アブラクサスの瞳

アブラクサスの瞳

光あれば影がある。

だけど、それは大事な私の一部。

Amebaでブログを始めよう!



もうだいぶ経つけど。



あれは、私の視点をおおもとから変えた出来事で。

ゆえに世界は違うものとなった。


それでいて自分が、思いのほか頑健でたくましくて、案外変わらないことも気付かせてくれた。



誰かに吐露して、負担になることも耐え難くて。

痕跡残らず澱が出て行くように、ただ、呼吸を整えて、血が流れ続けるに任せて。

ぴったり1ヶ月過ごした。



歩いているだけで涙が出てきたことがあったけれど、それも当然だと思ったし。


あれがなかった今を、想像はできない。

きっと、2年間の海外生活もしていなかっただろう。




ただ一つのことが私を支えるものになった。

誰かにさせなかったこと。自分ですること。

それだけが望みで、それだけが守るべき一線だった。


だって、手を汚すのは当事者だけで充分なはずだから。



褒められたことなんかじゃないけれど。

あれから10なん年経つのに、いままだ、それが許されていないことに、少しびっくりする。



医者が、いじりたいだけ。

鈍感だよね。



まぁ、私もなんだけど。


(2019.03.05)

気になった記事なので、メモ。

まだ、認可されてないんだ。
それどころか巷でも、ニュースでもほとんど聞いたことがない。。

びっくり。

「妊娠中絶後進国」日本女性に感じる哀れさ | 東洋経済オンライン

タイトルがなんだかな、哀しい。

当然、良いか悪いかといえば、良いことではないけれど。
そこで思考停止しているよね。

バイ○グラなんて、すぐ認可させるのに。
なんで?

そこそこ大きくなってから、医者が…とはいえ、物理的に掻き出す野蛮しか認めないなんて。

72時間以内のピルがあるだけでもマシなのか?
これくらいでOKでしょ!てほど、大人になるまでの性教育をきちんと出来てるのかな?

行為者の片方は、いくらでも無関心でいられる。
だけれど女性は、我が身で進行する出来事。



過ちに苦しむ困難な時に。
少しでも選択肢が多く、心を慰め、先へ進む助けとなるものとなりますように。

サポートを受けられずに違法な業者から買わずとも、女性当事者が自らと向かい合い、自身と和解できるものとなりますように。
ふいに小さな事が、こころに引っかかって。しばらく堂々巡りをすることがある。いや、巡るうちだんだん深みにはまってゆく、それは、むしろ大きな螺旋階段を下って行くことに似ている。
時が違い、場が違い、関係する人が違えば。或いは、誰か他の人にとってみれば、なんら引っかかることもないような、小さな事。

なんだ、そんなこと。そんなことなんだけど。

個人的な痛みというのは、そういうものなのだと思う。

だからむしろ、何かの切っ掛けで。他の人も、案外そういう痛みを持っていることを知る時、心底びっくりする。そして、ちょっと安心する。私だけじゃないんだ、なんて。


 ー ー ー ― ー ー ー ― ー


本当のところ、久々に書こうと思ったのは。今日、お彼岸の法事を終えた帰りに、堂々巡りの先に苦々しく見つけたものについてで。それは、ひとつの言葉だった。

「三界に家なし」

この、やや古ぼけた言葉を、どうして私が痛みを持って握りしめてきたのか。まったく良くわからない。
苦しい時に繰り返し、どこからともなく沸き上がる言葉の一つで。
初めてこの言葉に触れた時は、まだ小学生か中学生くらいだったと思うけれど。成る程そういうことなのね、という、めまいと怒りに似た感覚を持ったことを覚えている。

本来は、仏教での言い回しで。生きとし生けるものは皆、迷いと苦しみを抱えて生きている、といった意味がなのだけども。転じて、女の一生の定まらなさ、どこにも安住の地がない、といったを指すようになった言葉。
子供の時分は親に従い、嫁に行ったら旦那に従い、年を取ったら子に従え、という、今となっては古い価値観が濃厚に反映されている。

この言葉は、その時までに芽生えていた、娘であることにおける理不尽さ、への怒りみたいなものを。まるで全て吸着したかのような存在感をもって、記憶野のどこかに沈んだ。

だから。ある種の苦々しさに直面した時に、不意にこの言葉が立ち現れるのは。現在の感情体験が、この言葉をキーワードに集約されている古い類似の感情体験を、呼び起こすからだと言える。

ああ。これって、ビリーフなんじゃないの?
今日ふと思い当たって、言葉を反芻した時。奥歯を噛みしめるような、深く強い苦々しさが広がって。成る程、ビンゴなんだと思った。


 ー ー ー ― ー ー ー ― ー


これがビリーフなら、邪魔にならないよう書き換えたいのだけども。
取りあえず私がしたことは、我慢ならないほど皮肉な気持ちにさせる、この言葉について検索することだった。原義や由来について知りたかったのだけども、多くは女についての言葉として出て来て、余計にイライラは募った。

...だから親にも我慢がならず、結婚もせず、というかパートナーもおらず、ましてや子供もいないのたろうか?(いやいや、それは関係ないけど。)
...だからがんばって一生懸命働いてるし、浪費と思えることはしないし、身が立てられるよう必死こいて生きてる。(いや。でも、今のやり方は、女の子の特質や幸せや楽しさを無視した上にあるもので、事実私は時々、空しくて死にそうになってる。)

継ぐものは兄ちゃんが継げばいい。私は、こういう性格だから、損したくないと自分がゴネそうなのが一番厭。だから、自分の仕事を起てないと。ちゃんと全部手放せるようにしてないと。
そもそも旦那なんていないし、今後どうかわかんないし。どうかわかんないものを待つ訳にも行かないから。少なくとも、今の自分のためにでも、一人でいるなら一人でいる良さを満喫しなくちゃ。旅もしたい、冒険もしたい、恋もしたい。でも、何より一人でちゃんと生活して行けないと。

子供なんていないから、従う必要はないけども。できたら、いったいどうなっちゃうだろう?

今を頑張らないと、先はないから。がんばれ、私。がんばれ、私。
がんばれ、私。


あー、しんど。こんなこと、書くもんではないな。


あ、でも、この言葉と。私が常々旅に出たいと思っていることは、案外関連がなくもない、のかもしれない。どこにも家がないなら、漂泊こそふさわしい、と。


 ー ー ー ― ー ー ー ― ー


ともかく、戻ることにしよう。問題なのは、何だろうか?不安定な心だと思う。ネガティブに引きずられがちな。元気なときは、健やかなときは、問題ないのだ。


三界に家なし、だ?
上等よ、この天地が私の家じゃないのよ。


だけど、誰だって、調子の浮き沈みはあり。いちいち揺さぶりをかけられては、振り回される訳で。


 ー ー ー ― ー ー ー ― ー


ところで。ジェンダーが絡まる問題というのは、どうしたって、問題が複雑になりがちだ。社会の慣習、常識、親の持つジェンダー感、とくに母親の葛藤、兄弟との比較。ことは自分の苦悩に見えて、案外、ほとんどが他所から来ていたり、比べることで生まれるものだったりする。

この言葉を女の一生に重ね合わせて用いた、最初の人は、男だったのか、女だったのか。それは、憐れんでだろうか?蔑んでだろうか?身の程をわきまえろ的な意図だったのだろうか?それとも、当時の現状を踏まえて、それでも強く生きよ、というメッセージだったのだろうか?男は女よりマシだという優越感だろうか?
今のところ、知る由もない。

歴史はくり返すし、男女の平等性というものも一定ではなかった。時代によって関係性は変わって来た。
(だから、ある時代には適していたが、今にはそぐわない類いの言葉が残っているのは仕方ないにしても。
冷静に見れば、その古ぼけた言葉に固執することは、そもそも無用のことでないかと思ったりもする。)

だけど、少なくとも、この現世代において。祖母の時代、母親の時代、自分自身の時代、子や孫の時代において。女に期待されることや、一生の在り方というものは、世代間に大きな変化を持っているといえる。

それぞれが、それぞれの生い立ちをもって生きて来て。それ(過去の体験)を踏まえて、最善を尽くして次(未来の世代)へ向かおうとする。少なくとも、心がけは。

そこに、こうあってほしい、こういうものを大切にしてほしい、これは大変だからこうしたら良いであろう、等々色々な思いが錯綜して、相互矛盾することも、ままあり。或いは、自分の世代で得られなかったことによる嫉妬や、理解ができないことへの苛立ちなど。よくよく考えれば、様々な葛藤があるのはやむを得ないことなのだ。

各世代においては、次の世代へと、それぞれにより良いものを目指しつつも、ネガポジ両面で雨霰と影響を与え続け、また上の世代から与えられ続けることとなる。世代の思惑と同時並行で社会も変化していて、ダブルで進行しているから、事態はいつだって思ったより溝が広がりやすくて。故に、どうしたって翻弄されざるを得ない、なかなか切ない事態が生まれる。


そう、切ないのだ。私は、自分の感情体験で苦しむけれど。そりゃ、苦しい時には、誰かのせいにしたり、責めたりしたい気持ちにもなるけれど。そんな苦しみを追跡して見て行く時、実は、責めたい気持ちは、切なさの裏返しであることに、気づかされるのだ。どこかで、誰かが悪い訳なんかじゃないことを、知っているのだ。だから、出口がなくて苦しいのだ。


 ー ー ー ― ー ー ー ― ー


またまたQさんだけども。ビリーフチェンジの極意が、先祖供養だと喝破されたことが、記憶によぎる。どの記事だったかまで、思い出せないけれど。そうなんだと思う。
例えば、トラウマの解放を行う手法にはヒーリングや退行催眠やなんか、色々あるけれど。いずれも、幼児期の親や周囲からの影響というものが、ものすごく大きい。

一つのトラウマを解放したら、また別のトラウマが見つかるもので、いちいち解放する度に、親との別のエピソードが出て来たとしたら。それらは全て、親が悪いんだろうか?
いや、そうではないと思う。


だれだって、初めての人生で、初めての"親"体験で、"子供"体験で、全てが理想通りに行える訳じゃない。"親"も昔は"子"であったし、同じように様々な苦しみを抱えて生きて来た。様々な影響を"親"の親から受けてきた。トラウマも引きずって来た。"親"の親も、そのまた親も。どこまでも遡って、影響を与えられ続けて来た。

それらは全て、悪意で行われた訳じゃなかった。むしろより良い一生が持てるよう、善意が意図されたことの方が多かったはずだ。ただ、必ずしもうまく行くばかりでは、なかっただけで。


そう、誰かが悪い訳じゃなかった。
...だけど、苦しい。



そんな、自分に繋がる因果を、すべて遡って許していく。それが先祖供養であり、究極のビリーフチェンジなのだと。


 ー ー ー ― ー ー ー ― ー


祖父の初めてのお彼岸に、たまたま思うことあって。書き出した記事が、先祖供養に落ち着いたというのも、なにかの導きなのかもしれないけれど。

発端となった「三界に家なし」、のビリーフチェンジは、さて、うまく行えたことになるのかしら?

検索してる途中で見つけたコチラの記事に、少し発破かけていただいたかも。
ぽあん歩庵さん「女三界に家なし」。

女は強いな。