すごく大事な「自己受容」 | *:.。..。.:+・゚●スピリチュアルな日常*:.。..。.:+・゚ほんとのことがしりたい●*:.。..。.:+・゚

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Spiritual…霊的◆Spirituality…霊性、精神性◆Spiritualism…精神主義、心霊主義◆霊… 不思議な力や働きをもつ存在。万物に宿る精気。肉体に宿ってその活動を司る精神的実体。魂。

自己否定、自己肯定、自己受容。

意識の変容を志す多くの人にとって

これらは段階を経て訪れるのかもなあ…と思いました。

 

真理を知ってしまった当初は、ついつい正しさや美しさだけを肯定したくなる。

そしてその反動で、そうでないもの…間違いや醜い心、愚かさなどを否定したくなります。

 

「こんな考えを持っちゃいけない」「こんな感情に揺らされる自分はダメだ」

と自己否定してしまう時期があります。≒他人を否定したくなる時期。

 

でもしばらくして、否定していた「それら」を受け入れることが大事なんだと知ります…

「こう考えてしまうのも自分自身だ…それに蓋をしちゃいけなかったんだ…」

「湧いてきた嫌な感情も受け入れることが大事なんだ…否定じゃなく肯定なんだ…」

と、「そんな自分」にイエスと言う努力をする時期もあります。≒がんばって他人を肯定する時期。

 

その先にあるのが自己受容なのかな、と私は思うのです。

ノージャッジの時期。

良いとも悪いとも判断せず、ただそのまま認める時期。≒他人のこともそのまま受け入れる時期。

 

「ああ…そんなふうに考えるんだな、自分は…」

「なるほど…私はこういう言い方されると怒るんだ…今、腹が立ってる…」

 

ポイントは、それを問題だと捉えないことと、その続きを考えないということです。

問題と捉えていないので、特にがんばって解決の努力をするでもなく

ただそのまま受け止めるだけ。観察。認識。これが自己受容なのかなと。。。

 

自己受容というものが少しずつ分かってくると同時に

他者受容のキャパシティもちょっとずつ広がっていきます。

ジャッジが減り始めると、自分と他人の考え方の違いや、それぞれが持つ個性を

「自分の意見に反発された」とか「この人は間違ってる」とはあまり考えないようになり

違いや個性をただそのまま受け入れることが、ほんの少しずつですが出来るようになってきます。

 

自分に対しても他人に対しても、湧きあがってくる感情は似たようなものなんだと感じます。

正義感の強い人は、他人の過ちも自分の過ちも同じように許せない、とか

他人の言動をよく責める人は、実は自分に対してもダメ出しが多い、とかのことですね。

(それを実際口に出していないとしても、エネルギーの影響は存在しています)

脳は自他の区別がつかないと言われているので

出来事に対して湧き上がる感情は、対象が自分であれ他人であれ、さほど違いはないようです。

 

だから自分を受け入れるようになってくると、他人のことを受け入れる思考回路も自然にできてきます。

「あの人苦手だけど受け入れる努力をしなくちゃ!」とがんばらなくても、です。

むしろこの手のがんばりは弊害だらけなので、おすすめできたもんじゃないと個人的には思っています。

 

自己受容と自己肯定は似て非なるもの。

自己肯定には、「きっとこれでいいはずだ…!」と必死で自分に言い聞かせているイメージがあります。

その気持ちの奥底には、自分でもハッキリ認識できない「もうひとりの自分」がいますよね…

「ホントは違うってわかってるけど」

という、「実は聞きたくないホントの答え」を叫んでるもうひとりの自分が潜んでいることがよくあるんです。

 

しかし自己肯定も自己否定も、エネルギーの観点から見ると

正しいから良いとか間違ってるから悪いとかじゃなくて

内容にかかわらずどちらも単なるアンバランス状態だと私は捉えてます。

 

否定も肯定もしないニュートラル状態…いわゆる自己受容できている状態というのが

ゼロポイントフィールドのエネルギーと共振できる在り方なのかもしれません。

 

そして、エネルギーの世界から三次元世界に意識を戻すと

自己受容状態にもまだ続きがあると私は感じるのです。

 

例えば、自分の心の闇(見たくない自分の一面みたいなもの)を認識した時。

その闇に対して嫌悪感を抱いたり落ち込んだりヤケになったりせずに

「これが今の自分である」とそのまま、ごく自然に認識するような感覚です。

 

そのあと「では、これは今私に必要か?」ということを、理屈ではなく感覚的に感じ取ってみます。

そして、不要であると感じたならば

「これを手放す」という明らかな意図を、感じたその時に一度だけ持つ。感情は一切絡めず淡々と…

 

※私はこれを意識的に自分でやるのが性に合ってますが、人によって好みはさまざまです。

ブロック解除・潜在意識の書き換え・インナーチャイルドヒーリング・カルマ解消・タッピング等、世の中に手法はいろいろあるようです※

 

これはもう不要だという意図は持つけど感情を関与させないので

手放せても手放せなくてもそれはどちらでもよいと、結果への執着が薄れます。

こうなれたらいいなあ、でもなれてもなれなくてもまぁ…とりあえずどっちでもいっか…のような

なんとなくぼんやりした明るいイメージがあるだけです。

 

意識レベルの上昇とともに、思考の抽象度も上がるようです。

「ねば・べき」が減ってきたり、「絶対イヤだ」「どうしても欲しい」等の執着も減ってくる。

思考の抽象度や考え方の自由度が上がると同時に、重心はどっしりと低くなる。

重心が上の方にあった(と感じていた)時は、とにかく何かにつけてブレブレだったのですが

内面に、高さと低さを併せ持つようになると、全体的な幅や安定感が増す感じです。

丹田と松果体のパワーバランスが、あるていど整ってきた状態なのかもしれませんね。

 

それは執着や固定観念というエゴのようなものが一層ずつ剥がれていく段階に入っているのでしょう。

もちろん肉体を持って三次元世界に生きていれば、普通に期待したりもするし希望も持つけど

何かが期待外れに終わったとしても、以前ほど感情が荒れない状態が増えてきます。

エゴ由来のコントロール欲が薄れていくと、無為自然の在り方というものが徐々にわかってきます。

 

自分に対して「こうしなければ」「こうあるべき」とか

「あれダメこれダメ」などの善悪裁判を手放すと、どちらでもいいように思えてくるというか。

人間なのでもちろんいろんな出来事に対して、いったんは感情が揺れるし荒れたりもしますが

そうなりながらも、意識が感情の上位に位置して、自分を客観的に眺めることができるようになれば

どれだけ揺れようとも、自分の意思でその揺れを収められる可能性がぐんと高くなります。

 

感情と意識は別物…

しつこいようですが、意識レベルが上がっても相変わらず感情は揺れます。

でもむしろ、それが人として自然なことなんだとわかるようになります。

感情が揺れている自分を外側で観察しているのが、高次の意識でしょうね。

揺れた感情を少しずつ凪状態に導くことができるのは、この「高い意識」のおかげだと思うのです。

 

大事なことは、感情が荒れないような聖人君子になることではなくて

感情が荒れても、自分を責めたり変に開き直ったりせずに「そっかそっか」と受け止めること。

あの人が悪いとか、あれのせいでこうなったとか責任転嫁をせず

ただ純粋に「自分で自分を立て直す」という自己愛の実践ができるようになることかな、と思うのです。。。

そのために、どんな状況においても「気付き」が必要なんです…

 

こんな話をしてると、近ごろは「意識高い系」とかいろいろ揶揄されることもあるようですが(笑)

まあなんでもいいですね、どっちでもいいんです。自分が満足してれば。

 

すべては起こるべくして起こっているということですよね。

そこに隠されているメッセージを感じ取ることが大事なことだと思ってます。

 

どこまで行っても何があっても自分。

自分の内面をしっかりと見つめることで

長いあいだ見て見ぬふりをしてきた「自分の闇」が見えてくる。

これが見えたら、悩み苦しみを乗り越える光が見えた、ということですね*・゚・*:.。.*.。.:*・☆