昭和36年4月5日生まれの杉村貴司は、就職氷河期世代とは、もはや呼べない。
むしろ、バブル世代と言うべきだろう。
確かにバブルの頃、2年間だけ正社員をしていたことがある。
だが、人間関係に疲れ果てて退職し、その後はフリーター(非正規雇用労働者)として働いていた。
バブルの頃は、フリーターがもてはやされていたのである。
しかし、バブルが崩壊してからは、ずっと業務委託契約、今風にいえばフリーランスとして生活していた。当時は、30歳を過ぎてからの再就職は難しいと言われていた。
フリーランス(業務委託契約)だから、非正規雇用労働者(フリーター)より酷い。
労働基準法も、労災保険法も、最低賃金法も、雇用保険法も、健康保険法も、厚生年金保険法も適用されないからである。
なんとか、老後のためにと、国民年金第1号被保険者として、国民年金保険料だけはしっかり支払ってきたつもりだ。
そんな貴司が「特別支給の老齢厚生年金」という年金の仕組みがあるのを知ったのは、最近のことである。
2年間だけだが、正社員をしたことがあるので、特別支給の老齢厚生年金がもらえる。
そう喜んでいた貴司だが、一般男性は昭和36年4月1日以前生まれでないと、特別支給の老齢厚生年金をもらえないらしい。
あと4日なんだ、あと4日だけでも早く生まれていれば…。
就職氷河期世代でなくても、俺みたいな低年金で苦しんでいる者はいる。なのに、政治家たちは、就職氷河期世代ばかりを話題にして、その上の年代にも苦しい生活で暮らさざるを得ない者がいることなんて、話題にもされない。
もう少し、もう少し若ければ、被用者保険の拡大施策というやつで、老齢厚生年金がわずかでも増額されていたかもしれないし、フリーランス新法だって適用されていたかもしれないというのに…。
貴司は、自分の運命を恨んだ。
「特別支給の老齢厚生年金」は、次に掲げる生年月日の者を対象として支給されます。
⑴ 男子・第2号~第4号女子:昭和36年4月1日以前生まれ
⑵ 第1号女子:昭和41年4月1日以前生まれ
⑶ 特定警察職員等:昭和42年4月1日以前生まれ
しかし、「特定警察職員等を除く一般男子」については、令和7年4月1日以降に特別支給の老齢厚生年金の受給権を取得する者は、もはや永遠に存在しません(昭和36年4月2日以後生まれの一般男子が、今後、「特別支給の老齢厚生年金」の受給権を取得することは、もはや永遠にないということです)。
「特定警察職員等を除く一般女子」については、確かに、第2号~第4号厚生年金被保険者期間しか有していない場合は、令和7年4月1日以降、一般男子と同じく、特別支給の老齢厚生年金の受給権を取得することはありませんが、特別支給の老齢厚生年金をこれから受給できる可能性としては、まだ残っています。
たとえば、昭和41年4月1日生まれの一般女子は、この記事を執筆している令和7年5月10日現在において、まだ59歳なのですから、これから民間企業に就職して第1号厚生年金被保険者期間を1年以上有すれば、64歳から1年間、特別支給の老齢厚生年金を受けられることは十分に考えられます。
それでは、年金実務を取り扱う法律実務家向けに、新法施行日(昭和61年4月1日)に「特別支給の老齢厚生年金」が誕生した際の沿革的知識について概説したいと思います。
【1】昭和61年4月1日前の旧法時代
昭和61年4月1日前の旧厚生年金保険法の時代においては、その被保険者となる資格に上限年齢はありませんでした。
つまり、適用事業所に(正社員として)使用されて労働し、報酬(賃金収入)を得ている以上は、80歳になろうが90歳になろうが、厚生年金保険の被保険者となっていたのです。
現在のように、70歳に達すれば、厚生年金保険の被保険者資格を喪失し、厚生年金保険料を徴収されなくて済む、などということはありませんでした。
※ 健康保険法においても、平成20年4月に後期高齢者医療制度(原則として75歳以上)が制定されるまでは、その被保険者資格に上限年齢はありませんでした。ですから、被保険者の資格に上限年齢がなかったことは別に不思議なことでもなんでもありませんでした。
さて、「老齢年金」(昭和29年改正前は「養老年金」という呼称でした)における「老齢」とは、「高齢になって稼得能力(就労して賃金収入を得る能力)を喪失すること」をいいます。
そのため、旧法の時代は、厚生年金保険の被保険者である限りは、80歳になろうが90歳になろうが、老齢年金の裁定請求をすることができませんでした。
当たり前の話です。厚生年金保険の被保険者として就労し賃金収入を得ているのですから、老齢年金を支給する必要はありませんね。
[注1] 稼得能力のある者に老齢年金を支給することは不合理だと考えられてきましたが、現在では、時代の変化とともに、その考え方も変化しつつあります。
さらに言えば、定年退職等により厚生年金保険の被保険者資格を喪失した後、裁定請求をして老齢年金を受け始めてから、その後、再就職等により再び厚生年金保険の被保険者資格を取得すると、なんと、老齢年金の受給権が消滅していたのです!
[注2] ただし、この仕組みは、昭和40年改正により、在職老齢年金制度が一部導入されると、65歳未満の被保険者については、標準報酬月額が一定の等級以下の低所得者に限り、在職中であっても老齢年金の裁定請求をすることができることとなりました。低賃金である在職者(低所得者)には老齢年金を減額した上で支給し、その生活を保障する必要があるだろうとの趣旨で、これを「低所得者在職老齢年金」といい、略して「低在老年金」、さらに略して「低在老」と呼ばれるようになりました。また、この改正により、厚生年金保険の被保険者として在職中であっても、65歳以上であれば、老齢年金の裁定請求をすることが可能となりました。
以上、旧法における沿革的な知識が頭に入ったら、次は、いよいよ「史上最大の年金改革」と呼ばれた昭和60年改正に進みます(昭和61年4月1日施行)。
【2】昭和61年4月1日施行の新法時代
昭和60年改正による新法施行日(昭和61年4月1日)以降は、原則として、65歳から、老齢基礎年金と老齢厚生年金を支給することになりました。
しかし、旧法時代は、60歳(女子は55歳)から、「老齢年金(定額部分+報酬比例部分)」(配偶者又は18歳未満の子があるときは「加給年金額」も加算されていました)を支給していたのに、それを突然、65歳支給開始とするわけにはいきません。
そこで、当分の間、一定の支給要件を満たす65歳未満の者に、旧法の老齢年金を「特別支給の老齢厚生年金」という名称にして支給することにしました。
時間的に言えば、旧法の老齢年金における「定額部分」を65歳から「老齢基礎年金」に、旧法の老齢年金における「報酬比例部分」を65歳から「老齢厚生年金」に転換したわけです。
※ 「特別支給の老齢厚生年金」の支給要件は、次の①~③のいずれの要件をも満たす者としました。
① 65歳未満であること。
② 老齢基礎年金を受けることができるための受給資格期間25年以上を満たしていること。
③ 厚生年金保険の被保険者期間が1年以上あること。
※ ただし、平成29年8月1日以降、②の受給資格期間の要件は「10年以上」と短縮して改正されています。
⇒ これは当初、年金支給額が増えることから、消費税率10%への引上げと同時に短縮をする予定でしたが、消費税率10%への引上げが政治的事情により遅れていたため(令和元年10月1日から施行)、年金受給権を確立させる目的で、先行してなされたものです。
また、特別支給の老齢厚生年金の裁定請求については、旧法における老齢年金の裁定請求の仕組みを継続させることにしました。
つまり、厚生年金保険の被保険者資格を喪失しているか、または、厚生年金保険の被保険者として在職中である者については、標準報酬月額が24万円(平成元年12月から平成2年3月までは22万円)以下であること、としたのです。
ですから、一般男子が60歳から特別支給の老齢厚生年金を受けるためには、60歳に達する前に、退職等をして厚生年金保険の被保険者資格を喪失しておく必要がありました。
また、60歳時に被保険者として在職中である者が62歳に達したときに退職等をして被保険者の資格を喪失したときは、62歳から特別支給の老齢厚生年金を受けることとなります。
当時は、大企業では60歳定年制のところも一部ありましたが、多くの中小企業では「55歳定年制」の時代でしたから、一般の労働者は、60歳に到達するときには、職業生活を引退していることが普通でした。
[注3]昭和15年4月1日以前に生まれた女子で、厚生年金保険の被保険者期間が20年以上あるか、35歳以後の厚生年金保険の被保険者期間が15年以上ある退職者については、生年月日に応じて、55歳~59歳から特別支給の老齢厚生年金を受給することが可能でした。
[注4]被保険者として在職中であっても、標準報酬月額が24万円(平成元年12月から平成2年3月までは22万円)以下である者は、特別支給の老齢厚生年金の裁定請求をすることが可能でした。ただし、その場合は、標準報酬月額に応じて、2割以上8割以下の範囲で、必ず特別支給の老齢厚生年金が減額されることになっていました(いわゆる「低在老」です)。なお、特別支給の老齢厚生年金を受給している間に、その者の標準報酬月額が24万(22万円)を超えて賃金上昇したときは、特別支給の老齢厚生年金は全額支給停止となっていました。
【3】65歳を過ぎても厚生年金保険の被保険者だったら?
さて、会社の役員(取締役)など、65歳を過ぎても、厚生年金保険の被保険者であることは、昭和60年改正前にもよくあることでした。
このような者は、65歳から支給される老齢基礎年金や老齢厚生年金の裁定請求をすることができなかったのでしょうか?
いえいえ、そんなことはありません。
新法施行日(昭和61年4月1日)以降は、厚生年金保険の被保険者資格の上限年齢を「65歳未満」とし、65歳に達したら、その被保険者資格を喪失させることしたのです(厚生年金保険料の納付義務もなくなります)。
ですから、65歳未満の特別支給の老齢厚生年金を一切受けられない場合でも、65歳から支給される老齢基礎年金や老齢厚生年金は、裁定請求をして受給することができたのです。
厚生年金保険の被保険者資格に上限年齢を設定したのには、もう1つ別の理由があります。
それは、国民年金法における老齢年金には「被保険者である者は同時に老齢年金の受給権を有することはなく、また、老齢年金の受給権を有する者は同時に被保険者になることができない」という根本ルールがあったからです。
つまり、昭和60年改正により、厚生年金保険の被保険者や共済年金等の組合員や加入者等は、同時に全国民共通の基礎年金(国民年金)に二重加入することとなりました。
この根本ルールを用いて、65歳から老齢基礎年金を受給することができるのだから、65歳に達したら、厚生年金保険の被保険者資格も喪失させることにしたのです(これが二重加入の意味でした)。
★ この国民年金法における老齢年金の根本ルールは、「老齢又は退職を支給事由とする年金たる給付の受給権を有する65歳以上の者については、国民年金第2号被保険者とはならない」(国民年金法附則第3条)として、令和7年度の今現在も、存続していることを確認できますね。
[注5]ただし、平成12年改正により、国民年金法にあった老齢年金の根本ルールを変容させ、平成14年4月1日以降、厚生年金保険の被保険者資格は、現在まで続いているように、70歳に達したら資格喪失することと改正されています(原則として、65歳以上の者は国民年金第2号被保険者にならないが、70歳に達するまでは厚生年金被保険者に該当するものとして、国民年金と厚生年金保険とで、ずれることになりました)。
[注6]また、平成6年改正により、平成7年4月1日以降、厚生年金保険の被保険者資格を喪失していなくても、つまり、在職中であっても、特別支給の老齢厚生年金の裁定請求をすることが可能となり、また、標準報酬月額が24万円(22万円)以下である場合に必ず年金額が減額されていた低在老の計算の仕組みも改正し、標準報酬月額と特別支給の老齢厚生年金の額とを合算した額が一定の額を超えない場合には、特別支給の老齢厚生年金を減額することなく、全額支給するケースが生じるように改めました。
ということで…、今回は、特定警察職員等を除く一般男子について、令和7年4月1日以降は永遠に特別支給の老齢厚生年金の受給権が発生しなくなったことを偲び、特別支給の老齢厚生年金の思い出話をすることといたしました。いやあ、公的年金制度は確かに複雑ではありますが、その歴史を探ってみると、本当に面白いですねぇ!