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龍子という女性(ひと)

 実家の近くにある向日葵の顔がうつむき加減に足下を見ている。隣家の家庭菜園では秋の収穫で楽しそうだ。もう夏は終わりを告げ、岩木山の姿もすっかり秋らしくなった。小雨が鳴り止まぬ夜更けに、さだまさしの「秋桜」がBGMになる。哀しく響き渡るマイナーギターコードの哀愁がとても初秋にあう。

 夏も終わり祭りの話しをするのも恐縮だが、以前にDVDで先に観た、さだまさしの小説「眉山」を季節外れに寝転びながら読んだ。徳島が舞台で気迫みなぎる阿波踊りという、どこか津軽に似た風土に惹かれ古本屋で買っておいた。

 あらすじは割愛するが、登場人物の母、龍子という人物に心動かされる。ちゃきちゃきの江戸っ子で気前が良く、喧嘩っ早さが勇ましい。誰にでも隔てなく接する情の深さと芯の強い優しさを兼ねそろえた女性。龍子の啖呵を切って立ち回る場面は爽快感さえある。こんな肝っ玉母ちゃんは早々お目にかかれない。「男はつらいよ」寅さんのようだ。

 間違った社会のルールや人間関係に当たり障りのない言動で生きている大人は沢山いる。だが決して目を反らそうとはせず、正しさとは何かを語ろうとする龍子の威風堂々とした生き様に清々しい気分が冴え渡る。自我を貫き、一本筋が通っているといった感じだ。だが、この作品でさだまさしが伝えたかった龍子という人物は、ただ強い女性像を描きたかった訳ではないはずだ。そこには結ばれることのなかった愛があり、その愛の結晶である娘を支えに生きてゆく。といったどこか孤独で寂しい人間模様を隠し味に入れているのではないだろうか。

 龍子の愛はこの小説の中心思想であるが、娘の咲子に対する愛情は本物の愛だ。大好きだった人との最後も言葉を交わすことがなかったが、見つめ合って頷くシーンは一番印象的だった。献体という自分の死後まで決めてしまう龍子だが最後の最後まで強い女を見せつけられた感がある。

 さて、ここまで強くて潔い女性なのだが、人は死を前にして強くいられるものだろうかと懐疑的になる。僕は祖母と父親の臨終に立ち会ったが、どちらも苦しそうだったし、恐怖で怯えていたのではないかと思った。真相を聞くことはできないが、やっぱり死は生きている人間にとって怖いものだと思う。ソクラテスの哲学では死を「最大の幸福」と説いているが僕はまだそこまで辿り着いていない。死ねば虚無に帰り、何の感覚もない世界になる。生と死の境界線に立たされた人にしか理解しえないのか、それとも僕は男だから弱いのか…これからじっくり考察してみたい。

 徳島の眉山が見下ろす町に阿波踊りという伝統的な祭り。この地域性が津軽の岩木山が見下ろす弘前のねぷたという景観と重なった。先日、弘前を舞台に映画「星守る犬」が撮影されていたようだ。弘前の土手町でねぷたのシーンを玉山鉄二さんらが熱演したそうだが、「眉山」の阿波踊りの迫力に勝ることができるか、ちょっと不安であるが楽しみにしておこう。徳島の阿波踊りは一度見てみたいと思う。

 さだまさしの歌もそうだがテーマに「母親」がよく使われる。実の母が題材なのか、理想の女性像なのか。マザコンなのか。はたまたあの声は自ら母親になりきっているのか。それは本人にしか分からない。この「眉山」に関して言えば、龍子は理想の女性だと思う。強い女性という憧れの性癖かも知れない。

 本を読み終えたときには鼻が真っ赤に染まり、ピエロのようになっていたことは内緒にして欲しい…


眉山 (幻冬舎文庫)/さだ まさし

¥520
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自分をプロデュース『生前葬』

 結婚したと同時に僕は死ぬまでこの役はしたくないと思ったことがある。それは「喪主」だ。順番に逝けば次男である僕は喪主を務めることはない。当然ながら自分が死んだときは相方が喪主をするだろう。と、先日、相方にそれとなく話したことを思い出した。そのときのリアクションの無さといったら酷いものだ。初めて東京に行って地下鉄の駅員さんに無視されたときのような衝撃が走った。完全に僕が死ぬことを想像していない。もちろん僕も死ぬ気はないが、「僕が死んだときは、お前が喪主を務めてくれよ」っとフッたつもりだったが大誤算。「なに言ってんの、まだまだ稼いでもらうよ」とでも言いたいのだろうか、この会話は砂浜に書いた「喪主」という文字を波が跡形もなく消し去っていった…

 自分が死ぬまでに葬儀(やる側)など、あまり経験するものでもないし、慣れたくもない。大体、あんな短期間で何百万円もかかるビジネスも希にない。サービス内容や料金体系も分からぬまま、あれよあれよと言ってる間に決まって行く。悲しさに暮れている余裕などそこにはない。

 地域で異なるらしいが津軽では火葬した後に通夜、葬式という順序が慣わしになる。火葬する前夜はロウソクの火と線香を絶やさず灯さなければならないと言われているが、父のときも交代で消えてないか確認した。ちょっと消えていた時間もあったかも知れないが大目に見てくれ、父上…あっという間に葬儀は終わり、法要が四十九日まで何回か執り行われる。とにかく忙しくいろんな手続に追われるのだが、そういった意味では遺書をちゃんと書いている人は本当に偉いとつくづく思った…

 葬儀の様式には密葬や社葬などあるが、面白いところでは生前葬もある。実際この葬儀は出席できるはずのない自分が喪主になり、葬儀を自分でプロデュースできる自由な形式が多い。ここには宗教などなく、お決まりの台詞もいらない。開放感があって楽しいお別れパティーになるはずだ。一生スポットライトがあたることなく淋しい人生を終えようとしている僕には、うってつけかも知れない。死んだ後に葬儀をしないのであれば、生前葬は遺族想いなイベントになる。

音楽は三味線だろうがパンクだろうが生演奏したって構わない。壁を使ってスライド映像や動画を流してもいいし、自分が書いたシナリオで舞台演劇をやってもいい。自費出版で自分史をつくり来てくれた知人に売りさばくも良し。好き勝手に空間をプロデュースして遊ぶ。明るく楽しい葬儀なのだ。

 多くは芸能人や著名人が生前葬を宣伝も兼ねてやっているが、今後、一般の人にも浸透するかもしれない。サービスの多様化で新たなビジネスモデルができる。そこには葬儀屋ではなく僕が手掛けていることを想像するのである…
  

使命

 本日、epub電子書籍セミナーに出席した。1990年にソニーが電子ブックを販売している。しかしこのデバイスは売れなかった。今年、電子書籍元年と称されているが実は繰り返されること20年の月日が経っている。キンドルやipadの発売により、ようやく具現化されたのだ。しかしこのような自体を誰が想像できただろうか。まさに未来からの訪問者が僕の前に現れ、本を読む文化を変えようとしている。と如何にもなくだりだが、そもそもコンテンツを何で読むかが変わるだけ。紙媒体であろうが電子媒体であろうが本を読む本質は変わらない。

 電子書籍ライフを楽しむためには、まずデバイスが必要になる。そしてメリットとしては「端末にすべての電子書籍を持ち歩ける。」そのとき、あの本読みたい…という可能性が電子書籍にはある。とまあ、たしかに便利だよな。と思う反面、いつもバックの中に本が二冊以上入っている人に限られる。だって持ち歩かない人には必要ないから。僕は読まなくても常に一冊は持ち歩く悪い癖があるので当てはまる。かも…

 まだepubは縦組みには対応していないため横組みだけなのは残念。しかし次回バージョンアップには対応するのではと噂があるらしい。嬉しい知らせだ。僕は基本的に左開き(横組み)の本を読むと禁断症状がでる体質になっている。毎日パソコンで読んでいるにも関わらず、紙本を読む行為は縦組みでないと殆ど読まない。
 
 気になるのがipadで電子書籍を読む体勢だ。寝転んで本を読む姿勢が良かったりするものだがipadは疲れるでしょう。確実に腕がぷるぷるするに違いない。iPhoneくらい小さいのなら良いが、文字が小さすぎて読みづらいし困ったものだ。さらに紙は折り曲げたり、形を自由自在にできるが、電子端末は固い。デメリットも沢山あるので用途で使い分けるのが好ましい。

 とは言ってもやはり電子書籍のインフラ化は進むだろうと予測できる。無駄な資源やコストを削ぐことによって環境に優しいのも事実だ。なかなか実現しそうにないが教育関連や公共図書館の電子書籍化もいずれ訪れると思う。そのとき起こりうる現実に対処できるよう、今から学ぶことが「本」に携わるものの使命だと僕は思う。