「ムカつく」という心理 | *:.。..。.:+・゚●スピリチュアルな日常*:.。..。.:+・゚ほんとのことがしりたい●*:.。..。.:+・゚

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Spiritual…霊的◆Spirituality…霊性、精神性◆Spiritualism…精神主義、心霊主義◆霊… 不思議な力や働きをもつ存在。万物に宿る精気。肉体に宿ってその活動を司る精神的実体。魂。

あなたが苦手に感じる、または嫌いな人ってどんな感じでしょうか。

私は、すごく嫌いな人がいた時に「どうしてここまで嫌いになるんだ?」と、イラつきながらも仕組みを知りたいと思ってました。そんなことを考えていた時に飛び込んできた言葉の中で、一番衝撃的だったのがこれ👇

 

「あなたは、“自分はこうならないようにしよう”と思っているタブーを平気で破っている人を嫌いになる」

 

う~わぁ…それだぁ…ドンッと思いました。

つまり自分も、嫌いな相手と同じようなことをやってしまう可能性がうっすらあって。

だからこそ、そうならないように気を付けようと日々心掛けていた…という自分の隠れた一面を見たような気がしました。まあ全部が全部そんな仕組みってことでもないでしょうけど。

ここから先の内容は、正義感が強くまじめでがんばりやさんタイプの方に当てはまる感じです。

 

たとえばなんですけど。

自分というひとりの人間を「ひとつの国」だと考えると、自分が持っている倫理観や価値観は「自分国の法律」とも言えるわけで。

 

ムカつくアイツは「これは絶対やっちゃダメ!」という、自分国の法律で厳しく禁止されていることを平気でやっちゃってる、ということです。

 

それやっちゃうと軽犯罪法違反ぐらいでは済まないよ!っていうぐらい自分国では重い罪…そんなことをアイツは平気でやってる!罪の意識ゼロで!しかも「自分は正しいことやってます」みたいな顔してる!そりゃ嫌いにもなるわ…メラメラとヘンに納得してしまいました(-""-;)

 

法律の内容にもよりますけど、まじめな人ほど厳しい法律で自分を律することが多いようです。

この法律をきちんと守ることで、一般社会では「ちゃんとしてる」「いい人」「常識人」みたいなイメージで信頼されて、表面的な人間関係は円滑にいくことが多いです。

 

でもこの法律遵守の陰には副作用というか反作用というか、そういう感じのものがあります。

無意識レベルで自分を法で縛っている状態ですから、自分が法律違反を犯した時は無意識に自分を責めてしまいます。その延長線上にあるのが、法を犯した他人も自分と同じように責めたくなる…という歪んだ正義感です。

 

つまり。

自分はその法律を一生懸命守って常識人であろうと必死の努力を続けているのに、あいつは平気で破ってる!なのにどうしてまじめにがんばってる自分の方が我慢しないといけないのか!?

という理不尽さが許容範囲を超えると、心の中でその人を批判し始め、嫌いになり、憎くなり…

 

そして悲しいかな、あれほど守っていた法律を破ってまでも、何とかそいつを罰したいという心理状態に陥ってしまいますドクロ

 

※お気付きの方もおられるでしょうが、この法律はあくまでも自分国のみで通用する法律です。他人は当然ながら他人国の法律にのっとって生きています。

自国においてはたとえ法律違反の行為であっても、他国では全然オッケー!ということはわりとたくさんあるのですが、エゴが暴れ出すとこの「治外法権」という理性的な視点はあっけないほど簡単に消え去ってしまいます。(治外法権を簡単に言うと、他国に在留している時であっても他国の法律は適用されずに、自国の法律の方が適用される…みたいなことです)

だから私は自戒する時には、「ちょっと待て!あせる自国のルールで他国の人を裁いてないか?あせる」と、暴走するエゴに対して必死で意見するようにしています汗

 

まじめに法律を守っていた自分が、法律を破ってまでも相手を懲らしめたくなる…

相手を憎み、批判し、自分を正当化することに終始するようになるのですプンプン

 

その負のスパイラルにハマりながらにして、いつ真実に気付けるかというのが私たちの課題のひとつです。さらに真実に気付けた後に、どんなレベルでそれを日常生活で活用できるか?というのも課題です。人間関係の課題は、多岐にわたって本っっ当に何度も何度ももたらされます。。。手裏剣

 

私の場合はですが、真実に気付いた後は、相手や外側に対するアプローチをすべて強制終了します。解決方法はあくまでも自分の意識活動のみです(サラッと書いてますが上手くはできません泣)

相手や外側に対してまだ何かこだわる気持ちがある時は、気付きの度合いがまだ浅いんだな…と判断して、もっともっと意識の深いところまで潜っていきます。。。🐡

 

自分をがんじがらめにしていた法律があったことに気付き、それを手放す…という意図を持つこと。

それがいつも私がやってる方法で、やった時は手ごたえも実感も何もないので効いてるのか効いてないのかまったくわかりませんが、その後現実が変わっていくのでたぶん効いてるんだと思います。

 

同時に、冷たく凝り固まった心…それをいたわりの言葉で柔らかく解きほぐしてあげることもすごくいいです。。。

 

「もうがんばらなくていいよ…必死で法律を守らなくていい…たまには無責任に放り出してもいいんだよ…今までよく辛抱したよ…泣きそうになりながらがんばってたこと知ってるよ…だからもういい…もうそんなにがんばらなくていいから…肩の力を抜いて、もうこれ以上がんばれないって泣いていいから…」

 

みたいな感じの言葉をゆっくりと自分にかけてあげてください。

しかし本来まじめな人間が「がんばらない」というのは、実際やってみるとなんか不自然というかね…あせる

ふまじめにやることをがんばるとか、いい加減にやってみようと努力するとかは、「マジメか!」とツッコみたくなるわけで(苦笑)それはそれでたぶん違うと思うのです(^▽^;)

 

だから表面的な行動を変えるんじゃなくて、気持ちをゆるめてあげるということなんです。

極端な話、やってることは今まで通りでも別によくて、ただ、どんな気持ちでそれをやってるかっていう部分を軌道修正するって感じです。

 

何をやったかではなく、どんな気持ちでやったか。なぜやったか。

何を言ったかではなく、どんな気持ちで言ったか。なぜ言ったか。

 

たとえば、今までだったら「ちゃんとしないといけない」というたったひとつの選択肢しかなかったのを、「ちゃんとしたい時はちゃんとするけど、できない時はあんまりできなくてもいい」という感じで、選択肢を増やしてあげるのです。

 

ちゃんとできない時があってもいい。

変えるのはまずそこらへんの意識です。常に完全を求める完璧主義の自覚がある人は、不完全さが加わってこそ完全なる完璧が成立するという価値観を、試しにしばらく取り入れてみてください。

思い込みは良くも悪くも現実を創ります。思い込み続けることによって脳が勝手に整合性をとり始め、いつの間にかそれが当たり前だと感じるようになり、いずれその思考が具現化します。しつこいようですが、良くも悪くも、です。

 

そしてちゃんとできなかった時も「大丈夫チューリップ赤たまにはそんな感じで全然OK」みたいに、あっさり自分を許すと最初から決めておくのです。それを新しいルールにするわけですね。
そうして力んでいた心身をゆるめることで、逆にパフォーマンスの質が上がることはよくあります。

 

で、試してみるとわかると思いますが、選択の余地なしで「そうするしかない」と思いながらやるのと、複数の選択肢があって、そのいずれかを自分の意思で選んで実行するのとでは、同じことをやっていても気持ちの負担が全然違うんですよね。

 

とにかく努力とか頑張りとか我慢という類いのことは何もしません。むしろその逆で、努力してきた・頑張ってきた・我慢してきた心を全部ユルンユルンにゆるめてあげて、優しくいたわってあげる方向です。

 

もう許そう…もういいかげんこの呪縛から自分を解放してあげよう…という気持ちで自分と向き合う。

あの人とかこの人じゃなくて、誰よりも何よりもまず自分を許す、ということです流れ星

 

がんばらなくては!ちゃんとしなくては!という想いでガチガチだった心にこれ以上ムチをふるっても、もはやデメリットしかないと心底思えた時、次のステージに進むタイミングを迎えています。

 

選択の余地がない心理状態は思った以上にダメージが大きく、それを無自覚にずっと続けていると何かしらのネガティブ現象を引き寄せることがほとんどです叫び

 

それを回避するためには、「それも選べるけどそうじゃない方も選べる」という、逃げ道や選択の余地を作ってあげるのもひとつの方法かな、と思うのです。

 

やらされてるんじゃなくて自分の意思でやっているという、小さいけれど確かな納得感…そんな心の自由を得ることが、ひいては自分の人生の舵取りは自分がやっているという、自分軸のベースになるのかもしれません。やってることを変える必要はなく、どんな気持ちでやってるかって部分だけを少しずつ変えていくのです。

 

自分に逃げ道や選択の余地を作ってあげないと、やってるうちにだんだん八方塞がりになってきます。

これは小さなことなら「家族のご飯を作る」「たまった洗濯物を洗濯する」などから始まり、「飲み会に行く」とか「この会社で働き続ける」とか「起業したからには諦めずに続ける」とか、果ては「結婚生活を維持する」などにも至り、生き方そのものにまで影響を与えます。

 

時には家事を放棄する選択、飲み会を断る選択、退職する選択、廃業する選択、離婚する選択…

そっち側を選ぶのは確かにかなりの勇気と、怖いことと向き合う覚悟が必要ですから、そんなことするぐらいなら我慢して現状を維持する方がラクだと思うのも自然な成り行きです。変化を恐れるのは生物の本能的な部分でもあるので、仕方ないといえば仕方ないのです。

 

でも、本能任せに…つまり無意識の反応のみで生きていると、意識的な選択は当然ながらできません。

意識的な選択をしない生活を続けることで後々生じるデメリットは、一時的に恐怖と向き合うことよりはるかにはるかに大きいのです。

 

ひとつの選択肢しか与えず逃げ道を遮断してしまったら、最初は好きで始めたことでもいずれ義務のようになってきて、しまいにはそれをすること自体がストレスになることもあります。

 

なぜそうなるかというと、単に一方的な思い込みが原因であることも少なくありません。

「自分がやることになってるから」「どうせ他の人はやってくれないから」「やるとみんなに宣言したから」みたいな感じのもの…とにかく100%自分がやらなきゃいけないと思い込んでる状態。やらないとかやめるとかとんでもない!と、ちょっとした強迫観念があることに気付いていません。

 

「途中で投げ出すのは無責任」「好きで始めたなら最後までやるべき」「やりたくなくてもやるべきことはある」「○○なら○○すべき」「○○に迷惑がかかる」「人に頼るな」「泣き言いうな」「笑われるぞ」etc…

 

時と場合によってはこうした指摘が当てはまるシーンもありますから、これらの一般常識を自分国の法律として取り入れるのも、取り入れないのも自由です。ただ「そう言える時もあればそうとは言えない時もある」という柔軟性はあった方がいいと思います。

 

状況やシチュエーションによって、もう少し踏んばった方がいい時もあれば即断即決でやめた方がいい時もある。しばらく様子を見ながら決めた方がいい時だってある。その判断材料として最も大事なものが自分の感覚です。自分の感覚は他人にはわかりません。

 

他人にはわからないからこそ、他人は他人の感覚で言いたいことを言います。そして他人は責任を取る義務もありません。それでも他人の感覚を軸とした人生を送るのか?この選択も自己責任です。

 

自分の人生の舵取りをするのは自分か他人か。どちらを選ぶも自由なのですが、忘れちゃいけないのが選択の結果を受け入れる義務もセットで付いてくるということ。他人に気を使う人ほど他人の言うことを尊重して自分の想いを押し殺してしまいがちですが、そんな皆さん!生きづらいでしょう!?私もそうです、もうホントに疲れましたから…少しずつ、1ミリずつでいいから変えていきましょう(泣)

 

それで何をどうしたらいいのかというと、普段から自分の感覚、感性、気持ちというものを意識的に感じ取るようにして、そっちの方を尊重してあげるということですね🌸

いきなり他人に本音を伝えられなくてもいいんです。たぶん何が自分の本音なのかさえ判らなくなってると思うので…まずは自分が何をどう感じているのかをちゃんと感じてあげることから始めます。それに慣れてきたら、自分の気持ちや自分の感情などを最優先して物事を判断する。あの人の気持ちとかこの人の意見とかではなくて、ねドキドキ

 

もちろん中には取り入れた方がいい他人の意見もありますが、その判断さえも自分の感覚が基準です。でも、とにかく多くの人が意外なほど自分の本音がわからないんですよ…私も自分の本音がわからないことよくあります。自分の本音さえわからないのに、ましてや他人の本音なんてわかるはずがないです。たぶん当の本人だってあんまりわかってないだろうし汗

だからもう考えない。無駄。無意味。生産性ゼロ。悪影響しかない。やめビックリマークです(笑)

 

で。

いつもやってることをやらない選択や、何かをやめる勇気がなかなか出ない時ってよくあります。

これは、自分の気持ちを素直に伝えることが怖いという気持ちもあるかと思いますが、まじめな人であればあるほど「しんどいからやりたくない」「気が進まないから嫌だ」という理由に正当性を感じられないんですよね…そういう理由で「やらない」っていうのは、なんとなく罪悪感…汗ってなってしまう。

 

でもそれは自国の法律なだけで、しんどいからしない・やりたくないからやらないという法律が、普通にまかり通ってる他国(他人)はたくさん存在してるんですよね…

 

もちろん「やりたくないからやりません。悪しからず!」などとミもフタもない伝え方はさすがにNGですねあせる物は言いようで角が立ちますから言い方には気を付けたいところですが、会話不足の人間関係においては伝え方の問題も含めて「言ったってどうせムダだから我慢する」ということが起こりがちです。

 

もちろん100%本音で生きなきゃいけません、ということではないです。それはそれで弊害があります。でも何ひとつ本音が言えないという状態も、良い環境ではないと思うのです…針の穴くらいでもいいから、どこかに突破口を開く必要があるかもしれません。

 

本音が言えない環境や関係性…これはコミュニケーション不足と言えるでしょうし、そうするしかないという精神的圧迫感を生む原因のひとつでもあるでしょう。

本心を伝えるという行為は、その時はたしかにちょっと手間がかかるかもしれないし、なかなか理解してもらえずにちょっと面倒なことになるかもしれない。でもその手間を「面倒だ」「ムダだ」と脇に押しのけて本音をごまかしながら生きていくうちに、いろんなところと連動している人生の歯車が少しずつ狂い始めるのです。

 

勇気を出して伝えてみれば拍子抜けした、自分の考えすぎだったということはよくある話です。

「文句を言う」「相手の欠点を指摘する」んじゃなくて、「想いを伝える」「誠意あるお願いをする」んですね。

「あなたねぇ」というユーメッセージじゃなくて、「私ね」というアイメッセージで伝えるんですドキドキ

 

「これ以上がまんするのはもうやめよう」「どう思われてももういいさ、仕方ない。嫌なもんは嫌なんだ」「どんな展開になってもかまわない」「嫌われたら嫌われた時だ」「とにかくやるだけやってみよう」

 

実は、こういう腹をくくった状態や迷いのない状態こそが、予想外の展開(嬉しいやつ)を引き寄せるカギなのです。逆に、「そうは言ってもなあ…こんなこと言ったら相手はどう思うだろう…」と悩んでいるうちは「ほらやっぱりね、私の思った通り」という、ある意味予想通りの展開(嬉しくないやつ)を引き寄せることが多いです。

 

※このブログを読んでくださってる方それぞれにいろんな事情があると思いますから、できない時はどうか無理しないでください。できそうな時だけ、よかったら参考にしてくださいクローバー

 

自分の人生、いったいどこから狂い始めたんだろう…?という状態にならないためにも、面倒がらずに自分と向き合い、自分が何をどう感じているのかを知ることは、ことのほか大事です。

 

そして。

目の前の大事な人とちゃんと向き合って、自分の本当の気持ちを丁寧に誠実に伝えていくということは、いい人仮面を被って偽りの平和を維持することとは比べ物にならないくらい大切なことだと思うのです。

 

問題だと思っていたことが実はそこまで重大な問題ではなく

問題をどうにかしようとがんばりすぎたことがむしろ重大な問題だった…雷

 

価値観の大逆転が起こったら、人生の流れが少しずつ変わり始めます。

だからといってすぐに、逆転した価値観に納得できなくてもまったく問題ありません。

それは自分にとって強い力になることを理解さえできていれば、脳内ではすでに新しい思考回路が構築されたということです。

 

あとはその思考回路を使って何度も判断・選択・実行を繰り返す。そんなことを続けていれば、その価値観に「体験」が加わります。知識が経験に変わると、自然に納得できるようになります。

 

学べば学ぶほど、今まで自分が信じてたことが実は不要なものだったと知ることも多く…価値観の破壊と再生を繰り返すうちに、観える世界が徐々に様変わりしていきます。

 

で、最初はなかなかうまくいきません。あれ~??となることも多々あり。

でもやる。そのうちだんだん定着して安定してくる…で、次の学び。その繰り返しです人生ってヒマワリ

 

一周まわって元の場所に戻ってくることもしばしばありまして。

「結局やってること同じなんじゃ…?(笑)」と思っても、やってることは確かに同じなんですが、どんな気持ちでやってるかがまるで逆。源泉が別もの。そんなことも起こります。

 

 

迷い、彷徨い、壁にぶち当たって立ち止まる。

前に進めなくなり考える。考えれば考えるほどわけが分からなくなる。どれだけ考えても答えが出ない。そのうちお手上げ状態になり、どん底だ…先が見えないと、もがく力さえ消え失せる。

 

そのどん底状態になってようやく見えてくるもの…それが真理の光かなと思うのです。

真っ暗闇のどん底に差しこむひとすじの光に、私たちはいつも導かれてるんだなあと。

 

真っ暗闇に突き落とされる理由は、光以外の余計なものをすべて消すためなのかなと。

上に上がることしかできないどん底は、むしろ落ちる可能性をすべて消すためなのかなと。

 

だったら真っ暗闇もどん底も、今の自分に必要だから起こったんだ…と思えるのです・゚・*:.。.*.。.:*・キラキラ