出会いと言うものは、人に可能性の域を与えるもの。
私は全ての縁を覚えているつもり。その人が教えてくれたいくつもの導きを心に溜めておいて、ある時、そんな標にすれ違うとき、私は目を輝かせて「あれだね」と頷くだろう。そしてその先に延びる道を躊躇い無く歩めるだろう。
私の人生はあなたの色を混じり合わせ、穏やかに染められている。今は、その色こそ沈んでいても、静かに豊かに、前に進んでいる。
近所の紅葉(*´∀人)♥
今年ももうひと月を切りました。
あちらこちらで雪景色らしい。新潟はどうですか?千葉はまだまだ寒いだけですが、もう全力冬支度してます。
そんな時に私はホルモンバランスが崩れてふらふら。母は遊び疲れと風邪でダウン、父も体調を崩し、痴呆の祖母も風邪…何たる不健康家族か。
紅葉散策も控えめに、今年は寒さに喘ぐ日々。虚しい。
だからか、心がいつも以上に映画心に満たされています。
それとゲーム心。(*^^*ゞ
プレイステーション4生活も「メタルギアソリッド5」がこんなにも長く私を満たすは思いませんでした。
もう3ヶ月になりました。
現在、最終シナリオ50番が項目に上がっているのですが、47番に苦戦中で先に進めません。それでも愛も意欲も全く萎えません。面白いんですもの。
左がダメなら右から、敵の動きを見ながらちょっと移動の仕方を変えてみたりタイミングを図ったりと頑張っているのが楽しくて楽しくて。ストーリーではなくアクションの進め方を自分で決められると言うのが、こんなにも面白いのかと強く実感しながら楽しんでいます。ムフ。
先日は、愛しの女狙撃手クワイエットが、私たるスネークと仲間たちを守る為に命を賭け、そして砂塵の向こうに去ってしまいました。
切なくて、もう...感動の嵐でした。
最後のクワイエット。復讐に生き、愛を知り、愛に命を賭けて、愛ゆえに去る。私は彼女みたいな生きざまを送りたい。( ̄ー ̄ゞ-☆
更に噂のクワイエット復帰の裏技で、復帰させちゃいまして、涙の別れも台無しにしてしまいましたが、今も一緒にアフガニスタンやアフリカ、アンゴラを走り回っております。この広大な台地での、永遠に終わらぬ"いちゃいちゃ散歩"は至上の娯楽です。:p
更に先日は「メタルギアソリッド5」の限定版を購入。これには幻のエピソード51の未完成映像が収録されているので、わざわざ買ってしまいました。
これでコンプリート。
本編だけだと消化されていない要素がたくさん有り、更に「あれ、どうなったの?これからが本編?」と思わせるところで終わってしまうので、そこにこのエピソード51を足すと、ようやく一本の映画が幕を閉じました。
未完成で英語音声で字幕付き仕様の映像ですが、この手のおまけにしては逸品でした。
製作した監督がメーカーと表現と期限で喧嘩してしまい、次回作の製作不可能と言う事態になってしまったそうで残念で成りませんが、その監督は新たなる新作を製作しているそう。心から楽しみです。
最近、変な映画ばかり薦めてしまっていましたが、気分がささくれ立っているような危うい時には、そう言う映画が心の隙間にはまってくるものです。
映画「ショートウェーブ」なのですが、これまたすごく変。
子供の失踪を機に心を病んでしまった女イザベル。夫ジョシュは仕事を辞めてまでと頭を抱えていた。夫の相棒トーマスは「辞めないで欲しい」と懇願していた。
家と庭だけの世界でイザベルは言いようの無い感覚に苛まれて行く。そしてそれは彼女に襲い掛かる。
しかし、実際の被害は無い。ジョシュは疑心暗儀になって行く。それに対してまたイザベルも全てを疑うようになってくる。
その追い詰められた心は、次第にある答えに辿り着く。
先ず、あまりにセンシティヴで美しい映像に惹かれます。純粋に美しい竹木や黄金色の草原、ほど良いテクノロジーに彩られた新機軸の家屋...光、影、色彩豊かな電灯光...そんな自然とエレクトリックなものが織り成す独特なアート感覚に酔ってしまいそう。また音楽も耳窟を超え脳髄に響く。謎の短波無線信号と誘拐に見るSF的エッセンスも興味を引きます。
もしやミニマムな世界で見せる「2001年宇宙の旅」か…と思い込みしてしまうほどセンスに溢れてる。
が。不安定なイザベルの狂乱振りがちょっと痛い。どう見てもただ暴走中...しかしこれは映画なのだ、きっと予想だにつかないオチが有るに違いない。
実際、怪しい鍵が提示されている。無線信号、幻覚、迫るもの...。そして私達は「もしや娘の失踪の真実は...」と物事を疑い始めて来る。不穏な影や幾つもの謎は、それを上回る衝撃の真実を待ち侘びるよう、私達を深みへと導いて行く…そして。
...至上、最も後味の悪い終局へと導かれて行く。
ううう...こんなにも悲しい気分に成った映画は有りません。面白いとは言えない。確実に悲嘆に暮れます。
私、心を描いた映画が好きです。それが例え壊れて行くだけであっても、そこにある葛藤や不安、苦悩の時間は、私達の心の一部を巻き込んで同化して行く。
それらをはね除けず受け入れることは、意外にも快感なのです。これはもしかすると、"共感"?
私は、心を満たす"娘"と言う充実を失い、進めず戻れなくなってしまった女の顛末に共感したみたい。でもそれは、あまりに鮮烈で物悲しいものでした。
誰もがきっと幻滅します。でもその至上の不快感を味わって、私は少し、溺れてしまった。
更に変な「マザー!」が私を飲み込みました。
この映画、全米でもなかなか論争になり、日本では劇場公開中止に陥った迷品でした。ホント、迷う映画です。
✳注意!終盤までの話が、ある程度書かれています✳
ある夫婦が森と草原に囲まれた一軒家に住んでいる。夫はスランプ中の詩人、妻ベロニカは火事にあった家を再建している。2人には穏やかな日常が有り、火事にも残った"澄み渡る結晶"が有った。
ある夜。男が来訪する。彼は「泊まれるか?」と言う。宿かと思い、来てしまったらしい。夜だったことと体調が悪そうだったので、彼を泊めることにする。
翌日、彼の妻が現れる。2人はこの家を我が物顔で歩き回るようになる。そしてまた翌日、2人の子が現れる。2人の子は財産のことで揉めているらしい。言い争いを初め、そして1人が殺されてしまう。
その夜、突然始められた葬儀。ベロニカはそのあまりに無礼な参列者に唖然とするが、更に夫の彼らへの強い同情と自分への関心の低さに失望する。参列者たちはその暴挙振りをエスカレートさせ、家を破壊し始める。ようやく追い出せてベロニカは胸を撫で下ろす。
そして戻る穏やかな日常。愛の復活、妊娠、期待に膨らむ日々。夫はついに詩を完成させる。それは心を揺り動かすほど感動的だった。
しかし。その詩に感動した人々が訪れる。彼等は夫を祝いの食卓から奪い、更に家から記念のものが欲しいと略奪と破壊をし始める。人々の波は狂乱と成り、警察、軍隊、感染、隔離...事態はおぞましいほど混迷に落ちる。
そんな中、ベロニカは出産する。子は夫によって信者に捧げられ、祭り上げられて殺されてしまう。更に信者たちは"その血と肉を我が身に"とばかりに子の肉を食らう。
ベロニカは、絶望に堕ち、そして怒りに燃える。
正直...疲れました。
粗筋で分かる通り、映画としての秩序が成り立っていないのですから。私はそれでも諦めなかった。
たくさんの不可解な鍵を拾い集め、私の脳か心かのどちらかで、ひとつの輪にしようと試みる。でも、うまく出来ない。これは何か。どう言う意味を孕んでいるのか...答えに繋げられない。その内、無数の駒が私達の予想を超えて、歩き出して行く。否、私たちが安全だと思っていた映画の核さえ破壊して行く。もう見ているのが辛いくらい混迷する世界、混迷する私達の理解の器...
しかし。
常に嗅ぐわうものがある。...それは聖書。
私はさほど聖書に対する知識は無いけれど、物語や登場人物が、記憶にある聖書にあれもこれもが符合するような気がしてならない。
ある程度、私の読み解きを書こうと思います。
主人公ベロニカは、聖母マリア。そして夫は全能の神。
神は穏やかに暮らしている。夫は詩を書き、妻は世界をささやかに形作ろうとしている。
ある日、人間が訪れる。彼等は節操無く神の社を歩き回る。神の全てを覗き込み、神の恩恵が込められた何某かを得ようとする。そしておこがましくも神と共に暮らそうとする。しかし、人は喧騒を持ち込む。血を分けた者ですら争い、傷付け合う。そこが神の家であろうと。
更に「この不幸は、神の慈悲が無いせいだ」と恨みさえ吐き捨てる。
神は詩を完成させる。それは「聖書」と呼ばれるもの。それは凄惨で赤裸々だが、心を打つものである。神は自らの心を癒す。
しかし、それは人にも説き開かれ、人はその感動を我が物にしようとする。神の社は彼らによって踏まれ剥ぎ取られ、引き千切られて疾しく忌まわしい色へと変えて行く。
絶望の中、マリアは子を生む。しかしその"子"は希望を振り撒くが、「救い」を得ようとする人によって引き裂かれ子は命を落す。イエス・キリストのように。
神はソドムとゴモラを天からの降り注ぐ火によって焼き払ったように、怒りを放つ。
DVDやBlu-rayはこう言う映画に意味を与える。それは監督の意思が音声解説やインタビューと言う付録によって解かれ伝えられることだ。この映画もそうらしい。
聞くところによると、この映画は環境問題を描いているらしい。私の「聖書」と「神」の物語と言う読み解きはちょっと違っていたのかもしれない。しかし、現実で私達に襲い掛かる多くの異常気象とは、私達が今、神の社を破壊していることなのかもしれない。
神はただ穏やかに暮らしたい。美しい自然の中で、ゆるりと育まれる生命の営みに心安らげていたのかもしれない。私達、人間は破壊し奪い合う。そこに情や労りは微塵も無い。いや、それさえも理由にして自然を破壊し命を奪うこともある。
便利。安全。そんな言葉の為に、山を壊し、海に壁を立て、大地を埋め尽くす。私も人だから、そのおこがましさを否定できないし、便利や安心は有るとほっとする。でも、必要を超えて手にしたものが多過ぎて、贅沢にも私達は更なる不幸に陥っている気がする。そうしてまた憤りを抱え、争いや奪い合いをしてしまう。だれもが望まない「破壊者」のかたちに染まろうとする。
神は嘆いている。そして怒っている。いつかその手で世界を炎に焼こうとするかもしれない。それを止められるのは、私達が憧れ、美しいと感嘆の声を漏らすほどの「澄み渡る結晶」なのだ。神が最も愛しみ、そして清らかな...穏やかなもの。灰の中でも曇らず朽ちない、硬くて純粋であまりに無垢なもの。邪な心にも潰えない私達の誰もが胸の奥に携えているもの。
神は最後に言う「もう一度やり直す」おそらくこの世界はもう何度か目なのだ。人はまた愚かな過ちで神たる”私たちの理想の世界”を蹂躙してしまった。もう戻せないかもしれない。しかし誰かを呪う無かれ。神を呪うなどもっての外だ。全ては私たちのせいなのだから。
そんなことを考えさせる話でした。
失礼。これらは私の思い込み。映画は多様に理解出来るように作られています。あなたがどのように感じるか。きっと私とは違うでしょう。それはそれで良いのだと思います。「明日は善かれと生きよう」そう受け取れたら幸せなのかな...そう思います。
...散文過ぎて分かり辛くてすみません。映画を観た人ならもしかしたら私の言いたいことを感じ取れたかしら?
主演はジェニファー・ローレンス。「ハンガーゲーム」のカットニスです。懐かしいね。
彼女、始終、頭で考え、苦悩し、嘆き、時に隠している、そんな演技はまるでアリシアみたいでした。この役、アリシアで観てみたいなあ...なんて思ったけれど、やっぱりジェニファーの映画なんですよね。アリシアにはあの迫力は出せないかもしれない。
素晴らしい演技でした。
終盤、群集に襲われるシーンでは服を引き裂かれるほどの阿鼻叫喚な瞬間もあり、とても衝撃的です。
夫役はハビエル・バルデム。以前、紹介した「ラスト・フェイス」で国境なき医師団の医者役を好演していた彼です。とても冷めた夫役で、終盤までは結構、イライラさせられます。
でも、思えば、神ってあんな感じかと。イエスもラザロやユダに対して辛辣な態度をしますし、母マリアを、ある意味、見捨ててしまい、ゆえのマリアは凄惨たる人生を送ることに成りますから。
この映画はキリスト教に批判的だと言われます。私は冷静な目で信仰と言うものを描いているなあとは思いました。確かに否定的かも。でも、否定あってこそ肯定は意味を持つのだと思います。
あくまで人間くさく神を描いたこの映画は、とても愛しさに満ちた神への賛歌のようにも感じます。
私はこの映画によって心が洗われたような気がしました。永遠に胸に留め、ふと思い出しては私の人生を見詰め直すでしょう。(*´∀人)
前回、書いたニコラス・スパークス原作の映画「きみがくれた物語」を観ました。
少しだけ想像も入れて粗筋を。
ギャビーは裕福な家に生まれ育ち、期待通りに育った。自分の目指す道を共に歩む、理想の恋人も居る。
そんなある日、飼い犬が妊娠。彼女は隣人の犬のせいだと文句を付けに行く。隣人トラヴィスは頻繁に庭で大音量で音楽を流し、パーティをするようなプレイボーイ。自分に自信満々のギャビーの嫌いなタイプ。
しかしトラヴィスは、自分の言葉を喧嘩腰でやり込めて来る彼女に、完敗。興味を抱く。ギャビーも思っていたほど悪くない人だと感じたトラヴィスに、次第に心を開き始める。
ある日、友人達とのクルージングに誘われ、ギャビーは同行する。彼女は何度も何度も口にする「最高だ」と。
彼女の思い出は父と月や星を見ること。肩肘張ったセレブの生活より、伸び伸びと思いのままに行きたいと望んでいるのかもしれない...そんな想いは彼と居ると溢れ出てしまう。そして、その距離は瞬く間に縮まってしまう。2人は紆余曲折しながらも、己の選択を信じ、結ばれる。
時間が経ち、2人は幸せのときを噛み締める。そして2人の子供にも恵まれる。そんな時、思わぬ事態が...
原作者は褒めていたようですが、う~ん...まあまあでした。なんだろう。どうも間が良くない。幾つもの印象的なエッセンスがただただ無駄にされ続けてしまう。描いているのに演出が悪くて、有効に機能させられていないのです。
貝で作った風鈴?、いつも喧嘩腰のヒロイン、ヒロインが何故にお隣さんに心を寄せて行くのか?、信仰、母の死...などが複線として振られていながら、どうも繋がっているように見えない。言っているし、気付きもするのに、どうしてもビビッドに繋がらない。もう残念で成りません。
とは言え、話もどうだろう。常に冗長で意外性も無く、印象に残る展開も無く、終盤まで特に事件も起こらない。物語に付き纏う癌要素も無く、嫉妬や愛憎もほぼ無い。みんな良い人ばかり。過去の因果や因縁も無い訳ではないけれど、さらりと乗り越えてしまう安易さ。なんてこった。
原題「チョイス」"選択"は次から次へと幸せを運んで来る。なんて...退屈な物語か。でも、幸せと言うことは良いことに決まってる。でも映画と言うものは、残念ながら不幸や不具合によって、盛り上がる。
この映画は本当に泣けなかった。不思議なくらい感動も悲しみに嘆くことも無かった。映画的にはダメだってことだよね。感情を揺さぶらない映画は、エンジンの無い車とおんなじだ。形だけで走らない。
まあ、ひと先ず、終盤に事態は傾く。遅すぎるくらいのランタイムに起こり、更に冗長で淡々とした時間を稼ぐ。
でも。終局にある小さな奇跡が起こる。劇的には描かれないけれど、その奇跡は微笑ましいものだ。その時、トラヴィスの悔やみがぼろぼろと零れるのだけれど、そこに報われる言葉が送られる。
「聞こえていたよ」
意味分からないよね。でもこの言葉に私は胸がずんと揺れたのを感じました。止めどない感情が、私の心で波打って、私を薙ぎ倒す。ああ...やられた。
私達は人生でたくさんの選択をする。その殆どは失敗する。新たな選択をするが、また失敗する。大概はそんなものだ。愛してもその愛は挫かれ、時には届きさえしない。
でも。ひた向きに努めた事が無意味にならず届いていたら、どんなに嬉しいだろう。それをトラヴィスは伝えられる。あなたの選択が正しかったと伝えられて、こんなにも嬉しく思えたことは無かったろう。
この映画は想像し、補填しながら観るべきだ。そして出来るなら2度観るべきだ。その時こそ、登場人物がささやかに描き出した、見える以上のものが見えてくる。
未だに傑作だなどとは冗談にもいえない。
でも私は好きです。