風邪でダウン。でも、ちょっと口苦い映画に感動。 | まりのブログ

まりのブログ

性同一性障害者の私が、思いのままに生きるために頑張って生きてます。
性別適合手術をしてから2年になりました。
私はトランスジェンダーとして誇りを持って生きてます

う~なんなのだ。この寒さ。
お陰で風邪をひいてしまいました。咳がでるので参ります。更に熱っぽい?なんだかお腹も不快感に...
更に更に声が~「紅の豚」のポルコに...
頑張って薬を飲んでたっぷり寝て、私、不思議と食欲が無くならないので、たっぷり食べて。
そうしたら昨晩からは踏まれた牛蛙くらいには声が回復...回復したの?
この子が夜の私を温めてくれます。

...ちょっと頭混乱中。乱文でしたら、ごめんなしゃい。


最近、てんでB級映画が素晴らしくなりました。
「ホワイト・スペース」
まあ、典型的なB級SFです。でも、私、大好きです。
近未来。宇宙空間にも様々な生物が生存していました。
人はそんな生物を捕らえたり倒したりして、様々な物質を回収していました。時には犠牲が出たりもする危険な仕事です。
船長は、また、仲間を連れて宇宙空間へと船を出す。その胸には復讐心を携えて...

映画はアメリカとハンガリーの合作です。ですがおそらく中国出資...とは言え、序盤に中国要素が散見されるくらいでさほど中国の自己主張は有りません。
宇宙の巨大生物が"天龍"と言う事と、中華料理店でのちょっとしたアクションと、怪しさ嗅ぐわう闇の中国ルート...くらいかな。
で、後は雰囲気たっぷりの船旅です。
宇宙はフロンティア感たっぷりですが、それ以上にキャラクター達には生活の場。そう、まさに船乗り達の"海"なんです。
最近、流行りのぴかぴか真っ白の宇宙船では無く、鉄錆びにまみれた「エイリアン」のノストロモ号のよう。そこで自分の仕事を手慣れた手付きで捌くクルーの姿は「アビス」などにある近未来日常感。
デジタル表記溢れる機器を操作し、操縦桿を握り、合間に傍らの、アナログでクラシックなキャンディーボックスからキャンディーを頬張る。そんな手作りで自分仕様にあつらえて来た近未来のかたちが、彼方にも此方にもたっぷり在ります。日本のアニメ、宇宙ゴミ・デブリ回収作業員を描いた「プラネテス」や、宇宙怪獣と戦う青少年討伐隊を描く「トップをねらえ」に見るような生活臭が満ち満ちているんです。
そして、映画は押井守の実写映画に感じるようなハンドメイドの魅力に溢れています。

この映画のVFXは独特で、不思議な色感があります。深い宇宙の闇に溶け込む全ての色。そして僅かな恒星の光が宙に浮かぶ物体をぎらりと鈍く煌めかせる。黒の海に浮かび上がる惑星と生物...そして宇宙船とパワードスーツ。
静けさが漂い、距離感を見失う深い宇宙空間...一度飛び出せば、何処までも流れ、漆黒に飲み込まれて行くよう...
まさに海。
因縁足る"天龍"との死闘は、まるで"白鯨"のようで、不思議と文学か哲学か...そんな香りも漂います。

でも何よりこの映画の魅力は近未来に生きるクルー達の自然な振る舞いです。デジタル機器を自然に駆使し、溢れる情報を選別、判断し、常に仲間に情報を配る。自分の役割に誇りを持っているクルーは状況に敏感に応じて、各々が最善を尽くす。
そんな様を見ているだけで、頼もしく、楽しいのです。
残念を言うならば、登場人物をあまり引き立てようとしないので、愛着が湧き辛いかもしれません。
それなりにハリウッド映画に出ている役者さんが居るらしいのですが、見慣れない方々ばかりなので、牽引してくれる人が居ません。ただし故に誰がどうなるかがさっぱり予想がつかないので、緊張感が絶えません。
クルーは其々の思惑と期待を胸に携え、仕事をこなし、そこに海賊や現れた宇宙生物による危機を描いています。その"危機"はなかなかの緊張感をもって描かれています。コクピットの閉塞感や無数の情報と判断を上回る生物の脅威は、彼等の心を追い詰め、時に引き裂きます。
宇宙ならではの閉塞感や無力感、薬物、虫、思惑、不信、ホワイトスペースに掛ける勝負師達の夢、仲間の死、保身、復讐...
様々なドラマが繰り広げられ、残念ながら終盤には仲間内の争いも...正直、やっぱりか...と気を落としましたが、映画は悟りのように感情に溺れたクルーを選別していきます。
特に「ホワイトスペース」の謎に挑んだり、人類や宇宙の起源に関わるような秘密を解き明かしたりもしません。何故なら"真理"とは、旅こそにあるのです。彼等は疑心案義になり、全ての感情を晒し、そして無力さを思い知る。
奢るなかれ、人よ...
人には宇宙にさざ波さえ起こせない...

作り手の拘りが、不思議な達観に辿り着かせた美しい調べのような物語と成りました。
ハンガリーが関わったからなのでしょうか?
もしかすると民族観や風土が生み出した奥深い色を、私は「ホワイトスペース」に見たような気がしました。ハリウッドには無い、ハンドメイド故の手垢が付いたような、くすんだ宇宙時代。
それがあまりに素敵な魅力だったんです。
前述。題名の「ホワイトスペース」に纏わる話や哲学が語られますが、その辺りはこの映画に高尚な味付けをしているに過ぎません。ですが、それなりに成功しているので、美しい映像と共に知覚の窓を開けて想像し、その深淵を覗き込んで見て欲しいです。


それから、ちょっとお薦めでは無いのですが、TV作品「キャッスルロック」を。
原作はスティーヴン・キング。彼が小説の中で創作し、数々の作品の中で舞台となった町、キャッスルロックに起こる奇妙な事件を描きます。
アメリカ、メイン州、キャッスルロック。そこに聳えるショーシャンク刑務所。そこの所長が退職する。
しかしその日に、彼は自ら命を絶った。
新任所長は所員と刑務所を調べていると、地下室で監禁されていた姓名不明の男性を発見する。彼はろくに話もしないが、ただヘンリー・ディーバーとだけ名乗る。
新任所長は前所長のスキャンダルの発覚を恐れる。その頃、別件敗訴に気を落とすヘンリー・ディーバー弁護士がキャッスルロックに帰郷する。彼は以前、この町に住んでいて、子供の頃に謎の失踪をした経験の持ち主だった。
彼の帰郷は眠っていたキャッスルロックを目覚めさせ、そして森に覆い隠して来た真実を掘り起こし、露にしていく...

ちょっと面白そうに聞こえるかもしれませんが、サスペンスでは無く、超常現象的現実を前提にした不条理型のドラマです。「ツインピークス」と聞けば理解される方も多いかと思いますが、あんな感じ。
何が起こっても、その動機や因果が問題では無く、その発端には闇があり、その闇の元凶を解けば、抗えない闇の摂理の下に、後は破滅が有るだけなのです。
この手の作品はミステリアスで良いのですが、鍵となる中心人物に纏わる都合や真実に、幾人もの登場人物が如何にも意味ありげに登場し、絡むくせに、本筋に大した影響を与えず死に際だけはあっさりで、結局のところ、怖さと不可思議さ、そして不快さを煽るために存在した...そんな安易さが多くあります。
当然、今作もそんな設定と登場人物ばかり。
正直、シナリオ感がぷんぷん臭い、あまり楽しくは有りません。残念ながらスティーヴン・キングの映画やテレビシリーズにはそんな作品が少なく有りません。
おそらく彼の作品では、因果や因縁そのものより、それを主人公と結び付けた闇の力が"描かれるべきもの"なのでしょう。
それは多く、取り付かれるほどの妖しい魅力に溢れていますが、映像だけで知らしめ、私達の背筋を冷やさせるには、なかなかの映像技術や演出力が必要でした。
しかし、かつてはスティーヴン・キングの本は完全に映像で表現し切ることは不可能だと言われて来ましたが、今、習熟した演出と高等な映像表現が力を発揮し、素晴らしい作品を生み出し始めました。
それは「It 、それを見たら終わり。」です。
まあ、ピエロの存在を恐怖の象徴と確立するには、アメリカ人以外には難儀なことだったかもしれませんが、それでも私達を畏怖の闇に引きずり込む力は、充分に携えていました。
過去のテレビシリーズには出来なかったことです。
「ザ・スタンド」「ストーム・オブ・センチュリー」「アンダー・ザ・ドーム」そしてオリジナルの「It」でも、序盤こそ傑作の香りに満ちていますが、悪の正体やおぞましさ、その決着に、安易さや呆気なさを感じずには居られませんでした。
そして「キャッスルロック」。10話をかけた話運びは巧みで、映像表現はVFXだけならず見事な域で、時に目を見張るおぞましさを醸し出しています。
しかし、今作もおすすめ出来るほどのオチを持ってはいませんし、相変わらず都合のキャラクターは多く、如何にも意味ありげなくせにあっさり命を落とすキャラクターばかりです。
悪の力の強さは非常に実感させられますが、誰かの作った叶わぬ一方の話に、希望や高揚感を楽しむことは難しいでしょう。
長くなりましたが、こんなわくわくには欠く物語の中でも、私がどうしても気になって未だに取り付かせているのは、その中の第七話なのです。

主人公ヘンリーにはアルツハイマーの母ルースがいます。そのルースに起こる事件を、ひと話を掛けて贅沢に描きます。
その母の台詞「アルバムを見ていたらいつの間にか順序がバラバラに」
この言葉がこの作品におけるルースの"アルツハイマー"...そう提示されています。
そして第七話。
ルースはある男の姿の中に亡き夫の姿を見てしまいます。その夫は、特異な信仰心を抱き、それは家族関係を蝕んでいました。
そんなルースはアルツハイマー故に、挙動は無気力だったり破天荒だったり、時に異常に見えていましたが、この第七話では、描かれてきた物語の隙間に彼女だけの時間が流れていた事を知らされます。
その描きは、時間軸を越えて、ルースを記憶に刻まれた業のようなものに向き合わせます。
それに囚われると現実を見失う事をルースは知っていて、見定める"しるし"をあちこちに置いておいて、彼女なりの処世を為しています。
このドラマの1~6話まででは、彼女はたくさんの意味不明な種を撒き散らします。皆は思います。
彼女は、如何にもアルツハイマー。
しかし。
第七話はほぼ彼女の世界だけが描かれます。時間軸が乱れ、空間や存在までが複雑に縺れています。過去の話で見た、たくさんのシーンが再現され、共にその前後に実は在った、小さな目撃や聞いてしまったこと、そしてルースがした怪しい挙動が、実は意図されたものだったり、時には嘘をついていたと言う彼女の真の姿を見ることになります。
彼女はその迷宮を迷い、悩み、走り、喘ぎ...そしてただひとつの事を目指します。
それは、愛する息子を守ること。
実は誰よりも理性的で一貫している。ただ、世界が縺れていて、思うように歩めず、思うように選べない。思いのままに正しいことを為したいし選びたい、だからルースは変えようと挑む。しかし、どうしても現実は許さない。
そして言われてしまう。「君は出ていけないよ。だって行かなかったんだから」
...そうだった。このルースの縺れた世界は彼女の言うアルバムなのだ。所詮、もう起きたことなのだ。
人は、あの時こうしていたら...と悔やみ続ける。そして何度も何度もその悔やみの時を繰り返す。まだ希望があるかのように。現実に引き戻されても繰り返し、また過去をさ迷い続けてしまう。
その度に、また因縁に触れ、現実は変わらず、また失望にかられてしまう。心を病んでしまうほどに。
いや、彼女は誰よりも理性的である。何故なら目的がある。悔やみの迷宮はある意味、チャンスなのだ。息子を救う!その為なら神にも逆らおう。

残念だけど、彼女は息子を救うことは出来なかった。それは過去。変えることは出来やしない。
どれだけ抗っても、結末はひとつ。
変えられるとしたら、それは今だけ...
ルースは、記憶のアルバムの中から現実を変える鍵を見付け出す。そして躊躇うこと無く行動し、そして"悔やみ"に立ち向かおうとした。
しかし。物語は非情な結末を辿る。まるで、悪魔の手の上で踊らされでもしていたかのように...


...ルースはもう一度、縺れた時間を辿る。それはやはり、現実を変えることは出来なかった過去のとき。
だけど。それは、ささやかに彼女に与えられた唯一の至福のとき。
愛する人に...叶わぬと思っていた、たったひとつの、私だけのために幸せが与えられた、あのとき。
彼女は、味わうようにその優しげな顔を見詰め、その愛らしい声に聞き入る。思わず笑顔がこぼれ、その至福に、そっと体を預ける。
もう失ってしまったそのひと時を、永遠に味わっていたいと、すがるかのように...

母ルースを演じたのはシシー・スペイセク。知る人はどれくらい居るか、あのブライアン・デ・パルマ監督版「キャリー」のキャリー役を演じた彼女です。
ずっと澄んだ瞳で空を見ているばかりの頼りなげな彼女だったけれど、この第七話の彼女は衝撃的でした。
あまりに無力ですが、彼女の心にある強い信念は"愛"。結局は、してしまった悔やみに屈してしまいますが、ささやかに逃げる弱さも、また愛とは...

私は一見、絶句しました。中盤こそ「面倒くさいなあ」と思いながら観ていましたが、終了時にはいても立っても居られませんでした。翌日、また第七話だけを再見しました。
すると、私の心は激しく揺さぶられ、涙が溢れんばかりに、いえ、滝のように流れ落ちていました。
全編を見直したいほど愛が湧いた作品では有りませんが、この第七話は、すごい。


まだ、頭ぼんやり。また眠ります。頼んだBlu-ray「MAMA」の到着を待ちながら、眠り姫、再眠。