舘岩村の標高は村域が640~900m、南の栃木県側には2059mの帝釈山地、東の荒海山が1580m、西から北西には桧枝岐村に東北最高峰の燧ケ岳2356m、会津駒ヶ岳2133mなどと越後山脈に抱かれている。前述のように稲作は困難で、山に依存した暮らしが長く続いてきた。地名にもそれは反映している。一部分 2章で述べたことと重なる部分があるが、平坦部に多い○○田、○○刈などの稲作に関係する地名よりも、古来使われてきたと思われる山地に特有な地形地名が多く見られるので拾ってみたい。
赤発毛(宮里)は四国祖谷渓の有名な難所大歩危と同じ断崖地形だ。同系列の地名にホケ、ハケなどもある。アイヌ語のpokke(ボッケ)の語は煮えたぎる意味があり、温泉の非常に多い舘岩村ではこれも考えておく方がいいのかも知れないが、今のところ他にアイヌ地名は見当たらないので断崖地形とした。発毛は地名用語ではハゲの読みもありうる。言葉遊び的にはちょっと面白い。同じ地名が桧枝岐村七入附近にもある。
幽沢原、幽沢口、幽沢山、また下高夕、上高夕(湯の花)、幽沢口(塩ノ原)、のユウは、都丸氏が群馬県水上町藤原の幽嵓沢、板幽沢、幽倉沢、幽倉コボラ(小洞)の例を引いている。「同地においては、ユウは洞穴、というより岩穴とでもいうことばになっている。」(『地名のはなし』)という解説と同じである。
ユウ地名は沼田街道により群馬と通じる桧枝岐村にも多く、ユーノ沢、幽ノ沢、岩幽、高幽山、カケユウ沢、エークラ沢(ユウクラの転訛とした場合)などがあり(『桧枝岐の暮らしと地名』より)、この点では狩猟や木地などで西側の桧枝岐村と共通した地名感覚がある。むしろ山を通じて見られる共通地名はより古いものかとも考える。冬も狩猟で山を歩き回る当地にとっては、目印に、天気待ちの休憩や野宿などに有用な地名だったことだろう。
助木生、助木生沢、助木生沢山(宮里)について、ここ(ユウ地名)にあげるのは異論があると思われるが、地名を探る試みとしてあげてみる。助木生は西根川中流域の支流、助木生沢の沢口にあるが、西根川流域(西郷)は、舘岩村の四郷の中でも、尾根を一つ越えた桧枝岐村との山を通じた交流は最も強いと思われる。
村史には、助木生、介木生の文字を当て、「もと助牛と書いたが寛文中今の字に改める」という『新編』の記事を引いて、森林におおわれた河岸段丘上の用材伐採や開拓に牛が関連したことによるか、と推定している。『新編会津風土記』(1803~1809年、享和三年から文化六年編纂)の記事に従えば、『寛文風土記』(1666年、寛文六年完成の会津風土記)の時代には、「助牛」の地名由来はすでに分からなくなっていたのだろう。後世まで地名に残すほど牛を開拓に使役したかどうか、伝承を見てもそれらしい出来事はない。村史の解説は「もと助牛と書いた」という漢字表記に依存して「牛」にとらわれ、それが当て字である可能性については考慮されていないのではないか。
助木生、介木生、助牛のいずれにしろ、あらわしたい音はユウではないかと仮定してはどうか。伊与戸の地名でも見たように(この稿2.「ド、ド、ド、ド、ドウ」参照)地名が必要とする情報はお上に届け出る文書の漢字表記ではなく、会話によって伝達の便を得る音である。苦労して漢字表記している三例の語幹が、「ユウ」の可能性はないかと思い当たる。「スケ・ギュウ」でなく「スケギ・ユウ」または「スケ・ギ・ユウ」と分けてみると、不明な語はスケギという名詞(おそらく)の部分となる。スケギをさらにスケ・ギに分けるとスケは鮭・鱒の方言で、遡上する鮭鱒の中の特に立派なものをスケと呼ぶ。(遡上が無くなった現在、この方言が当地を含むかどうか確証はない)。
電源開発(J-Power)による水力発電のための多数のダムが国策で作られる以前(昭和三年頃)は、鮭鱒の遡上があり貴重な冬の保存食でもあったし、鱒を取る刺し網に獺が絡まったという話を祖父から聞いた記憶もある。スケギがそのような漁労に関係する道具かとも考えたが、舘岩、桧枝岐の村史には桧枝岐、舘岩で鮭鱒の遡上にまつわる民俗の記事は少ない(舘岩村に鱒沢、鱒沢山はある)。かつてこの地域の特産だった岩魚は関東に出荷されていて、「群馬では岩魚の燻製を「尾瀬魚」と呼んで鰹節の代用にした。」(『桧枝岐村の民俗』)というが、岩魚のことをスケと呼ぶような方言も見当たらない。仮に漁具だとしても、岩穴のユウとどう結びつくのかは疑問ではある。助木生をユウ地名に分けるには「スケギ」を明らかにしなくてはならない。
仏龕ですが幽で休んでいる猟師のイメージ
もう一つの仮説として、広範囲にある地名の作りで共通する現象に、「生」=「ウ(フ)」の字を当てる地名というくくり方があるかも知れない。田島町に針生、藤生、栗生沢、下郷町塩生、舘岩村助木生、角生、(左惣・宮里)、(二字符・湯の花)、()内の地名は音が通じるのと字義からは意味が分からないので拾っておいた。「鹿をひろう」(前記事)で紹介した栃木県鹿沼市の古峯神社は舘岩村でも信仰が篤く、各村で代参があったので文化の流入は考えられる。所在地の草久などは、音を漢字表記に残そうと苦心している様子が助木生(助牛)と似ている。これらを例とすれば、岩穴のユウではなく、ギュウ、ニュウが一音節となる。藤生をわざわざトウニュウと読ませたい理由があるはずで、ハリ、ツノなどはやはり音を残したいのだろうと思える。
ニュウとして考えるなら丹生は辰砂で赤色顔料であり、水銀の原料でもある。寺院の伽藍造営になくてはならない顔料だった。高野山がある中央構造線上に多く産出し、伊勢、熊野には丹生にまつわる地名が多くあるが、それを結び付けるのはそれらの地下資源が無いこの地では唐突すぎるだろう。塩生や栗生の字義が現代に通じていて、塩や栗を産する意だとすれば、針生や助木生も何かを生み出す地であるとは言えるだろう。()に入れたもの以外は過去の村名(現大字)であり、小字にはその用例が見当たらないことから、村の規模は知れないが、村としてそれを生み出していた、つまりはその何かを産するための村だったという推定ができる(心もとない)。針生については埴生という地名もあることから埴土(粘土)も考えられる。土器や瓦の原料なら辰砂よりは可能性が高い。しかし助木生には繋がらない。決定的な記事は見つけられなかった。
しばしの脱線。基本資料として助けられている『角川地名』には、桧枝岐村などは全村の地名としてわずかに三行、二十か所が拾われているにすぎない。何らかの事情で詳しい資料提供が為されなかったと思われる。同書中には時々そのような自治体があるため、『大辞典』とはいえ不完全な点はある。桧枝岐村が新村史の資料として発行した前掲の『桧枝岐の暮らしと地名』(平成二十六年刊)にはその十数倍もの地名が拾われているので、そちらで補えることはありがたいが、山を生業とはしていない現代の地名採取は、『角川地名』の編集された時代(昭和五十六年刊)とは資料を作る世代が違っている。すでに出作りの民俗は消えて久しく、奥山の地名は消えたものが多いだろうことは残念だ。(この稿作業中に、同書中にイヨドマリ沢、魚止沢を確認した。両者は同じ発音だろう。イヨドである。)
脱線ついでにもう一つ、前述の電源開発による只見川水系の鮭鱒の遡上に関して、余計なことを記す。坂口安吾は金閣寺焼失についての小随筆、「国宝焼亡結構論」の中で尾瀬の電源開発に触れ、尾瀬の環境保護を主張する研究者に対して、生産力向上のための国策開発を妨げるとして豪快に排除し、学者の研究態度を怠慢とこき下ろして痛快だが、その開発で消滅を余儀なくされた、流域210kmに及ぶ漁労文化については取り上げてもいない。遡上する鮭鱒は、冷害と隣り合わせに営まれる豪雪地帯の暮らしには貴重な漁労文化、食文化だった。「民草の生活」を愛すべきものとしていた坂口安吾にしては片手落ちの開発擁護論で、とても「結構」どころではない。
本論に戻ろう。真名板倉山(塩ノ原)は桧枝岐の東北最高峰、燧ケ岳のピークの一つ俎嵓(2346m)と同名で、谷川連峰にも俎嵓がある。これらの地名運搬には役行者から弘法大師に繋がっていく修験者や狩猟民が一役買っているのかと思う。狩猟民と修験者は親和性が高く、鹿や熊の姿で出現した仏によって狩人が殺生を悔い、仏性に目覚めて帰依する物語は数多く伝えられている。それは両者が深く交流を持っていたことの比喩でもある。目的は違えど、同じルートを命がけで移動する両者が、お互いを頼もしく思って時には同道もしただろう。
マナイタグラが上信越地域に点々とあるのは、このルートが信濃の善光寺を起点に広がる信仰の道の一つだったからかと推測している。善光寺からはほぼ全方位に謎の多い山の信仰ルートが繋がっていて、そのルートは仏教以前から日常的に使われていた。そこを使っていた人たちの文化が修験者(仏教文化)に移されたと考えてもいいかもしれない。かつて善光寺平を挟むように対峙した古墳時代の弥生人か、あるいは蓼科の黒曜石や糸魚川の翡翠を背負って郷へと戻っていく縄文人か。地名の伝播をいろいろと妄想する。
岩狭(湯ノ花)、野狭(宮里)などは初めて出会った地名だったが、『地名語源』には、すばり:「①岩ス張リ」の上省略形で、「岩が張り出した所」か。②動詞スバル(窄)の連用形で、狭まった所。すぼまった地形をいうか。と記載されている。どのような地形なのか具体的には知らず他(の資料)でも見つけていないので、この解説に従い注意しておく。
2章で百目鬼が水の落ちる擬音地名であることを記したが、同義の地名は広い範囲にある。九州から関東、東北まで。ドウドウ、トドロキ、ドドメキ、トドヌキ、ドンドン、ゴロメキ、ゾロメキなどがある。ゴロメキやゾロメキは水音だけではない語感があるし、蛇羅目木となると氾濫の地名だ。崩壊地名の箱根の強羅などとも通じる(柳田国男『地名の研究』より)。岩嵓があって沢があれば滝もある。滝ノ上、滝ノ口、道手渕、百目鬼(熨斗戸)などの地名を並べると渓谷の景観が一望できる。
川音も響いて渓谷が眼前に浮かんでくる。(前記事『南郷に見る古事記の世界』も参照)休道(舘岩村内に複数あり)から対岸を眺めている気分だ。『角川地名』から拾っただけでも、山の地名が多い舘岩村では地名から蘇るものがあるのが嬉しい。
会津に多い断崖地形を表す地名に岪がある。下郷町の塔の岪が観光地で有名で、伊南川沿いにも多く見られるし、宮床の岪、界の岪、下山は京路岪と日常的に使っていたので、どこでもそうだと思い込んでいたが、よく思い返してみると他では見聞したことがない。
岪は、太古からの水流に洗われ、削られ続けた山裾の川辺に、垂直に聳える大岩塊のことで、その奇観は見るものを唸らせる。舘岩村の起源由来となっている立岩も典型的な岪だ(この稿の1『旧舘岩村・大掴み』一枚目の画像)。岪は目印には最適で、岪の上は峠だったり、氏神が祀られたり(字の作りは山冠に佛の意か)、村境になっていたりする。舘岩村にも、一ノ岪、二ノ岪(塩ノ原)、岪山(宮里)、岪(湯の花)などの岪が数多い。以前に、新潟県三条市の下田村にある八木神社を訪れた時に、はじめ神社が祀られていたのは下田村を流れる五十嵐川を臨む「八木の鼻」という、ヘツリ形状の岩上だったそうで、景勝地としても有名だが、隼の繁殖地としても全国から見学者が訪れるという。私にはヘツリにしか見えないのだが、話を伺った宮司さんも近所の農家氏も、ヘツリという単語は使わなかった。八木の「ハナ」は尾根が切れ落ちる先端のことで端である、顔の中央でもなじみのある地形だ。
隼の繁殖地としては只見町梁取の岪も私が子供の頃には地域では有名だった記憶がある。『地名語源』にヘツリの例示に引かれるのも先述した下郷町の塔の岪であり、他には挙げられていない。『舘岩村史』の方言の項にヘツルを①断崖や斜面を横切る、②うわまえをはねる、と説明があり、現代でも登山用語にはヘツルがあり①の語義で共通している。ヘツルという動詞から、その地形をヘツリということ、またヘツリがこの地域に特有の方言ではないことはわかった。古くは他の地域でもこの地形地名を使っていた時代があったと思われる。他の地域での分布がわかってくれば、流入経路や時代を推定する材料にできるかもしれない。他の地域でこの地形をハナ以外にどのように呼ぶのかにも興味がある。


