激動の時代だったまさの平成史・息子の不登校が私にくれたメッセージ | 家族に笑顔が戻る最短距離~『不登校のち笑顔』

家族に笑顔が戻る最短距離~『不登校のち笑顔』

不登校のお子さんが動き出すために必要なことは,「子供に選択させて,結果を経験させてあげる」こと.
親御さんが意識と行動を変えるだけで,お子さんはどんどん変わり,現実がガラッと変わります.

親子揃って【小さな一歩を重ねたら】,必ず家族に笑顔が戻ります.


 昨日の夜中に更新した記事です。






今日で平成に幕を閉じますね.

 

 

やはり,平成の最後にブログを書きたくなり,仕事を終え,一杯飲んでからのブログの更新です.

 

 

 

昭和生まれの私ですが,昭和よりも平成の方が長く生きてます.

 

 

 

 

そんな私の平成時代のお話をさせていただきたいと思います.

 

暗~い話の方が多いかもなので,苦手な方はスルーしてください.

 

 

 

 

 

 

 

平成元年,私は大学3年生で,その4月から4年生になるところでした.

 

 

ずっと借家に住んでいたのですが,父親がマイホームを購入し,そちらに引っ越すことになったのも同じ頃.

 

 

 

父の経営する会社の負債もあったのですが,立ち退き料を頂いたこともあり,引越すときは住宅ローンのみで,母にとっては,もう余計なお金の心配がいらない夢のような生活のスタートでした.

 

 

おしゃれで綺麗な家で,皆が自分の部屋をもち,ちょっとした夜景が見える部屋.

 

 

 

 

私は,大学卒業後,やはり教員になりたいと思い,卒業して2年後に,聴講生として大学に戻り,2年かけて教員免許を取得しました.

 

 

 

平成はまさ家にとって最高の滑り出しだったわけです.

 

 

 

 

 

 

 

 

ところが,平成6年,父親の会社の負債が発覚し,さらに不渡りを出したことで生活が一変します.

 

 

 

 

 

父の会社の倒産.

 

 

私が消費者金融からお金を借り,それを父に貸したのでその分の返済.

 

 

その返済のために多重債務になり債務整理をし,その分の支払い.

 

 

両親が払えなくなった家賃の返済.

裁判所から出廷命令付きですわ(笑)

 

 

 

両親の貸していた私名義のカードのキャッシングの返済.

 

 

両親が終の棲家となったアパートの家賃の支払い.

 

 

 

 

 

 

あんなこんなで,1千万近くを両親のための返済に回しました.

 

 

 

 

 

 

 

そんな生活の中,平成11年に結婚し

 

 

 

18年に息子,21年に娘を授かりました.

 

 

 

 

 

 

27年に母が亡くなり(父は16年に没)

 

 

 

ようやく自分の家族に集中できると思いました.

 

 

 

それほど,親のため(特に母親のため)に頑張ってきたという思いが強かったんですね.

 

 

 

 

 

 

 

 

なのに,29年に7月から息子の完全不登校.

 

 

 

まじか~

 

 

 

 

 

不登校初期はショック過ぎて…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でもですね,息子の不登校からたくさんのことを学びました.

 

 

 

 今までの価値観がぶっ飛びました。




自分の愛は条件付きだったことに気付かされました。





 

さらに,UMIで心のことを学び,




握りしめていたたくさんの執着、「べき」「ねば 」「欠乏感」「罪悪感」を手放していったことで





ようやく気付いたわけです.

 

 

 

 

 

 

私が生きるべきは,親のための人生でも,家族のための人生でもなく

 

 

自分のための人生だということを.

 

 

 

 

 

 

だから,息子の不登校は,

 

 

 

 

私の意識のベクトルを,他人から自分に向けるために起きた出来事だったと思うようになりました.

 

 

 

 

「おとー,もうそろそろ自分のために生きなよ」

 

 

 

 

息子が笑いながら,そう言ってくれていると思えてならないんです.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平成最後の2年間は,私にとって人生の転換期でした.

 

 

 

濃~い2年間でした.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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