昨日、選挙を終えました。寒かったよ~。一票にたっぷりの想いを込めて、投じてきました。
...そんな"選挙"は私を試す場所でもあります。:p
私の戸籍の性別と見た目の差に、またもや悩ませてしまいました。担当者の迷う指に、心浮き浮きしてしまう私は罪人でした。薄化粧に長髪を隠しても、私は判断不明だったらしい。…( >ω<)و。・:+°
裏手のアパートがおおよそ建ちました。
建物は3階建て。2階建てのうちはどっぷり薄暗。空と西陽を失った我が家は、一見、今日の天気が分からないので、いつも寒々としています。そのせいか、体調優れない毎日です。風邪ひいて喉が痛いです...
テレビのアンテナにも影響があり、一部のチャンネルが日によって映りません。なんだか失われたものがたくさん有るなあ...と心寂しい日々を送っています。
社会不安も絶えず、フランスではテロ?連続殺人?またもや悲劇が襲いました。更に暴動と化してしまったデモがパリを襲い、この時期にして不穏な影が圧し掛かっています。
アンナやゾーイは思ったより明るく過ごしているようで、ほっと胸を撫で下ろしていますが、これからまだまだ続くゾーイの明日の世界に不安を感じない日は有りません。私達が残すもの。それを考えて生きなきゃいけないと強く実感しています。
今回の選挙で「子供達にツケを残してはいけない」と謳う方が居ました。私も強くそう思います。ゾーイの世界は明るい陽に照らされた世界であって欲しいんだもの。
姪っ子ℓσνє♡な私です。
"トランスジェンダー少女がバレリーナを夢見る"
そんな映画「Girl」。カンヌで4冠を取ったこの映画が話題に成りそうです。評価も高い。
主演のララ役はビクター・ポルスター。中性的な顔立ちで、羨ましい。

シャワールームのシーンは女性達に笑われているようで、胸が痛みそう。
私はトランスジェンダーを描く時は絶対に"背中"を大事にして欲しい。抗えない最も過酷な現実であり、自分で見られない鬼門のような場所だから。映画にはおそらく、そんな印象深いシーンも有るようです。
ただ、ビクターは少女たちと比べると筋肉を感じる体付きながら、脚も細く、体も未成熟感たっぷり。背中も際立った男性感は見られない。そう言うところは、ちょっと残念にも思えちゃったりして。
マット・ボマー氏がトランスジェンダー役を演じた映画「Anything」では、トランスじゃない役者がトランスを演じることに批判が浴びせられましたが、もしトランスが演じたら、脚も体も細い、女性にしか見えないタイプの方が演じるんでしょう?
私はマットで良かったと思いました。男の部分が見える、そんなトランスこそ差別を受け、困難に晒されているのだから。
現在、全世界で、ある運動が起こっています。それはトランスジェンダーとして生きる中で、本当に苦しんでいるのは”如何にも女性”に見えないトランスこそ、"トランスジェンダーの失われた人生"の当事者だと宣言するというもの。
今、多くのトランスジェンダーが集い、顔を晒し、そしてこう宣言しています。
「私も生きている」と。
カリフォルニア州でトランスジェンダー男性のパトリシオ・マヌエルさんが、プロボクシングデビュー戦で勝利したそうです。
パトリシオさんはFtM。遺伝子は女性。そんな彼が筋肉を鍛え上げ、戦いに勝つのは相当な努力を要すると言うもの。
素晴らしいことです。
以前にも書いたスペインのアンヘラ・ポンセさん27歳がトランスジェンダーとして初のミス・ユニバース正式代表として参加しているそうです。
こんなに素敵な報せなのに、折角女性として理解して貰えたのに、"彼女はトランスジェンダーで有る"と断り書きされているような宣伝ばかりされていて、ちょっと「まだまだかなあ」なんて思ってしまいます。
でもね、これに付随して報じられたある話に、私の”信じ来たもの”が癒されました。
それは2012年のこと。バンクーバー出身の身長6フィート余りのブロンドヘアのジェンナ・タラコバ23歳がミスユニバースのカナダ大会に出場しました。
しかし彼女が性別適合手術をしたトランスジェンダーだと分かると「出場資格が無い」と参加を拒否されました。
ここで起こった事が重要。
しかし。ミスユニバース本部のドナルド・トランプ氏は「一定年齢以上の女性と言う規定がある以外に、トランスジェンダーに参加資格が無いと言う規定は無い」と彼の裁定でカナダ本大会出場を許可されたのです。
結局は代表にはなれませんでしたが、参加者たちは「身長の高さなど、不公平がある」と批判を続けたそう。
ドナルド・トランプ。
あの彼が、したこと。希望を感じない筈が無い。無視すればよかったのに、しなかった。
私はまた、人を信じる事に、勇気を貰いました。
最近、どうしても心を捉えてしまうものがあります。それは暴行に関する事件です。
かつて「告発の行方」と言う映画を観たとき、複雑な思いになりました。
露出の多い服を着た女性が男たちの輪の中に入り、誘うような振りをしてみせる。そして彼女は暴行される。周囲で見ていた男性たちは囃し立てる者、怯える者、止めようとするが諦めてしまった者...暴行は凄惨だった。
後にそれは裁判となるが、暴行は悪いが、暴行される側も悪いのでは?と言う世論に曝されてしまう。
「カジュアリティーズ」と言う映画もあった。ベトナム戦争の最中、アメリカ兵4人がべトナム人女性を捕虜にする。基地へと向かう道中、彼等はその女性に暴行、2人は主導し、ひとりは馬鹿にされたくなくて暴行する。
どちらもその場に居て何もしなかった者を含めた全員が裁かれる。
そこまで必要なのか?集団心理の中で抗えないものを露にし、分ける事も"裁判"の裁判足る意義ではないか?と幼い私でも頭悩まさせられたものでした。
しかし、どう裁かれるか以前に、世の中にはこの傷を抱えて生きる人が居る。テレビは目を向けず、その痛みを映しだそうとしない。
隠した悲劇が、計り知れないほどただそのまま佇んでいる。私達の周りに確かに有る。時には傍らの笑顔の裏に潜んでいる。
私はあまり考えなかった。映画で観ても、作品として考えるだけだった。しかし。ここ4年。私の心はその感じ方を違えたようだ。いや、ずっとそうだったのだけれど、耐え切れず溢れ出す様になった。それは時々、映画によって呼び起こされる。
映画「ヴェンジェンス」を観て、私は身震いし、そして涙しました。
捜査中に相棒を亡くした刑事ジョン。彼は酒場で夫を亡くした女ティーナに言い寄られ、会話と時を楽しんだ。ティーナはそのまま交際中の男の元に行き、たっぷり酔った後、娘と森を抜けて家路に就いた。
その道中、男たちに出会う。彼等はティーナに絡み、そして娘の前で暴行する。
裁判は始められる事になるが、高いお金で雇われた弁護士は裁判を駆るかのように饒舌に有利に進めて行く。そして、暴行は闇に埋もれて行く…
どうしようもないジレンマの中、ジョンはある決断をする。
この映画、本当に演出が甘い。序盤の相棒の殉職シーンなんて緊張感も、ましてや哀感深まる描きなんてさっぱりです。それを抱えるジョンの姿なんて、何?お酒飲んでるのと冴えない表情だけ?
その後も話の盛り上げ方が悪く、いつ決意したかや、どうことが進んでいるのかさえ手に取るようにはわからない。ただ為されるものを見届けるだけ。するといつの間にか為されて終わり。う~ん…
しかし。暴行シーン前後だけは演出が違う。間にたっぷり時間を割き、光や音、そして不安げな森の影までがものを語りだす。そして衝撃のシーンは凄惨な力をこれでもかと吐き出して、驚くほどの印象を残す。
私は必死で見据えました。これは現実だ。たくさんの人の心に残った傷なのだ。
しかし、ちょっと映画はやり過ぎる。悪は悪でしか無く、その暴力には躊躇いが無さ過ぎる。そこまでの人は居るのだろうか?
映画は別な側面を浮かび上がらせる。
人には弱さがある。怯えもするが、堪えられなかったり集団から堕ち零れたくなくて...そんな「カジュアリティーズ」のような弱さもある。ただそんな”弱さ”を築くのは見栄を胸に刻ませ、生涯を脅しながら生きる親のせいなのかもしれない。「男たるものは」そんな脅迫だ。
彼等は親のそんな気持ちに応えようとする。だからそれを体現するような刺青を彫ったりもする。親の名誉を守ろうとするかのように、厄介者呼ばわりされていても、ただ負けない強い男であろうとする。
そんな彼等は法も敵わず、土地に根付いた信仰のコミュニティや政治的繋がり、お金さえ積めば応える強い弁護力を盾に、やりたい放題だ。
だからこそ復讐で向き合うしかないのか?
映画は短絡的に悪を悪に仕立て上げようとする。法外な方法でしか叶わないと主人公も私達をも駆り立てる。
いや、だからこそ、彼らのしがらみを取り除くような展開を描いて欲しかった。
新しい提言は無い。未だに変わらない現実は、未だに変わらない映画を作らせ続ける。想像する通りの映画に仕上げられている。
私は暴行シーンがあると目が離せない。好きだからではない。見据え見届けないといけないような気がするからだ。この「ヴェンジェンス」でも悲鳴を押し留めて、霞む目を必死で開き続けて、そしてその凄惨な全てを心に焼き付けた。
主演はニコラス・ケイジ。終始、冴えない表情で従軍経験や相棒の死を抱え込んでいる男を演じている。
ただ、始終過ぎる。感情の変化や心の変化が伝わらず、どうも映画を盛り立ててくれない。
ティーナを演じたのはアンナ・ハッチンソン。あまり目立つ活躍してきた女優さんではないけれど、”苛まれた被害女性"を全力で演じています。
人前に出ることを怖がり、家族にも信頼する人にもどう接して良いのか分からない。法廷で晒されることに身を震わせ、暴行犯に身を竦めるほど怯える。勇気を出して証言台に立つけれど、声が震え挙動が不安定に、そして心が悲鳴を上げる。そんな難役を頑張りました。
弁護士役はあのダコタ・ジョンソンのパパ、ドン・ジョンソン。大型バイクに乗っちゃったりと、イカス姿をクールに魅せ、皮肉さを見せびらかせてます。
で。何よりの功労者タリサ・ベイトマン。
先日にも紹介したのは覚えてらっしゃるか。映画「ジオストーム」の娘役を演じていた子です。
この子がすごい。
母の暴行を目撃してしまい、更に自分の証言が次から次へと役立たずにあしらわれてしまう。それでも必死で明るく振る舞い、生活を立て直そうと試みる。
母に笑顔で語りかけ、生活を乱さない。脅迫や嘲笑にも挫けない...振り。本当は、もう心が折れそうなのだ。そんな複雑な役どころを全霊で演じてる。
猫に纏わるシーンの”心を隠し切れず涙が溢れ、そしてまた隠す”そんな演技が逸品でした。
心をコントロール出来なくなるほどの被害者の姿はあまりに痛々しいのに、そんな姿を”異常”のように見てしまう社会が漫然としてある。「告発の行方」からなんら変わっていない。
この映画でも、全力で壇上に立ち、震える声、定まらない視線、組み立てられない言葉...全身が引き裂かれんばかりに傷付いていても、法律は揺れやしない。
判断不能。だから、社会は男を誘惑するような服で出掛けていただけで、女性に偏見をぶつけてくる。
男を誘惑したのだから自業自得だと。
私には暴行を犯した人をあれこれ裁く気持ちは無い。それは加害者自身が自身を裁き、時には法律が裁くものだ。しかし、どのような結果が出ようとも、心の奥底についてしまった傷は絶対に拭えやしない。
私は以前ある映画を観ました。思い出すのもはばかられる、壮絶な暴行を描いた映画。それを観た時、心がざらついたように感じました。
私は視聴後に安全な現実に戻り、無かったかのように生活を続けます。しかし数年後、私は夢を見ました。私は私の大切な人達と、その暴行を超えた事件に晒されて心をずたずたに引き裂かれるもの。
私も少しだけ傷を負っていました。
被害者はもっともっと遥かに深い傷を抱えているはず。
思う度、私の希望がいつまで潰えないであるか...心配になります。
ずっと期待と不安がせめぎ有って、映画に抱いたイメージを汚したくないなんてこと、有りません?
私は結構有ります。だから観るのが遅くなってしまう映画も多い。でも、ある映画に対する悶える日々を、ようやく終わりにしました。
「世界一キライなあなたに」と言う映画。
仕事を失ったルー・クラークはある仕事を得る。それは四肢麻痺の男性ウィルの世話をすること。彼は偏屈で心を開かない。持ち前の明るさで必死で向き合うが、全く敵わない。
ある日、彼が安楽死を望んでいることを知り、ルーは何とか出来ないものかと試行錯誤する。彼に生きる楽しさや希望を与えればいいんだ。
それは、彼との絆を温めることになる。
まあ、ルーが表情豊かで明るいこと。それがちょっと行き過ぎて可愛くなく見えることも。:p
でも、そう言うところこそが愛しくて、とっても優しくあったかい気持ちに成りました。その風貌を活かしたキャラクターは、見事なほどに活き活きと映画の中を駆けずり回ります。もう本当に可愛いのよ。
最近のラブストーリーと言ったらすごく生真面目な話が多くて、ちょっとイマイチ愛着が湧かなかった。生真面目だけじゃない、愛ってなんだろう...って考えさせるビビッドなエッセンスに欠けるのだ。
「イフ・アイ・ステイ」や「きっと星のせいじゃない」とか。
...ご批判最も。どちらも決して悪くは無い作品。不運な障害や状況に挑み、愛を貫く人の姿は素敵だし胸に来る。一生の映画に成った人も少なくないのかもしれない。
でも私はダメだった。
「イフ・アイ・ステイ」には昏睡と言う特殊な事態がある。そう言う展開ならば、昏睡した彼女を前に「あれが出来なかった」「あれを伝えておけば良かった」と足らなかった自分を嘆くもの。しかし、ここでの2人は愛を交わし同棲もし、当然、性交渉もした。充分過ぎるほど一緒の時間を満喫した筈だ。浮世の設定のコンサートツアーで一緒に居られなかった時間が喪失したってだけ。
スマホだけで付き合う人も居る現代で、すれ違いも何も無い。努力もしないくせに愛の奇跡もない。
「愛してる」さえ伝えられなかった、触れることさえ出来なかった...そんな繋がりならば、悔やみ涙する時、私は胸が張り裂けんばかりの哀れを感じたことだろう。
「きっと星のせいじゃない」は始まった時から病気持ち。酸素ボンベを抱えて歩くような女の子。
さぞや「あれが出来ない」「これが出来ない」に縛られて満たされない愛の行方に胸を痛めてしまうのだろう...と期待したもの。
しかし、彼等はただ会うだけの愛では満足しない。海外旅行し、「アンネの日記」のアンネが身を隠した家の屋根裏にまで赴く。ボンベを引き摺り、息を途切れさせながら。しかしその直後、性交渉。妊娠。出産、結婚生活…希望は大事だけれど、なんでも手に入れらてしまう。
これは愛。間違いない。しかし、切なさなんて微塵も無い。充分な時を満喫した2人の話。どちらもだ。
しかし。「世界一キライなあなたに」はたった半年の物語だ。それに生活格差があり、おぼっちゃんと使用人と言う立場が絆を深めることを阻害する。更にウィルは自暴自棄だ。愛など信じていない。
そして四肢麻痺。
その中で2人が絆を形作って行くことは、電流が走った!!なんてものでは無く、同情や信頼、友情、期待...様々な感情が絡み合って、気付けばつい口にしてしまう。
「彼には私が必要なのよ」
そうなったら止まらない。愛は駆け足で進もうとする。
最近にしては珍しく、台詞が多い映画です。いや、これでも少ない方だけど、他よりは遥かに多い。
そしてそれは意地悪だったり、心を突くようなものだったり、時には皮肉で嫌味っぽい。ルーは時々、相手の心に障りそうなキツいジョークを言う。それを真面目な顔をして聞くウィルは、ジョークで返す。
思い遣りなんだと思う。きっと胸は痛かった。でも、彼女から笑顔を奪う事は嫌だった。そうして気付く、胸の奥に湧いたささやかな感情。
愛はこのくらいでも輝きだす。いや、だからこそ、胸を焦がす。
この映画は障害に纏わるドラマを描いています。しかし、それに拘り、病気もののジンクスを踏みません。
2人が一緒に居るようになった切っ掛けでしかなく、その後に綴られた幾つもの「あなたのために」が、2人の心を繋げて行く。人は可能過ぎると意外に思いやりを失うものだ。行為を明日に伸ばし、擦れ違いや取り戻せない歪みを生み出してしまう。
2人には阻む壁がたくさんあった。不可能が多いからこそ、それこそが行為の理由になった。そしてそれは、ある部分で障害を容易く越えてしまっていた。
心。真心が2人を結び付ける。
充分、分かる。だから全ての行動が理解出来る。
「愛に言葉は要らない」とよく言われる。しかしそれは「愛」を語らなくてもいいと言う事。いたわり、受け入れ、頼ったとき、人は心が解け合うものだ。それはきっと恋に最も近い。そんな映画。
身体の障害を描いた映画ではない。それを題材にはしていない。
主演ルイーザ(ルー)・クラーク役はエミリア・クラーク。決して美人と賞賛されるタイプではないけれど、とても可愛い。
ラブストーリーの佳作「好きと言えなくて」のジャニーン・ガラファロや「コヨーテ・アグリー」のパイパー・ペラーボを思い出す可愛らしさに満ちていました。
なんだろう。不思議な親近感を感じさせる子です。今回の役どころで、ちょっとお馬鹿でそれがちょっと失笑を買っちゃうところかな。必死なんだけど、結果、お盆の上のものを全部ひっくり返しちゃう、そんなタイプ。
全編、おでこに皺を寄せて眉毛をくにゃくにゃ曲げて、泣いて笑って噛み締めて。感情に正直なルーはとても魅力的でした。
ラスト。印象が一転する美しいエミリアは必見です。
ウィル役のサム・フランクリンは「ハンガーゲーム2」でカットニスを助けてくれる男の子を演じていました。あの乳母と戦う子フィニックです。
英国紳士の趣きを持つ佇まいは、とても素敵でした。
逸品ではない。テーマもあなたの倫理に触れるかもしれない。でもね。人はあなたと違う。誰かの想いがあなたに応えてくれなかった時、きっと憤りを感じるだろう。でも、それを受け入れた時、それはあなたの心を大きくし、豊かにし、そしてもっともっとたくさんの人を愛せるようになる。
ルーも劇中である映画を観る。「信じられない」と主人公の決断にがっかりする。でも、きっとルーはそんな異常な選択にある”想いの強さ”を受け入れられるようになっている。別れや失望の向こうに有る果てしない想いの行方を見つめられるようになっている。
人生は続き、橋やカフェ、香りや穏やかさの中にも過ぎる時は生きていると知る。
素晴らしい余韻。
ちょっと駆け足で溜めの少ない中盤も、全て終幕後の私たちの心の中で育まれる。題材が題材ながら、後味が素晴らしく、とても希望に満ちたおわり。
私は非常に大好きです。