最近、あまり出掛けられないので今まで以上に庭に目を掛ける時間が増えています。
今の最も注目の子たちは芝桜とラベンダーとスミレです。
でも...芝桜、ちょっと葉が枯れ始めてしまいました。え~お水あげているのに...
ラベンダーは貰った一本を土に差して居ますが、どうでしょう...着くかな...
しかしです。今朝、スミレの鉢を見てみるとカタツムリが群れていました。「可愛いなあ...」と眺めていると、カタツムリがスミレの葉を食べています。...カタツムリってナメクジと何が違うんだろう。調べてみました。するとカタツムリの殻が退化したものがナメクジなんだそうです。
え?
とは言え、カタツムリ、退かせないなあ...手に乗せたら肌をかりかりと噛んでます。...か、可愛い(。-ω-)クセニナル~
でもスミレの葉は彼等に食べられ続けています。...どうしよう...
それでもスミレは非常に元気で、花を終え、今、種を撒き散らしています。お陰で来年は鉢いっぱいに成りそうです。
お願いだから、みんな、枯れないで~
愛だけはたっぷりなのに...
なので3つの愛の物語を。ただし、お薦め度は...怪しいです。
先ず。
「アバウト・レイ、16歳の決断」
この一家は事情有り。
祖母はレズビアン、母はシングルマザー、そして16歳の"娘"は"男の子"である。
邦題の「レイについて」とは16歳の子、レイのこと。トランスジェンダーである遺伝子性、娘ラモーナのことである。
しかし原題は「Three Generations」"三世代"なので、当然、映画はレイのことばかりは描かない。ただし、映画が映画たる為のトラブルメーカーであり、話の軸になる特異点はレイであり"トランスジェンダー"であります。
最近の映画や話題の中では、"トランスジェンダー"に対して気を遣いすぎるようで、概ね、表現が在り来たりに成らないよう、如何にもな表現を避ける傾向に有ります。例えば「3人のエンジェル」や「トーチソング・トリロジー」で観る"オカマ"と言うかたちや、その呼称さえ控えられます。この映画でも固定化されそうなイメージや単語を極力避けようとしているように感じます。
ただそれは、この映画に集う登場人物たちの気遣いや理解の末の選択として描かれています。彼女たちはまだ素直にはことの真意を受け入れられていない。公務員に成れるのに絵描きになると言う子に、素直に成れない親くらいに、まだ心を開けていない。
だから零れる。「レズビアンじゃ駄目なの?」「後で後悔したと言われたら...」
正直だ。
トランスジェンダーの社会における最大の問題は、責任だ。成人してからならまだしも、未成年なら尚更の問い。確実に訪れる"子を育みたい"欲求は、確実に起こる。そして重く悩み、人生の難題となる。
その時が本当に訪れたなら、それはあまりに辛い時と成るでしょう。
多く、トランスジェンダーと称する人には二種類あると思われます。
ひとつは、社会や環境の中で生まれる"生きる問題"以前に、遺伝子の性として生きる事に思い悩み、対する性で生きる事を切望するもの。医学的にも性同一性障害と称されます。
もうひとつは、自分にあるナルシシズムや美的感覚が遺伝子性の在り方と差異があり、生きざまや外見的"性らしさ"を超越しようとするもの。世間的には女性化(男性化)症候群とも言うそう。
この映画のレイは性同一性障害だと言えると思います。
そして性同一性障害に言えるのは、悩み、抑え込んだ時期が長く、更に自分にも他人にも有る"思い(例えば偏見や畏怖)"に晒され、受け入れ、理想を思い描き、選んで、そして望み訴えて来た為に、感覚的に繊細だったり、情が厚かったり、どのような条件も受け入れられるほどの包容力が大きい場合が多い。
しかし、反面、繊細ゆえの不安定さや、些細なことに敏感だったり、それも人の見栄や嘘で物事が順調に進まない時に、落胆しやすいとも言えるかもしれない。
レイはそんな子でありました。
レイは、祖母ドリーの否定寄りの態度や言動は理解できる。しかし、どうしても進まないたったひとつの事に、レイは何度と無く失望し続ける。
それは父クレイグのことだ。
レイは新学期から転校し、そこでは初めから"男"として友達を作りたいと願っている。胸の膨らみを押さえ付け、だぶだぶの服を羽織り、洋々と街を闊歩する。街ではレイの性など気にされない。
ただ、時折起こる、レイを知る者による虐め。
だから人生を変えたい。変えられるから。
社会的に性別を変える。その為には父のサインが必要だ。しかし父は母と別れた為に、レイが生まれた時から傍に居ない。
レイの心の悲鳴は日に日に増し、マギーは決断する。"あの人に会いに行く"
クレイグは妻とふたりの子と暮らしていた。マギーはクレイグにサインを要求するが、クレイグには「君もサインしていないじゃないか」と指摘される。
この映画は、トランスジェンダーたるレイの悩みを放置し、"悪くないから"と日々だけを稼いで生きてしまった家族が、今、現実に向き合わなければ成らなくなった。そんな数日間を描いている。
今日までの日々を見つめ直し、向き合い、彼女たちは変えようと思い悩む。そして変える。
ドリーはマギーの過去の問題にきちんと向き合わなかったことを心内で悩んでいた。その思いは、マギーを唆したり追い立ててみたりしながら、マギーのレイに対する決断に立ち会い、関わろうとする事で解こうと試みる。
ドリーの唆しは、ある意味、功を成す。マギーはレイの為に...と今まで以上にあれこれ思案する。しかし、どうしてもあと一歩を進めない。それは、やはり、怖いから。
レイを愛すればこそ、私が感じた"あなたをこの手に抱いた至福"をあなたにも感じて欲しい
、そんな願いを捨てたくないから。捨てて欲しくないから。...悔やんで欲しくないから。
ただ、それは、レイも充分に分かっている。
レイも逸る気持ちを抑えられずに居ながら、駆け足で物事を変えることをしない。流れに身を任せながら、ただ時間を待っている。
そう見える。
多くの性同一性障害を抱く人は、そんな気持ちが切に分かるのでは無いだろうか。
変えたいと切望するが、家族の思いや失う不安に苛まれて、悩み続けた筈だ。ただ、どれだけ悩んでも、人生を始める為には、性が変わらなくては始められない。
マギーはことの原因をクレイグやドリーのせいのように扱おうとする。
しかし、ことが進まない理由には、もうひとつ、マギーの縺れた過去があった。
レイは、それを知って、絶叫する。
複雑な思いを抱え、彼女たちは自分の為では無く、共に生きる家族の為に、言葉を掛ける。
ドリーがレイに掛けた言葉は、些細なもの。口に出して何かが変わる事でも無い。
でも、レイと笑顔を交わし、その言葉がどれだけレイにとって意味があり、レイの心の色を変えたかとドリーは気付く。
そしてマギーも、レイに正直に向き合う。
製作チームは、かの「リトル・ミス・サンシャイン」を撮ったチームだそう。あそこまでアクティブで笑いを伴った映画では無いけれど、似たような疾走感と家族の思いを抱え、奮闘する姿を描いている。
あちらは芋虫のような女の子がミスコンに挑む事が、家族が目を背けてきた"家族"を見つめ直す旅と成った話だった。
「アバウト・レイ」もトランスジェンダーを目指した未完成なレイを中心に、家族が目を背けてきた"家族"を見つめ直す旅と成る話でした。
たくさんの失敗をし、故の労りの話です。失敗してもいい。時に嘘もいい。でも誰かを傷付けているのなら、伝えればいい、変えればいい。
そうして明日を笑顔にしよう。
あなたは私の「リトル・マイ・サンシャイン」。だから。
縁を大事に。
愛すること、家族がいると言うことがこんなにも素敵なことか...そして、"トランスジェンダー"なんてこと、繋ぐ手、繋がる手に、なんの障害にも成らないと、伝えます。
ドリー役はスーザン・サランドン。
マギー役はナオミ・ワッツ。
レイ役はエル・ファニング。
エル・ファニングは、このトランスジェンダーと言う役を演じるにあたり、相当な批判を受けたそうです。かつてドラマ「ホワイトカラー」のマット・ボマーやスカーレット・ヨハンソンも同様の役を演じる際に酷い批判に晒されました。ヨハンソンは断念してしまうほど。
私はそんな風潮は嫌いです。
めげず挑んだエルは、繊細で素晴らしい演技を見せてくれました。
美化はしません。あるひとりの平凡なトランスジェンダーの姿を心を込めて魅せてくれます。
トランスジェンダーと言えば、「アリー/スター誕生」でも、レディ・ガガ扮するアリーが働くバーで登場します。華やかで如何にもショービジネスで働くトランスジェンダー。
でも多くの性同一性障害を抱える人達は、"同じ"と見られる事を嫌うそうです。
でもそんなあなたより、彼女たちは生き生きとして生きています。
私はキャーキャー言いながら、彼女たちの優雅な姿を楽しみました。
この映画は、そんな今時のトランスジェンダーの姿を見せ付けながら、非常に人の愛らしさを見せることに成功していると思います。
正直であれ。そう生きて来たトランスジェンダーを讃えるかのように、衣着せぬ真っ正直な描きっぷり。ここに、監督ブラッドリー・クーパーのたっぷりの愛を観た気がしました。
二つ目は日本映画です。
「3D彼女、リアルガール」
ヒカルはオタク街道まっしぐら。クラスでは浮いているし、友達と呼べるのはひとりかもしれない。
そんなある日。学園トップクラスの美女イロハから告白される。焦るヒカルはどうしたものか分からない。
オタク青年がリアル美女に告白されて...そんな夢のような映画。なのですが、始まりから何か変。
2D好きが実は3Dリアルガールが大好きなのは真実でしょう。それを否定しうじうじしているのも事実。だから妄想自問して現実否定までして強がるもの。そして怖いから、言い訳して逃げちゃったりする。理屈めいても告白すらしないから、恋人がいなかったりする。
ここでのヒカルは、何かにつけて妄想2Dのアニメキャラと対話する(実は自問自答)ほどコミュニケーション障害を患っている。ステレオ的ではありますが、故に如何にもな定型オタク像でありましょう。
そんな姿は異質ながら、意外にも純ゆえの直向きさや愛らしさを感じなくも有りません。脳内ではあれこれ出来ても、現実では尽く臆してしまう彼を見ていると「頑張れ」なんて言葉が浮かんできます。
しかし、そう思っていたら、このヒカルはイロハに出会った直後からストーキングをするほど積極性アクティブ。言葉拙くも、何かが起これば行動し、対応出来る。
...そこに違和感を感じてしまったら、オタク設定を超えて、それが次々と起こり始めてしまう。
イロハが万引きを疑われ、ヒカルは勇気を出して「俺は彼女をストーカーしていたから」と冤罪証明しようとするが、ストーカーしたことが彼女の冤罪を証明したとは思えない。告白された事に気付けず、誤解を解こうとするが「言っている事が分からない」と言われてしまうもヒカルは再度説明せず、しかしイロハは何故か誤解を理解し、交際が始まることに。
告白された日の夜には2Dは影すら見せないし、コミュ障は次々に克服してる。一緒に登校しても騒ぎに成らず、食堂での立ち回りは誰も引き摺らないし...
あれこれみんなシナリオ的ご都合の嵐。
更に、臆したヒカルが「付き合い、やめます」と伝えるシーンがあるけれど、交際は紙芝居風にシチュエーションを見せられるだけなので、さっぱり"付き合っていた実感"が有りません。それくらい恋のトキメキなど感じません。更に更に軽くリア充化する旅行シーンは、描きが在り来たりなくせに、起こることすること、こなしてしまうことが尽く有り得なくて、せっかくのオタク設定が台無しです。
「銀魂」なら、ああしたろうなあ...笑えたのになあ...感動さえさせてくれたかも...なんてガッカリ積み重ねさせられます。
また更に、映画山場のハロウィーンに至っては、何故かミュージカル仕上げ。無残で酷いダンスの振り付けも相まって、設定どころか、もう、映画ごと崩壊してます。
配役は悪くはないのですが、音楽がうるさくて台詞が聞こえないくらい、話しっぷり悪く、演技も安っぽい。音楽そのものも安っぽい。「外国語かよ」なんて言われるオタク話は、滑舌と発声の問題でさっぱり聞こえません。
好みの問題ですが、地味に主人公の「俺」的言葉遣い、嫌いでした。
演出はまあまあ、作りすぎてない程好く見映えするカットもちょくちょく見られます。
ただ不可思議に挿入される「マトリックス」模倣シーンなんかを見ると、監督はオタクやアニメに興味ないんだろうなあ...と感じさせられました。当然、ハロウィーンダンスは意味不明。しかし、何故ハロウィーン?プロムの代わり?ふと気付く。主人公、ハロウィーンの化け物のコスプレ選ぶかな?
...そうか、作り手はオタクを"化け物"として見ていたのか!と。ラストもわざわざまたハロウィーン再来。どうしても化け物扱いしたいみたい。
京都アニメーション製作のアニメ「中二病でも恋したい」の爪の垢を煎じて飲んでから作って欲しい。こちらは愛らしいから微笑ましく味わえる。そんなオタクの魅力がたっぷりです。
邦画お約束の"おふざけ"は他の漫画原作ものより弾けても許される題材なのに、あまりふざけなかったのは良かった。彼女が「電車男」のようなマネキン女で無かったのも良かった。
大量に実写化される他の少女漫画系ロマンスよりは、10倍は流し見出来るくらいは観られました。テンポも良く、ツボは押さえています。
嫌いじゃない映画。でも、褒めません。でも映画の出来やオタク描写は許容。違和感は映画より"作り手の思い"に感じさせられました。
終盤はご都合の感動押し。愛を語りながら、情熱は無かったにしてもひとつの愛を無下に捨てるヒロインに、何とも冷めた気持ちにさせられました。
最後は
「ビール・ストリートの恋人たち」
19歳のティッシュは、小さいころから一緒に育ってきたファニーと愛し合い、彼との子供を妊娠する。
幸せな毎日を送っていたある日、ファニーが身に覚えのない罪で逮捕されてしまう。彼を信じるティッシュと家族は、ファニーを助け出そうと力を注ぐ。
またもや褒めません。
人種差別が著しい70年代のアメリカで、ただ愛を育みながら生きたかっただけの二人の話。その二人が不条理な冤罪に晒されて、見えてくるたくさんの"そこにある"醜い真実...
そう言うものを赤裸々に、そしてあからさまに曝し、観る者はとても考えさせるでしょう。
家族。その高らかに謳われる家族愛。しかし血の繋がらない人は、家族と言うくくりを越える事は絶対に出来ず、所詮は他人と言う真実。欲。希望。白人による差別。その差別が奮うおぞましき策謀...
息苦しい世界の中で、美しいのは家族と愛と子供、そうふたりは謳いあげる。それはとても力強く、温かで、美しい。映像までも煽るくらいに美しく際立たせる。愛の上では何事も些細なこと...そんな酔い心地に乗せられる。
なんて美しい愛か。街角に咲く小さな雑草のような愛に心打たれます。
ただどうしても映画は差別を語ろうとする。
始まりにファニーが収監されていて、時代ゆえに"完全なる至福の日々など、彼等には訪れない"と見せてしまうから、どんな些細な会話にも、笑顔溢れる瞬間にさえも、映画は破滅の影を浮かばせる。そのせいで性交渉のシーンにさえ、幸せに浮かず、事後の浮かない表情を見せられれば、筋肉隆々の体に折れそうな女の体が力で捩じ伏せられているようにさえ見えてしまった。
この愛は元々"幼友達の縁から為すがままに始まったもの"と語っているように、元より愛など有ったのか?と疑問符さえ浮かぶ。
それにファニーは何にもしていない。ティッシュばっかり辛い思いしてる。なのにティッシュがファニーを庇ったら「人前で俺を庇うな」見栄が立たぬと責め立てる。DVもさらりと流されるし。ファニーの家族の非礼などファニーには問題にさえ上がらない。常にファニーがどうなるか、どうであるか、どう幸せを感じているか...が焦点に成り、ティッシュの苦労は全く報われない。
女の立場は愛の下にも"堪え忍ぶ"しか与えられない。
1970~80年代の映画ならまだしも、さすがに今ならもう一歩、過去の映画で積み重ねた土壌の上に映画を描くべきだ。この映画は、それがない。
90年頃の「ニュー・ジャック・シティ」や「ミシシッピー・バーニング」の方が遥かにこの映画より新しい。
親世代の悪事の因果が子に飛び火する...そんなシニカルな香りも描かれ、観客に冤罪証明への真実探しを促しているような展開にワクワクさせられましたが、結局は降って湧いた人種差別とのオチ。唖然としました。
結局、白人が悪いのね。
ああ...人種や生まれ、育ち、人生をも超越した"愛"の力を見せつけた「ムーンライト」を撮った人の作品とは思えませんでした。
韓国ドラマ?と思うほど、遣りきれない"駄目"の応酬に苦しまされ、そして"子が生まれたら無敵"として、ファニーによる、いえ、作り手の自己満足の「これでいいのだ」に終わる、何とも晴れない映画と成りました。
いつまでこんな映画を見せられるの?もうアフリカ系はマイノリティでは無いのに。
この映画はとても評価を得ています。私も期待しました。何せ「ムーンライト」の監督ですもの。でも、私はがっかりしました。
ラストも何を引き立てたのか分かりません。
愛などさっぱりで、ただ女が、"子"を理由に"妻"の座に満足しているだけにしか見えませんでした。
愛の片割れ。ハートは傾くと割れるんです。ティッシュの心は割れたまま。でも主人の名前を記したから大丈夫。そんな終わり。
「何故、彼女は幸せを追求する事を諦めたの?」そんな私の問いに「子供がいるのだからハッピーエンド」と答える映画。今時に。
誰も、誰ひとり、思いのままに、愛のために疾走しなかった映画である。
かつて評論家ロジャー・エバートは言った。「愛のために走る、そんな映画は素晴らしいラブストーリーに違いない」
私もそう思う。
あえて走ったのはティッシュの母。冤罪の証明のために国まで渡る。そして演じたレジーナ・キングはオスカーを受賞しました。
みんな分かっているじゃない。でも、そこまで良い演技だったかは...
あなたは愛する人への愛のために、走っていますか?
先日、デンマーク?のドラマ「Face to Face」を観ました。30分枠のドラマで全8話。1話を概ねひとつの場所を舞台に、8話で8つの場所、そんな舞台演劇のようなドラマを繰り広げます。
しかし、どうも粗筋有りきで台詞を紡いで30分にしたようで、観客がとうに疑問符が湧いているのに主人公が最後までそれに疑問符を抱いてくれなかったり、前半の疑問が中盤に再燃しているのに、相手が一度否定したからか主人公はさっぱり気にもしない...観客は「さっきの嘘だったじゃない!もう一度、問い詰めて」と期待してもさっぱり。そんな観客とズレる展開に、たかが30分でイライラ。台詞で綴る物語なので脚本有ってこそのドラマが脚本の問題で観る者が納得いかないなんて、残念でなりません。
ラストなんて娘の亡霊(主人公の罪悪感から来る思い込み)に「よくやったわ」なんて言わせちゃうナルシシズムに呆気に取られました。
正直、観るのも苦痛でした。
でもこのドラマが最も酷かったのは、日本語吹き替えでした。暗く陰鬱な空気漂うドラマなのに、主役の声が滑舌悪く淡白で、残念ながら酷い仕事ぶり。千葉哲也さんと聞いて「あしたのジョー」を思い出しましたが、実は声優兼俳優さんらしいです。お願いですから主役の声はやめて。「ゴジラ、キング・オブ・モンスターズ」や「バンブルビー」「メン・イン・ブラック、インターナショナル」「ゴーストバスターズ」「ジオストーム」...みんなそうでしたが、プロなら自分の能力を知ってください。
かつて「レジェンド・オブ・チュンリー」で千原ジュニアが悪漢バルログの声を担った時、公で「これ僕じゃなきゃ駄目だった?何でオファーされたんかな...」と自分の不出来に恥ずかしがったとの話を聞きました。そのくらいには自分の仕事を振り返って欲しいものです。
今、ちょっと注目のドラマが有りまして、それは「いいね、光源氏くん」です。
千葉雄大くんが現代に来てしまった光源氏を演じています。
...雄大くんが良いんです。ぽやっと甘い童顔が貴族時代の雰囲気を醸し、光源氏の勘違い惚けを見事に演じ、カルチャーギャップコメディを軽妙に魅せてくれています。
まあ、残念なのは受け入れ側。韓国系の方らしいのですが、そのせいなのか声が割れてます。
...私、そう言う声、好きなのですが...やはり作品で聞き取り辛いのは駄目です。
声とは。本人ではどうしようもない。
でも、だからこそ、ひと一倍頑張らねば。声で伝えてこその仕事なのだから。
☆そうそう、姪っ子アナが退院しました。元気そうです。しばらくは母アンナとベタベタでしょう。我がことのように狂喜乱舞しております。
これを書いている頃、急に上がった気温のせいか体調を崩してしまいました。
頭が痛く、目眩がします。文章がいつも以上に拙いですが、あなたの映画ライフに役立つことを祈ります。