哲学する仏教から 第6図は天上天下唯我独尊 マインドフルネスで誰が気づいているのか | 元極道の僧侶+整体師 玄龍

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三重県伊勢市 整体道場 愚狂庵
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当院の整体はこんな方にオススメです。


こんにちは

玄龍です


緊急事態宣言解除が全国で解除されて

伊勢も参拝客が増えて、さぞかし又忙しくなるだろうと予測も

見事に外れている日々です。


そんなわけで連日、読書したり、最近はじめた執筆活動をしたり

たけぼうと探究について語り合ったりしてる今日頃ごろです。


昨夜は第5期マインドフルネス認知・行動療法8週間プログラムを開催。

MBCTのワークブックには載っていない仏教的視点からマインドフルネスを語ることが

多くなってきました。私としても、とても嬉しいことです。


さて今日は前回も書いたのですが

哲学する仏教という本をテキスト?にして考えてみたい思います。

 

 

 


「大きな私」と「小さな私」についてです。

だってこの問題を明らかにしないとマインドフルネス実践は

全然違う方向性へ迷走する可能性があるからです。



この6図は、いわば涅槃、悟り、仏など言葉はなんでもいいのですが

とにかく一般の在り方、第4図の世界とは全く異質な在り方をしている私を示してるようです。

哲学者の永井均さんは「独在性」と「私秘性」の違いを内山興正は気づいていたと称えながらも

ときには、それを混同していた。と指摘しています。


「マインドフルネスで誰が気づいているのか」という最大ともいえるテーマとも深く関わってくると思います。


内山興正老師の著書は私も何度も読んだことがあります。


そのなかで

坐禅がわれわれに覚めさせる尽一切自己とは、要するに「見渡す限りの自己の生命を生きるのみであって、ここには他者というものがなく、

それゆえ、どっちへどうころんでも自己ぎりの自己の生命を生きるのだ」という態度そのものでなければならない…

坐禅の意味と実際


こう書かれています。


この存在の在り方を哲学者の永井均さんは「独在性」だと言っています。


この本の中には出てこないのですが

私は「天上天下唯我独尊」こそが第六図であり「独在性」だと思います。

私はブッダが生まれてすぐに七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言われたと伝えられているのは、あり得ないと思っていますが


この「天上天下唯我独尊」という言葉のイメージは「とても大切」だと感じています。

内山興正老師の図は第1図~6図のイラストを使用しているんですが、

6図そのものが本来は1図ではないかと私は感じています。

 

 



つまり私が誕生する始まりは6図だということです。

ブッダが生まれたときと天上天下唯我独尊がリンクしていることも面白いと思います。


何度もいいますが「天上天下唯我独尊」という言葉のイメージは

「とても大切」だと感じています。


というのは仏とか神とか、そのような言葉を使うと本質が完全に失われるような気がするからです。

存在というテーマが、道徳とか倫理とか宗教みたいなイメージでとらえらると、仏教的にいえば外道になってしまう。

※外道 真理に反した道

言葉という性質上そのものが、元来そうではありますが。。


マインドフルネスで誰が気づいているのか、という問題も

「天上天下唯我独尊」第六図の世界そのものが第4図などの世界観、いわば舞台で芝居をしている役者としての私に気づいている。

 

 

それを表現すると第5図になるのではないか。

 



その理解がまずは大切なポイントだと思います。

私が講座などで話をするときには、このような分かりやすい図がないので

「大きな私」として表現することが多くあります。

玄龍   「大きな私」

仏教的文脈「仏性」「仏」

ブッダ  「天上天下唯我独尊」

永井均  「独在性」

内山興正 「自己ぎりの自己の生命」

これ全部、言葉は違えど同じ内容を示していると思えます。


さて。ここでブッダが説いたとされる(一応)「天上天下唯我独尊」ですが

この意味も「どの世界観から解釈するか」で全く話にならない結果が出てきます。

例えば「小さな私」の世界観で解釈すれば

「なに!!天上天下唯我独尊だと!!エゴの最たるもの」

「なに!!天上天下唯我独尊とは!!隣人を愛しなさい」


こういうメンタリティのような方々は、第4図の世界観、私の比喩でいえば「小さな私」同士が住んでいる世界の住人なわけです。

 



※小さな私の世界には、新垣玄龍も勿論住んでいます。誤解なきようにお願いします


余談ですが暴走族の特攻服には「天上天下唯我独尊」とか「全国制覇」だとか刺繍していました笑

私は中学の卒業式の学ランに「天上天下唯我独尊」と金の刺繍で背中に入れたかったのだけど予算が足りずに断念した経緯あり。

天上天下唯我独尊の「独」これは「独り」を意味します。第4図の世界観で示す「一人」ではありません。地球の中の人口の一部としての「一人」ではないのです。




(解放の真宗学)泉 惠機さんは天上天下唯我独尊について、こう書いています。


「唯我独尊」とは、「唯だ、我、独(ひとり)として尊し」との意味であり、それは、自分に何かを付与し追加して尊しとするのではない。

他と比べて自分のほうが尊いということでもない。天上天下にただ一人の、誰とも代わることのできない人間として、しかも何一つ加える必要もなく、

このいのちのままに尊いということの発見である。



これも読み方によっては「道徳の授業」みたいな感じで「命は大切にしよう」みたいな感じに陥りそうな。。。



そのあとに、こう書いています。

人間は何らかの条件によって尊いのではなく、人間の、いのちの尊さは、能力、学歴、財産、地位、健康などの有無を超えて、

何一つ付加することなきままで尊い「私」を見出すことの大切さを教える言葉である。




第4図の世界観でもある「小さな私」は条件だらけ、区別、分別だらけ。

そこで「一人、一人と比べて自分より低い価値だと思う人を見つけては「安心」している。

「いやいや私は差別は嫌いだ、どこそこの人権委員もしていたし」

たとえ、このような人がいても、それは第4図の世界「小さな私」での芝居なんです。

芝居だから「嘘」を言ってることが自分でわかる。

というか、そもそも第4図の世界そのものが大きな構造で眺めれば差別的構造なんですから。

差別的構造社会のなかで差別をなくそう。といっても所詮、無理なんです。

だって、いくらあがいても「そのパラダイムの中」だから。

じゃあ、どうしたらいいのか。

そのパラダイムから出るしかないんです。

それがマインドフルネスの本当の価値なんです。

独りを見出していくしかない。

どうやって見出すか。

マインドフルネス実践によってです。

 




そして「独り」このような比べようがない第六図のような「天上天下唯我独尊」いわば

「大きな私」としての世界観、いや存在にしか

本当の「安心」とか「平安」はないわけです。

 


そこからしか本当のマインドフルネスの気づきはあり得ないのです。

過去も未来もない「今」や永遠の今、不生不滅なども「大きな私」の

時間論でしか見出すことはできないと思っています。

 

「大きな私」と「過去も未来もない今」は関連性がかなり、あるのですが

 

まだ整理できていない部分が、かなりあるので少しづつ整理出来たら

 

書いていきたいと思います。

 




最後まで読んで頂き感謝

生きとし生けるものが幸せでありますように




 

 

 

 

 

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令和2年4月26日(日)

午前の部10:30~12:00 
骨盤をゆるめる/仙骨を立てる

午後の部20:00~21:30
肩甲骨はがし/上半身を脱力させる

 

 

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コース期間:2020年7月6日(月)~9月7日(月)(全10回)

申し込み期限::2020年7月1日(募集終了)

 

 

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コース期間:2020年7月7日(火)~9月8日(火)(全10回)
申し込み期限::2020年7月1日(募集終了)

 

 

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伊勢こども&オジーオバー食堂が朝日新聞で報道されました。

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