執着にはいろんなタイプがあって

その中でも
ネガティブな言葉を引きずる人は
他者の感情が優位になっている傾向があり

他人の感情が理解できる反面
自己感情が未熟なため
他者からの評価に依存しやすいと。


自己感情が弱い人は、
気に入った絵や写真を選んで
それについて感想を書くのが
トレーニングになる、と。


その内容を読んだ時、
瞬間的に小学生の自分の記憶と結びついた。


小学生の頃、まさに感性を試されるような
好きな絵や音楽を選ぶのが苦手で
ましてや理由を発表するのはもっと苦手で
正解がないものが苦手だった。


これは「自己感情が未熟」ってことだったのか。
しかもトレーニングで鍛えられるものなのか。

あくまで脳科学的な見解なんだろうけど
原因がわかるって希望だ。



他のタイプの説明の中で、
幼少期に親に褒められなかった人の話があって

相変わらず、そんな経験ないのに
毎回そのタイプに当てはまるんだよなあ
と思って読んでたんだけど

ふと、
愛情を持って育てられたとは思ってるけど
じゃあ褒められことはあったっけ?って考えたら

幼少期に褒められた映像がまったく浮かばなくて
うわああ。全然浮かばないじゃん。
って自分にびっくりしてしまった。


浮かばないだけで、
褒めてはもらったことは沢山あると思う。

思い出せないのは、たぶん、
褒められて嬉しかった記憶が
ほとんどないからなんだと思う。

それは親のせいではなくて
おそらく自分の問題で。


物心がついたときから
大抵のことはなんか分かんないけど出来ちゃって

テストは90点も100点も取れたし
かけっこは男の子と走っても一位になれたし
自由帳に絵を描いてほしいと私の机に行列ができたこともあるし
習ってもないのにピアノ伴奏者になったこともある

「なんかできちゃう」ことが褒められるから

嬉しいというよりも
褒められる自分、すごい自分で居続けることに
意識が向いてたのかもしれない。


だから「なんとなく」で
できないこと、分からないことがあると
それがすごく心を不安にさせたし
恥ずかしくて人に知られたくなかった

(カナヅチだってことは高校くらいまで家族以外誰にも言ったことがなかったし、一輪車に乗れないことが自分の大きな弱点だと思ってた)


今思えば
その頃から「期待に応える」っていう、
他者の評価に依存するベースが
出来上がってたのかもしれない。

他人からの期待というよりは
自分が自分にかける期待が強かったと思う。


一位を取れたのは小学校中学年くらいまでで
勉強は塾に通う子に抜かれていったし
徒競走は女子の中で4番目くらいで
作品は取れても銅賞、佳作
全校集会で賞状を貰えるほどの実績はない

平均以上で十分じゃないかと思うけど
すごいって言われてた物事の結果が落ちていくと
自分の価値も落ちていくような気がして

なんとなくのままで過ごしてては足りないと、
努力して成果を出したいと思うようになって
でも努力しても一位になれないことを知って

結果で誇れることが何もないから
誰よりも努力する人間になるって決めて

でも誰よりもって決めた時点で
他人との比較でしか測れないから
ずっと自分を認めることができなくて
努力を怠ると
今度はそんな自分を許せなくなった。

自分が勝手に自分を評価してるのに
時には
こんなに頑張ってるのに!!!!って
周りの誰かや
対象のない何かに八つ当たりしたりして。

こりゃ生き苦しくもなる。



褒めるということ、
褒められるということ、
価値とは何か
評価とは何か

自分の中に植え付けた無意識の定義が
苦しくさせてる原因な気がする。

と思って、
今なんとなくそれぞれの定義を書き換えて

試しに
ずっと執着してる(根に持ってる)他者の言葉を
思い出してみたけど
全然傷つくようなことじゃなかったなって
理解できたから、
すでにちょっと脳みそが変換できてる気がする

この思考が定着したら
他者評価にしがみつく執着から
解き放たれる気がする

すごい👏🏻


あとは自己感情とやらを育てていったら
また何か変わることがあるかもしれないので
コツコツトレーニングしてみようかな

人間は面白いな。




腑に落ちたことがあったので書き留めておく。


前と同じように頑張ることができないのは
価値観が変わったからとか、
心が折れる経験をしたからとか、
そういう理由を当てはめてたんだけど

多分きっとそうではなくて
一緒にいた皆さんの影響が大きかったんだと、

私自身が変わったんじゃなくて
環境が変わっただけなんだと、
スッと考えが降りてきて腑に落ちた。



今日、生き方がかっこいいなと思う
おふたりと久しぶりにお会いして
ものすごく楽しかったんだけど

帰り道になぜか気持ちが落ち込んで、
自分はなんなんだろうって泣きそうになって

いやいやなんで落ち込んでるんだろ?
って自分で自分に疑問を持ってたら
最初に書いたことに結びついて。



当時の私もこの感情に負けたくなくて、

かっこいい皆さんと一緒にいると
自分の小ささを突きつけられて

でもウジウジしてると
ただただ置いてかれるだけだったから

堂々とみなさんと並んで立っていたいとか、
同じ目線で話せる自分でいたいとか、
認めてもらいたい、
なんならすごいと思われたいって

そういう気持ちが
あの頑張りに繋がってたような気がする。



外の世界に出てみても
やっぱりあそこにいたメンバーは異次元だと思ってて

仕事に対する誇りの高さ、熱量、プロ意識、それゆえに生まれる気力と体力、勉強意欲。

大変なことや理不尽なことがあっても
自分がやりたくてやってることだと、
自分の意思で選択して立ってる人たちで


かっこいいみなさんと一緒に居続けるには、
ちょっとひと休みなんてしてられなくて

あの人たちは、もう最初からすごいのに
まだ勉強してまだ練習して
まだ反省してまだ結果出していくから

こっちも常に頑張って頑張って頑張ってないと
すぐに置いてかれる世界だったから

同じ土俵に立ってたかった
置いてかれたくなかった
自分もかっこよくいたかった




私の頑張りは
みなさんの背中の大きさの表れだと思うと
ものすーーごく納得がいった


だし、


個々の生き方を尊重する時代であり
いい意味で干渉し合わない環境にいる今、
同じようなパワーが出ないことも納得がいった




今はもうあの頃のバイタリティを
当たり前にすることはできないし
したいとも思わないし

だけど、
今のフワフワした感じも
もう切り替えたいなって思った


自分の考えはしっかり持っていたい
不平不満をところ構わず口に出すのもやめたい
人に優しくありたい

まだボヤボヤっとしてるけど
今は今なりの、かっこいいと思う自分像を
また作っていきたいなと思った




会って、
近況報告とか過去の懐かし話とか
なんてことない普通の会だったのに

こうしてなぜか
自分を見つめ直すことになっちゃうあたりが
やっぱり影響力ある存在なんですよね

偉大です。

疲れないように早く寝て
疲れないように仕事して
疲れないように感情を止める

疲れたら動くのやめちゃって
家の事を放置して
みたくもない動画をみて
ききたくもない音楽をきいて

明日が嫌にならないように
途中で立ち上がって
最低限のやることをやって

朝がしんどくて
仕事は勝手に体が動いて

自分のことだけ考えて
気はつかわない最低限のことだけ
でも反射でおせっかいを焼いて

泣きたいほど頑張ってないし
背負ってるものもないし

泣いたら疲れちゃうから
寄りかかるところがないから
自分で立て直すのが大変だから
泣かない程度で生きとけばいい

何をしても何をみてもきいても
誰と話しても満たされない部分があって
もう何年もずっと


性格なんてホルモンバランスで変わるし
死ぬことは悪いことじゃないし

でも自分がだらしないのが許せない
気を遣えないのも嫌だし
人の力になれると喜ぶ
でも喜んでるのはエゴなのも知ってて
それはやっぱりなりたい自分ではなくて



生きる目的がわからなくなった時から
とりあえず生きとこうとおもって
一日一日を乗り切って


頭が回転する感覚を思い出す瞬間もあったけど
変わらない部分がずっとあって

誰かと会えば
新しいことを始めれば
何かきっかけがあるかもとか
周りに何かに助けてもらうことばかり考えて
自分を満たす方法が分からない

どうやったら楽しく生きれるのかわからない

ずっと予防する人生

いつからこうなったんだろうな
人の期待に応えるのをやめたら
結局なにも残ってないじゃんね

何が楽しいんだろうな


ヒステリックでもなく
被害妄想でもなく
ホルモンバランスでもなく
ただただずっと心が暗い