃか?

・なぜ生年が分かっているのか?
 1853「浮世絵又平名画奇特」発表する。この作品がペリー来航で慌てふためく幕府の様子を風刺しているのではないかと勘ぐられ、見回り同心の偵察がはいりその報告書が残っている。


・前三郎(国芳)53歳、妻せゐ38歳、娘とり15歳、娘よし12歳、母やす72歳。

・他弟子2~3人で、間口2間、奥行6間に8~9人にて妻女は相応(身分にふさわしい)の衣類を着ている。

・国芳は服に構っていない様子で蓄えは薄く、(仕事に対し)金銭も相応に貰っている、

国芳は、政治批判よりただ不気味な、面白い作品を作ろうと注力しただったようでこんなに同心に付きまとわれ、表現の自由を奪われつづけて大変だったと思う。しかし皮肉なことに当時の国芳一家を知る上で貴重な資料となった。

天才絵師とその弟子に囲まれて育った2人は英才教育を受けてると同じで、自ずと筆持つようになったのでは?

「江都勝景 中洲より三つまた永代ばしを見る図」

には、当時3、4歳である長女 とり の姿が描かれている。(今回2階に展示あり)これも当時の規制の影響で役者や遊女が描けず、 子供の見立て絵を描いていた時期。「とり」の文字を国芳のトレードマーク年玉印で囲った着物を来ていてすぐ分かる。→子供への愛情

1848 とりの描いたことが分かる最初の作品「甲斐名所双六」の甲斐のコマに「国芳女十歳とり女」と書かれている。

1852 合巻本(今様八犬伝)を始め、国芳のコマ絵を数多く手がける。

ななついろは東都富士尽 ぬ コマ絵芳鳥。
コマ絵とは、この役者の後ろに描かれた枠内の絵画です。この時芳鳥14歳。

コマ絵を書いているのは主に弟子なこと、初めて知りました( °_° )
こうしてちょっとずつ弟子をお披露目して、版元の信頼や世間の注目度をあげるのでしょうか。

芳鳥はこの後コマ絵を多数手がける。

そして、11歳になった芳女もコマ絵に登場。年少の為か点数は少ない。1852~53年で比較すると芳鳥の66点に対し6点。

・芳女の作品→
山海めで度づゑ 親たちにあひたい十二讃岐豊島石は手本をかなり省略して描いているなど(何故か石切場のすぐ側が浜辺になってる)拙い部分が見られます。




1852年 国芳56歳、芳鳥14歳、芳女11歳
・ななついろはシリーズ 
・山海愛度図会シリーズ

芳鳥はぐんぐん力をつけ、16歳の時には版本を1冊丸々挿絵執筆しています。

1855年「一ツ家」浅草浅草寺の巨大絵馬を国芳が描き、評判になり来館者が殺到する
国芳、この歳に中風を患い、画力が落ちる。
 
1856年 一ツ家の生き人形→吉原から灯篭に一ツ家の絵を描いて欲しいと依頼があった。
吉原から灯篭に絵を描く依頼がくる。

1857年 誠忠義臣名々鏡 芳鳥 26点、芳女 23点のコマ絵を描く。(一勇斎の号)
→国芳の不調か、芳鳥、芳女がかなり父の仕事を手伝ったと見られる。

1858年 芳鳥の最後の錦絵が確認できる年。

1859年 芳女、朝桜楼(歌川国芳の号)用いる

1861年までに芳女は俳人(明治の新聞にそう紹介がある人物、詳細不明)の田口其英と結婚。

1861年 国芳 没 田口(芳女の夫)が井草家を継ぐ。
1862年 芳女(24歳)、大判3枚続きの錦絵発表。「五節句の内」三節の見立 新材木町 新乗物町」(一勇斎の号 )

1873年 
三回忌の書状に芳女(32歳)が喪主として名を連ねる。魚河岸茶伊之の名前もあるが、芳鳥の名はない。

→このあたりの年譜から、芳鳥は国芳より先に亡くなったと思われる。

三田神社に墓標建立。芳女、「一勇斎芳子」と名乗る。裏面には建立に参加(出資者)として井草其英、同 芳子 建立と名を載せる。

芳鳥の作品は多く残されているが19歳以降の足取りは掴めない。それに対して妹芳女は作品数は少ないがその後の足取りがかなり掴めていさはる。

1879~80年頃 芳女(38~39歳)、鷲尾一角と再婚。鷲尾一角の素性は不明だが人相観など占いを遊郭で行う、太鼓持ちのようなちょっと怪しげな人物(らしい)
横浜で外人向けの春画制作か?。これは現物はかくにんされていない。

1891~92年頃 芳女(50~51歳)来陽堂から絵画草紙を出版。古い作品を再出版か?

1895年 芳女(54歳)楽焼の根かけ玉に絵を描く仕事をする。(月岡芳年の弟子クマガミコウネン?の話で生活のためアルバイトで髪に飾る根かけ玉に絵を書く仕事をしたところ、そこに芳女いた、と話している記録がある。)詳細不明だが、そんなに実入りのよい仕事ではなく、生活は苦しかったのでは?

1897年 芳女(56歳)皮に絵を描く仕事??(詳細不明)

亡くなった歳は不明。国芳のお墓の墓碑の記述のみ。

以上から、芳鳥は将来を嘱望されたが夭折し、芳女も同じく才能を発揮したが夫に恵まれなかったか、社会情勢が変わり浮世絵の需要が無くなったと共に生活に困窮したか不明だがずっと絵を描くことからは遠ざからない生活をしていたことがわかる。


以上、国芳の娘芳鳥、芳女の足跡を講演会で聞いたものを、時系列に並べ直したものです。詳しく知りたい方は太田記念美術館にこのテーマの論文入り
「太田記念美術館紀要 浮世絵研究第10号」をご覧ください。取り寄せもできます。詳しくはこちら刊行物案内の最後の方に。


浮世絵の上に描かれたコマ絵、本絵と全く関係がないというのと、コマ絵で親子、師弟の関係が見えてくる場合がある、江戸時代末期の錦絵の取り締まりの状況や明治維新後の浮世絵師の運命、ことに女性絵師の身の立て方など全然作品と関係ないところで感心しました。

10月27日とあと1週間ほどで終わりますのでお急ぎください。











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