社会保険料“率”の引上げ」に反対なのか、「社会保険料“額”の引上げ」に反対なのかは分かりませんが(※)、昨今はSNS等で「社会保険料の負担増」に反対する声が非常に多くなっていますね(※※)。

 

※ 「社会保険料率」に変化がなくても(例えば、厚生年金保険料率は既に1,000分の183で固定されていますし、協会健保の全国平均保険料率も過去10年以上にわたり1,000分の100で変動はありません)、賃上げがなされれば、「社会保険料額」の負担は増えますが、同時に「手取り額」も増えます。これなど、小学生でも分かる計算です。

 

※※ 昭和56年3月、当時の鈴木(善幸)内閣は、経団連会長土光敏夫を委員長とする「第二次臨時行政調査会」(いわゆる第二臨調)を発足させました。そして、その第二臨調は、国民負担率を当時のヨーロッパ諸国の水準(50%程度)より低位にとどめ、かつ、受益と負担の対応を明確にする意味から、租税負担より社会保障負担を重視すべきとの考え方を打ち出しました。

 

しかし、歴史をさかのぼってみれば、長い間「社会保険料率(厚生年金保険料率)の引上げ」に猛反対してきたのは、実は事業主側(経営者側)なのです。

 

諸外国をみると、公的年金保険制度においては「労使折半負担(事業主負担割合のほうが大きい国もあり)」が一般的であり、公的医療保険制度においては、フランスのように「全額事業主負担」(※)という国もあります。

 

※ 日本においても、例えば「健康保険組合」のように、被保険者負担割合よりも事業主負担割合を増加させている保険者もあります(ただし、被保険者負担割合をゼロにはできないとされています)。

 

以下、厚生年金保険法の沿革に絞って、話の概略を進めます。

 

【1】労働者年金保険法の制定

民間陸上労働者(※)を対象とした日本初の公的年金保険制度である「労働者年金保険法」は、昭和16年3月11日に法律第60号として公布、昭和17年1月1日から総則と被保険者の資格等に関する規定について一部施行、昭和17年6月1日から保険給付や費用負担等に関する規定を含めて全面施行されました。

発足当時の適用事業所数は約6万、被保険者数は約347万人でした。

 

※ 日本で最初の公的年金保険制度は、昭和14年4月6日に法律第73号として公布され、昭和15年6月1日から全面施行された「船員保険法」ですが、船員保険法は海上労働者を対象としていた特殊なものであったため、年金給付のみならず、医療給付や労災給付をも内容とする総合的社会保険制度でした(「失業給付」については戦後に新設追加されます)。

 

財政方式としては、完全積立方式の考え方に基づく「平準保険料方式(※)」、つまり、年金給付費の変動にかかわらず、保険料率を加入期間を通じて半永久的に一定の水準に保っておく算定方式を採用しました。

 

※発足当時の平準保険料率は「1,000分の64(坑内夫は1,000分の80)」とし、労使折半負担としていたところ、当時から事業主負担分が重すぎるとの不平不満が出てきました。しかし、当時の政府は、事業主の負担は生産費の1,000分の3程度にすぎず、重すぎることはないと議会で答弁しています(※)。

 

※ 諸外国においても事業主負担を設けていたのは、資本主義による恩恵を受けているのは事業主であるから、とされています。

 

当時の平均的な定年年齢がおおむね50歳前後であったことや、大正12年に制定の「恩給法」による満額支給開始年齢が55歳とされていたことなどから、「養老年金」の支給開始年齢を「55歳」とし、その受給資格期間を「20年(坑内夫は15年)」としていたこととも相まって、平準保険料方式(完全積立方式)により、当然に保険料収入が支出を上回ることとなり、膨大な額の剰余金(積立金)が生じる仕組みとなっていました

 

この剰余金(積立金)の所管をめぐって大蔵省と厚生省が対立することになるのですが、この剰余金(積立金)は、終戦(敗戦)直後のハイパーインフレーションによって、その価値を失い紙屑同然となってしまいます。

 

さて、戦局が悪化、敗色が濃厚となるなかで、戦費調達のための保険料収入を急いで増加させるため、昭和19年に「労働者年金保険法」を「厚生年金保険法」と改称し(「労働者」という言葉が、当時「社会主義思想(アカ)」を連想させたためと言われています)、適用事業所規模の拡大や女子を被保険者として追加、任意包括加入制度の新設等を行い、発足当初は平準保険料率であった厚生年金保険料率を「1,000分の110(坑内夫は1,000分の150)」と大幅に引き上げてしまいました。

 

この段階で、積立方式に基づく「平準保険料方式」は完全に意味を失ったのです

 

昭和19年改正(昭和19年6月1日一部施行、同10月1日全面施行)により、適用事業所数は約13万、被保険者数は約844万人と、それぞれ2倍以上に増加しました。

 

【2】昭和29年厚生年金保険法抜本改正前の大混乱

一般被保険者の受給資格期間は、労働者年金保険法の時代から「20年」とされていたため、養老年金(昭和29年改正により「老齢年金」と改称)の受給者は昭和37年頃に発生するものと想定されていたところ、坑内夫(坑内員)については、そもそもの受給資格期間が「15年」とされていた上に、昭和19年改正により「戦時加算」(昭和19年1月1日~昭和20年8月31日)という被保険者期間の特例が導入されていたため、昭和29年に受給権者が発生する可能性が予想されました。

 

そのため、当時の厚生省は厚生年金保険法の抜本的全面改正に取り組むこととなるのですが、当初の厚生省原案(※)に対しては、経済界、特に当時の「日経連」が猛烈に反対しました。

 

※厚生省原案は、年金給付水準の改善を図り、厚生年金保険の再建を目的として、保険料率を平準保険料方式に戻すことにありました。この当時の厚生省は、公的年金保険制度の財政方式においては「積立方式」の考え方を持っていたのですが、この「積立方式」による考え方は、拠出制国民年金の実施における厚生省原案においても維持されていたことに注意してください

 

[注]諸外国の公的年金保険制度においても、積立方式による平準保険料率でスタートし、その後「賦課方式」に移行するケースが多く、現在、他国の公的年金保険制度の財政方式も「賦課方式」を採用している国がほとんどです(アメリカ、英国、ドイツ、フランスなど)。

 

 

なお、少子高齢化による影響は積立方式も賦課方式もともに受けますが、積立方式は運用悪化など経済市場を通して、賦課方式は保険料収入の減少などを通して影響を受けるというのが経済学の通説です。

 

さて、日経連による厚生省原案に対する見解を列挙すると、次のようになります。

⑴ 我々は、社会保障制度の確立そのものに反対するものではない。

⑵ しかしながら、社会保障制度の実施は、その国の国民経済の許す範囲内で行うべきである。

⑶ 厚生省案は、国民経済および労使の負担能力について慎重な顧慮が払われていない。

⑷ 我々は退職積立金を保有しているが、厚生省案では退職金との調整がなされていない。

⑸ つまり、退職積立金による資本蓄積を社会保障より優先させるべきである。

⑹ 以上から、労使(※)の負担増を伴う厚生年金保険法の改正には絶対反対である。

 

※労働者(被保険者)の負担増にも反対していたのは、労働者(被保険者)の厚生年金保険料率を引き上げてしまうと、それに合わせて事業主の厚生年金保険料率も引き上がることとなるからです。

 

上記⑷と⑸にあるように、昭和29年当時、大企業はすでに退職金を積み立てていましたが、それが「昭和41年」に発足する「積立方式により運営される厚生年金基金」として結実することに気がついた人がいたら、すばらしいです。

 

厚生年金基金は、労働者の老後の生活保障を行う使命を持っていることに鑑み、40年後、50年後、60年後····という将来を想定して制度設計をしていかなければならなかったところ、予定利率年5%以上もの高率(※)で運用していたのですから、高度経済成長期からバブル経済期まではともかく、バブル経済の崩壊により解散を迫られていったのは、この今、現在から考えてみれば当然のことです。未曽有の金融危機が始まる平成9年頃には、すでに「厚生年金基金は危ない!」と言われていたものです。

 

※ 令和7年3月1日現在、「存続厚生年金基金」として残っているのは4基金しかありませんが、従来、予定利率についての下限利率は設定されていませんでした。しかし、昨今の金利上昇の流れを受け、令和7年4月1日から令和8年3月31日までの1年間について予定利率の下限率を新たに設定することとし、「年0.3%以上」とするよう行政通達が発出されています(令和7年3月27日付け年企発0327第1号)。

 

結局、経済界(大企業)の猛烈な反対により、旧厚生省は厚生年金保険料率を大幅に引き上げることができなくなり(※)、厚生年金保険は低い年金給付水準に据え置かざるを得なくなりました。その一方で、大企業においては高額な退職金を支払い、かつ、厚生年金基金による給付も行うこととなったため、大企業と中小企業との間の労働者の職業生活引退後(老後)の生活格差がますます拡大していきました。

 

※ 昭和29年の抜本改正時においても、戦後、昭和23年8月1日以降、10年以上にわたる暫定保険料率のまま、一般の被保険者(男子たる第1種被保険者・女子たる第2種被保険者)は「1,000分の30」、坑内員(第3種被保険者)は「1,000分の35」と、あまりに低い厚生年金保険料率で据え置きにしてしまいました。その結果、高い年金給付水準に改善することは不可能となり、昭和30年代から40年代には年金給付水準の官民格差を生じさせる要因ともなってしまいました。

 

ちなみに、女子の厚生年金保険料率を一般男子よりも低く設定していたのは、昭和35年5月1日から平成5年12月31日までの期間です(平成6年1月1日以降は、男女とも同率の厚生年金保険料率となっています)。

 

【3】労働者側(総評・同盟)の見解は?

最後に、昭和29年厚生年金保険法抜本改正前における労働者側(総評・同盟)の見解を振り返っておきましょう。

 

労働者側(総評・同盟)は、当然のことながら年金給付水準の拡充を要求していましたが、その費用調達としては、国庫負担の増額、事業主負担分の増額、賦課方式の採用等を挙げ、被保険者の保険料負担には反対するというものでした。ただし、標準報酬の上限緩和に関心を示していなかったのは、当時の厚生年金保険料率があまりに低すぎたことが要因ではないかと考えられます。この点において、標準報酬の上限緩和に反対する事業主側とは逆の論理でした(※)。

 

※ 昭和29年の厚生年金保険法抜本改正は、それまでの報酬比例一本制から、定額部分報酬比例部分の「2階建て」の仕組みに変更したことで有名ですが、報酬比例部分の計算基礎となる標準報酬等級表については、事業主側の反対により、第1級の3,000円から第12級の18,000円の12等級区分としました。しかし、最高等級の18,000円に該当する被保険者の割合が44.4%という非常にいびつな形となり、報酬比例部分がほとんど定額部分に近いものとなってしまいました。そのため、比較的高額な賃金収入のある裕福な労働者にとって、厚生年金保険は魅力のない制度とならざるを得なくなりました。

 

なお、労使ともに共通の認識があったのは、改正後の厚生年金保険法では従来の「完全積立方式」を採用することはできないことと、「積立金の合理化」を図るべきだという視点です。労使ともに、大蔵省が年金積立金を独占していることに異を唱えていたのです。

 

積立方式」による公的年金保険制度は、膨大な積立金を誰が保有するかが深刻な政治問題となり得るということです。

 

 

大きな声をあげられるのは、常に「強い者たち」であるのかもしれません。