連載記事 私の散歩道(1)告白 貧しさの中で/妹の誕生 | 元極道の僧侶+整体師 玄龍

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三重県伊勢市 整体道場 愚狂庵
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貧しさの中で

 

私と妹 大阪堺市

 

昭和49年、大晦日前の慌しい日に私は沖縄県の中部地方で生を授かりました。

慌しいのは生まれた日だけではありませんでした。

 

1歳になる前には沖縄から大阪へと父親と母親と私3名の家族で引っ越してお風呂もない、

バラック小屋での生活が始まったのでした。

 

今でも簡易な作りな屋根を叩きつける乾ききった雨の音が忘れられません。

 

「なぜ?大阪へ引っ越したか」の理由を親に尋ねたことがあります。

 

その答えは、どうやら父親が何らかの事件を起こして沖縄から

※ガラをかわす(しばらく逃げる)ためのようでした。

 

私の波乱万丈の人生の幕開けです。

 

大阪で住んでいた家には、お風呂がないので、なぜか洗濯機で入っていた記憶があります。

ですから私は「それが当たり前」だと思い込んでいました。

 

父親の仕事はトラック、タクシーの運転手。

でも何度も会社でトラブルや喧嘩などを起こしては問題を抱えて職を転々としていたようです。

 

母親は街の工場などでパートの仕事。私が物心ついたころには

父親が酒を飲んでは母親と喧嘩し暴力沙汰など日常茶飯事。

 

私の母親も性根がすわっているので、殴られても歯向かうような状況でした。

そして外へ母親が飛び出して逃げてしまう。

 

酔いから醒めた父親が、いつも母親に謝りながら一件落着するようなことが多かった気がします。

 

そういう意味では私の父親はシラフのときは素直でした。

しかし酒を飲むと人が変わったように暴れまくり、

その豹変ぶりは、ジギルとハイド、まるで二重人格をもった人間でした。

 

私と父親 

 

 

それはそうと母親が逃げるときは当時、流行っていた「カーモーテル」へ一時避難することが多くて

私もよく母親と一緒に古びたカビ臭いカーモーテルに泊まったことがありました。

 

殴られて顔が腫れている母親の姿を見るのは忍びなかったのですが、

母親の近くで安心して一緒に眠れるのは幸せな時間でした。

 

でも一方では、とても面倒見のいい父親でもありました。

 

ボクシングなどが大好きだったようで、枕をサウンドバック代わりに

私にパンチや蹴りの練習をさせたりしながら遊んでくれたりしたことも今では良き思い出です。

 

そんなことをしながらも一度、私の肩が脱臼したことがあったようです。

泣き叫ぶ私の肩を父親自身が無理やり入れ込んで

治したこともありました。

 

今振り返ると、なんとも破天荒な家族としか、いいようがありません。

 

 

 

妹の誕生

 

私と妹 大阪堺市?

 

大阪の堺市で住んでいるときに、私の4つ下の妹が生まれました。

先天性の聴覚障がいを抱えながら。私はその頃4歳ですがハッキリとした記憶をもっています。

 

妹の耳がちゃんと聞こえているかの確認のために、

父親と母親が押し入れの中に隠れて大声を出している姿を覚えています。

 

私は子供ながらに「何か大変なことが起きている」というようなことだけは分かっていたようです。

 

妹が生まれてから母親は妹の世話をするのに一生懸命でした。

 

当時のろう者に対する言語教育?

は今と違い「手話」ではなくて「口話」を大切にしていたと思います。

 

毎日、ウエハース(お菓子)を妹の舌にのせながら

発声の練習を来る日も来る日も欠かさずにしていたことを覚えています。

 

私は、なぜ妹だけが耳が聞こえない障がいを抱えて生まれてこなければいけなかったのか。

日々の生活において妹と接するたびに可哀そうだという同情心が湧いてきました。

 

母親や私が妹の名前を呼んでも聞こえない。

振り向いてくれない。

また友達同士で遊んでいても人数が多ければ口の動きを見ることに限りがあります。

 

だから皆が何を笑っているのか、楽しんでいるのか、そういうことが理解できない。

そんなとき妹は、とても寂しい顔をしていました。

 

その孤独感がストレスになり急に怒りを爆発させたりしたことも度々あったのを覚えています。

 

そんなとき私は妹に「俺が教えてあげるから、何でもわからないことは聞いてきて」と伝えていました。

 

それから妹は遊んでいるときもテレビを見ているときも常に

私に「何て言ってるの?」と尋ねてきたのでした。

 

私はなるべく妹にわかりやすく伝えるために

テレビを観ているときも友達と遊んでいるときにも

妹が皆とコミユ二ケーションが取れるように気を付けていました。

 

そういう経験の中で強く怒りを感じていたのは

 

「なぜテレビなどは耳が聞こえない人のために字幕を出してくれないのか」という

聴覚障がいを抱えた妹や人々に対する不平等な世の中の仕組みでした。

 

現代でも、このような情報格差は存在していますが早急に是正されることだと思っています。

 

また周囲の大人たちへ対する怒りもありました。

 

なぜなら妹に直接話しかけることをせずに、

いつも私を介して「何歳なの」「名前は」などを尋ねることが多かったのです。

 

そんな時も私は常に私が妹の代わりに答えるのではなくて

妹と当人と会話できるように仕向けたものでした。

 

だって妹は耳が聞こえないだけで意思疎通をすることは出来るからです。

 

最初から意思疎通を諦めているように私には思えたのです。

妹と大人が面と向き合って話して欲しかったのです。

 

妹は常に私の後へ付いてきて遊んでいました。

母親がそういう姿を見ながら「金魚の糞みたいだねぇ」と、よく笑っていました。

 

子ども達は純粋なところもありながら時には包み隠さずにストレートに言うことがあります。

友達同士で遊んでいるときに喧嘩は付きものです。

 

妹も友だちと、よく喧嘩したりもするくらい

逞しいところもあったのですが友だちが妹へ

「耳悪」とか聴覚障がいに対する文句を言うことも多々ありました。

 

そんなとき私は怒りを剥き出しにして妹をかばいながら

喧嘩している相手を殴って謝らせることが常でした。

 

例え子ども同士であっても障がいなどに対する

差別は絶対に許されることではないと思っていたのです。

 

でも時には困ったことが起きたこともありました。

あんまりにも私が妹を庇いすぎてしまったことが原因で一時、

もう妹とは遊ばない、避けて通る空気になったことがありました。

 

私は困り果ててしまいました。

とても複雑な心境だったことを覚えています。

守りすぎても妹のためにならない。

でも差別など絶対に許さない。

 

これはどうしたらいいのか。

 

これは妹自身も強くなっていくことが必要だ。

子どもながらに出した私の回答でした。

そして家にお金がないのは知っていましたが

母親にお願いして私と妹も一緒に空手道場へ通うことになったのでした。

 

そういう熱い私の思いの原点は子供ながらにも人間関係で葛藤を繰り返し

「大切な人を守るには強くなること」「自分のことは自分で守る」ということを学んでいったのです。

 

飽き性の私が小学三年生から中学二年の間、

地元の空手道場へ通えたのも、そういう背景があったからでした。

 

冒頭で書いた可哀そうな妹という同情心は、

いつしか日々を逞しく乗り越えていきながら、

妹を私が兄として守ってあげながらも「同時に妹も鍛えていく」

という強い決意と生きる力へ変わったのです。

 

母親は妹が聴覚障がいだという事実を知ってから

悲しんで泣く日々が多かったらしいのですが、

私の父親が「子どもを可哀そうと思い泣くことは、母親のエゴだ」という

一言に救われたと話してくれました。

 

それ以来「一度も泣いたことがない」と言っていたことを覚えています。

大酒のみで破天荒な父親も、たまには良いことを言うものだ。

と妙に感心したものでした。

 

妹の誕生は貧しい私たちの家庭の各々に生きる力や知恵を与えてくれたようです。

私の今の活動の原点も妹と共に生き抜いた知恵や思い出があったからだと思います。

 

母親が図書館から借りてきたヘレンケラーの本を読んだりしながら

耳だけじゃなくて目も見えない障がいを抱えるヘレンが成長していく姿に

何度も感動したことを覚えています。

 

沖縄に帰った頃、周りは墓地だらけの小さな家で生活保護を受け、

いつも仕事で遅い母親を私と妹、二人、家で待ちながら

私がヘレンケラーを妹に何度も読んで口話で伝えたことが今としては懐かしい思い出です。

 

 

 

 

 

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