古代妄想 伝承 地名 歴史 -37ページ目

古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

「いくら眼の前のものでも省みなければ教えてくれるわけがない。」(柳田国男『地名の研究』から)

(ウシロ)()坪(塩ノ原)、村坪、墓ノ坪(中ノ井)、内坪(湯ノ花)、東坪、西坪、中坪(八総)大坪(熨斗戸)、(クレ)坪(森戸)などの「坪」は、『語源辞典』によれば町村内の小地域のことで、墓ノ坪や堛坪に関しては地点名としてうなずけるが、東、西、大、中、村、などには違う理解が必要に思える。数の上でも前者が後者から派生したもののような印象がある。ツボは南会津一帯に広くあるようだが行政区分ではなく、マキ、マケなどの同族集団でもない。村の生活地域内区分で、今でも共同作業や祀りなどに機能しているところがあるのかも知れない。南郷村鴇巣の例があったので挙げておく。

「鴇巣村は四坪に分かれていて、上坪(ウワッツボ)、仲坪、沖坪、上坪(カミツボ)とし、前二坪を、下鴇(シモットウ)あと二坪を上鴇カミットウ)(の二つの大坪に分けていた」(『奥会津南郷の民俗』昭和46年)。

 

 

 

この鴇巣の例によれば、中ノ井の村坪や熨斗戸の大坪は下鴇(シモットウ)上鴇カミットウにあたり、さらにそれ以下の坪に分かれていた小地域のいくつかをまとめたものであることが推定される。そして厳密には地名ではない。そのために採録されていない(地名化していない)坪もあるようだ。残念ながらこの組織で何を行ったかは記されていない。これら通称地名や小名と言われる地名こそ生活形態に密着していて、比較的初期のものだが、行政(収税・管理)の観点からは必要性が低いのであまり記録に出てくることはない。同郡内で育った私でもこれらのことは知らないでいた。すでに私の集落の中では「坪」は生きていなかった。また「坪」は群馬や山梨では生産する場所の意という(『語源辞典』)。村邑内での共同作業のための小地域組織といったものだろうか。

 

西日本から中部、関東地方に広く見られるカイト(垣内、垣外)やヤツ、ヤト(谷、谷戸)などの地名が付く集落(邑)の南会津地方での呼び名かとも思ったのだが、それらよりさらに小さいようだ。

  イメージ : 埋もれた大日不動尊の刻まれた石
 

2章の江戸の地名に引いた、都丸十九一氏の『地名のはなしー群馬の地名のルーツを探るー』に、館林市の利根川を挟んで埼玉県に接する明和村千津井の地名、上の坪、中の坪、沖の坪(鴇巣と同じ分け方)、同村斗合田の下坪、西坪、中坪、太田市牛沢の下の坪、大坪(舘岩にもある分け方)、などが挙げられていて、著者はツボ地名の使われ方を考察している。村制用語のコウチ(耕地)、クルワ(曲輪)などと並べて、

「・・・ツボはもともと村制用語ではなかったのかという疑問も生まれる。しかし、上、中、下、東、西などを付して呼ぶのは、コウチ、クルワなどの村制用語に顕著であることを思えば、一応ここ(「村の組織」という項目)に位置づけておきたいと思う。(()内は引用者)」として、ツボ地名の分類に迷っている。

 

南会津に限った事ではないと思うが、峡谷沿いに発達した雪国の山地の地名と生活には、東西南北の感覚はとても薄い。川を基準にした(カミ)(シモ)でほとんどの用は足りるからだ。別な表現では、閉ざされているともいえる。南会津地域は古来、「南山」と呼ばれてきたが、この命名は、北の会津若松に会津の為政者がいたからで、住民が自ら名乗ったわけではない。南会津もまたしかりである。会津盆地内の地名を見れば、狭いながらもそこは四囲が開けた平地地名で、東西南北があふれている。自分を顧みて思うが、かつての南会西部地区(南会津郡西部地区の略称)に「東西南北」は希薄だと断言できる。

 

南郷の地名を考察していて気付いたことに、水平方向の方角はほぼカミとシモ、イリ(奥)とデト(手前)((イリ)大谷(オオヤ)、デト大谷)であり、垂直方向は同じ文字でもウエ(ウワ)とシタ(上台(ウエンデエ)上ノ(ウエノ)(テイラ)、下道、下村)になることが多いこと、記述にはカミとシモには上ミ、下モと使うこと、さらに高いとソラ(ソラクボ)やニケエ((ウエ)二階(ニゲエ)(シタ)二階(ニゲエ))になることなどがあった。すり鉢のように上部の広がったソラカゴという背負い籠も当地の民具にある。

 

舘岩村でもほとんどの集落は、居住地の道に面した前側が沢(川)で後(裏側)がすぐに山だ。傾斜が緩い中、下流域になると川が暴れる幅が広くなり、河岸段丘上の集落と川の間には氾濫原に田畑や宅地ができていくが、上流部では川を挟んで山があるだけになる。その関係によると思われるウシロの使われる地名も多い。(ウシロ)()(ツボ)(塩ノ原)、後口山(ウシログチヤマ)(宮里)、後原、後沢、後山、宮ノ後、(湯ノ花)など。居住地の地勢につけられた地名は古いものと考えられる。そこを中心点として方位や高低の地名が確定していくので、形成期の集落の姿を考えるためには大切なものとなる。

 

話は変わるが、山梨に住み始めた頃に驚いた事がある。ほぼすべての橋に○○橋東詰、西詰、などの方位が表記されることや、「剪定ばさみはテレビの西側(ニシッカワ)にあるで。」というように家の中でも東西南北で物のありかを伝えることがあった。これならどんな人でも間違わない、と甲州人は言う。確かにそうなのだが、他所の家の居間で方角を言われても・・・自分に方位感覚が身につくまでは、上下左右で言ってくれと思ったものだ。三十年以上経った今は自分でも使っている。

 

それはさておき、舘岩村のような山間で、西坪、東坪の命名は、生活感覚と地勢にそぐわない気がする。さらに、群馬での命名と同じものが、舘岩だけでなく南郷でも確認できることは、やはりある時期の行政上の区分というよりほかにないだろう。『地名のはなし』が発行された昭和62年の時点で、「よそでは栃木県その他でも広く使われている。」とあることからも、栃木県はツボ地名の分布が濃いようだ。舘岩村へ入ったのは下野からが自然だろう。しかし、それが使われはじめた時代やその制度の面ははっきりしないようだ。栃木県で坪地名の成り立ちがわかっているのかどうかは不勉強でまだ知らないが、群馬県でコウチ、クルワなどがある程度分かっているのであれば、それより以前になるだろう。中世で止まってしまうことの多い南会津の文献史学ではなかなか難しい、楽しい推定ができる可能性がある。

 

上中ノ内、下中ノ内、中々ノ内、(熨斗戸)なども、味気なさが条里制の区画を思わせるような地名だが、やはりツボとの関係は気になる。これも初期の村の形成を考える材料になるかも知れない。