常勝軍団大阪桐蔭高校野球部の西谷浩一監督の行動から学んだこと | 美と健康の明日を考える佐藤友美のブログ

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今回は大阪桐蔭高校の監督について書きます。

先日の8月18日、第12日甲子園第3試合準々決勝にて大阪桐蔭は9回表に下関国際高校に逆転を許し、4対5で敗れ、春夏連覇とはなりませんでした。

あれだけの選手が集まれば勝って当たり前、強すぎると言われる大阪桐蔭ですが、甲子園常連校になるまでにどのような道のりがあったのでしょうか。

 

常勝軍団を作り上げたと言われる兵庫県宝塚市に生まれの西谷浩一監督の経歴は、地元・兵庫県の名門報徳学園に入学したところから始まります。高校1年生の冬にチーム内で不祥事が起きて対外試合禁止処分になってしまい、3年生となってからも後輩が暴力沙汰を起こし、最後の夏は戦わずして高校野球を終えてしまいます。

 

高校時代にやり残したことを大学で達成するために一浪して入学した関西大では、4年時に主将を務めながらも西谷さんのポジションはブルペン捕手だったと言います。この時の野球の下積み経験が、指導者としての下地となったようです。

 

チームを作っていくうえでの改革

西谷浩一監督は、大阪産業大学高校大東校舎から校名を変更した大阪桐蔭のコーチに1993年に就任されました。

当時は強豪で有名だったPL学園が大阪桐蔭の目の前に立ちはだかった時、西谷浩一監督はPL学園にどうやったら勝つのかを常に考え、当時の大阪桐蔭を一歩ずつ着実に変えてきました。

現在の強豪チームを作っていくために変えてきたことが興味深かったので紹介します。

 

上下関係の廃止

西谷浩一監督が就任したころの高校は、全国的に過度に厳しい上下関係がありました。

例えば、1年生は上級生の付き人となり、先輩の世話に追われて練習がままならないことは当たり前でした。

当時、大阪桐蔭にも似たような文化がありましたが、その上下関係の文化を廃止したのが西谷浩一監督でした。

当時の上級生たちに監督自ら頭を下げ、各自で洗濯などやるように懇願したそうです。

最初の試みが上下関係を変えることでしたが、すぐに結果にはならず気づけばPL学園の校歌を聞いていたそうです。

 

なぜ上下関係を廃止し変えていったのかというと、高校入学からの最初の1年間で選手能力の差を埋めるところにあったからと言われています。

 

スカウトのしつこさ

西谷浩一監督は、野球業界でも有名なほどスカウトがしつこいそうです。

欲しい人材が居たら、広島だろうが、佐賀だろうが、全国どこでも何度も自ら足を運び、進学が決まった子にでも執拗に口説き続けるそうです。

 

スカウトされた選手は結果的に悩み、気づけばまるで洗脳されたかのように大阪桐蔭に入学して野球のスキルを磨くことが一番の成長の道だと言っていたそうです。

 

選手自身にどの高校へ進学するかの決定権があるはずですが、西谷浩一監督の営業力とクロージング力たるや半端ないですよね。

 

大阪桐蔭西谷浩一監督から学んだこと

西谷浩一監督は、自らビジョンを描きチームの文化を変え、欲しい選手に対して熱心に誠意を見せ続けたからこそ、いまの大阪桐蔭高校があるのではないでしょうか。

これは野球界だけではなく、どの業界でも大切なことだと思います。

私は大阪桐蔭高校の西谷浩一監督から、数年・数十年先を見据え、目標達成のためにやるべきことをやり続ける大切さを多く学びました。

 

高校野球には様々なドラマがあります。

その中で初心に帰って学ぶことや見つめなおすことがあると思いますので、時間があればぜひ詳しく調べてみてください!

 

次回もお楽しみに!

それでは、また!

 

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