1. 旧舘岩村・大掴み(現南会津町) | 古代妄想 伝承 地名 歴史

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古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

 本論に入る前にお詫びしてから始めます。舘岩村にはまったく土地勘が無く、知人もないため、村史や地名辞書、地図などの限られた資料による紙の上の考察になってしまうことをお断りしておきます。(これまでもほぼそうですが)現地を歩かずに地名考証などというのはおこがましいことですが、歩けない事情というのもあり、それでも考えたいという事情もありで、限界を感じつつ進めていきます。これから先に地域の地名に取り組む人が、これらの論旨を捨てるなり拾うなり、材料の一つとして読んでいただければ幸いです。

 

『舘岩村史』扉より立岩

 

 南会津町旧舘岩村は南を下野(栃木県)に接し、舘岩川沿いは日光経由で江戸へ繋がる下野街道をはじめ尾瀬から上州(群馬県)沼田へ繋がる沼田街道をつなぐ位置にある。その他にもいく筋かの街道があり、年代は不詳ながら関東との往来には便が良かった。縄文時代の遺跡も傾向は関東からの影響のものだ(若干北陸系もある)。舘岩川の流域はその支流により四つの地域に分かれている。その地域名と大字は次のようになっている。

 

舘岩川上流部の上郷熨斗(ノシ)()()()()()(ソウ)(八相)、井桁(イゲタ)(井下田)、精舎(ショウジャ)岩下(イワジタ)森戸(モリド)高杖(タカツエ)(ハラ)()(ジョウ)、番屋、新田原

舘岩川下流の下郷:塩ノ原、田ノ瀬(田瀬)、前沢(マエザワ)福渡(フクワタ)穴原(アナバラ)

西の山地を越えた湯ノ岐川流域の湯の花郷水引(ミズヒキ)()()(マタ)(湯俟)、角生(ツノウ)貝原(カイバラ)(オシ)()(ヨシ)(タカ)戸中(トチュウ)()()(イリ)(湯入)、松戸原、岩間戸

そこからさらに西へ山を越した西根川流域の西郷助木生(スケギュウ)(助牛)、小高林(コダカバヤシ)木賊(トクサ)(カワ)(ギヌ)新屋敷(アラヤシキ)、福道原、上ノ原、

 

『舘岩村史』民俗編「村の名称と起源」をもとに分けた()内は寛文『会津風土記』『新編会津風土記』などの旧字

 

 

 舘岩村は、明治二十二年に八総、熨斗戸、森戸、(上郷)、塩ノ原、中ノ井(下郷)、湯の花(湯ノ岐郷)、宮里(西郷)の七か村が合併して成立した。

字を拾っていくためのほぼ唯一の資料は、手元にある『角川日本地名大辞典』福島県(以降は『角川地名』と約す)。歴史は『舘岩村史』通史、民俗編など、地名の成立年代を担保するために『新編会津風土記』(巻之四十二熨斗戸組)(以降は『新編』と約す)などの記述を参照するのだが、『新編』と『角川地名』との成立の間に二十四の村が上記七か村になっている関係で、『角川地名』の村(明治の合併前の村単位)は一村の字を収める範囲が『新編』よりもだいぶ広い。例えば熨斗戸村に収められた字が、井桁なのか森戸なのか精舎なのか、熨斗戸の字名としてひとまとめに羅列されているため判別が難しい。そのあたりが地勢を知らないことによる限界となる。また『角川地名』に「岩窓」と記載のある字名はどうやら村史では「岩間戸」としている地名らしいなど、地元でなら悩まなくても済むことにも足を取られるとあって前途は多難だ。幸い村史の民俗編が助けになる。

 

 ここは田島町と同じく倭名類聚抄にある会津郡長江庄であることが確実視されている。(長江庄はおおむね南会津郡一帯と想定される)標高640m~900mにある舘岩村域での稲作は困難で、『舘岩村史』執筆者の一人佐藤洋一氏は『田島町史』の大石直正氏の次の記述を引用している。

(『九条家文書』の)「御摂籙(ゴセッロク)渡庄(ワタシショウ)目録(モクロク)」(平安時代の荘園の目録)を見ると、長江庄のところだけは水田の面積が記されていない。その理由は様々に考えられるであろうが、あるいは水田よりも山野そのものの領有が重要だった荘園だったからなのかもしれない。(『田島町史』通史一二〇ページ)

筆者(佐藤)は、この指摘は極めて重要であると考える。(後略)

 

 一般的に、個人の著作物よりも保守的な立場を重視する町史において(その立場は重要なことだと思う)、このような指摘を行うことは勇気のいることだ。それに賛意を表すことも同様である。このような特色のある地域だということを踏まえて、舘岩村の地名についての考えを進めていきたい。そして、文字に書かれていないことについて推量することは、「妄想」の大好物でもある。「山野そのものの領有が重要だった」理由を探る楽しみができる。

 

 村史によると、舘岩村の特色の一つに鉱山がある。舘岩川の本流に二ヶ所、支流鱒沢に三か所、湯ノ岐川に三か所、西根川に一か所あり、集落が発達した川の全部に鉱山があることになる。この鉱山はほとんどが昭和三十年代までの採掘で閉山している。八総鉱山だけは田島町の荒海川流域でふれたように1970年(昭和45年)まで操業していた。これは現代でのことであり、古代の採鉱冶金遺跡のようなものは発見されていないが、荒海川流域で見たような地名をはじめとした周辺の状況は予想される。(当ブログ「蟹のある地名」~「鷲(オオトリ)もの」まで)

もう一つの特色として、村のほとんどが山林のため、ろくろで木の器を作る木地師の集落である「木地小屋」もいくつかあった。現在は木地師の集落はなくなっているが、地名にその活動の跡が辿れることはあるかも知れない。ただ文献上は木地師の活動は中世後期から近世初頭以降、蒲生氏郷が近江から連れてきた木地師が初めとなっている。

 

 村史の「郷名の由来」によると、舘岩は立岩であり、熨斗戸に現存する立岩にある。

「高十五丈、周十八丈計、屏風をたてるが如し。村老の口碑に此岩むかし一夜に湧出す、郷名の由て起こる所なりと云、多く岩茸を産す、これを取ば必雨ふるとぞ、」(『新編』)

約45メートルの屹立する大岩が昔からのランドマークとして存在し、それのある上郷地区から、現代につながる集落が発達してきたという。一地点が一地域を表す、典型的な地点地名の拡張の例だろう。

このような岩塊が「一夜で湧出す」と言われれば、誰でもがまじめに取り上げないのが現代だが、熨斗戸の解説に興味深い記事がある。

 

「村の西、舘岩川の急流はもと塞がれていて、上郷の一部は沼であったとも言われている。その決壊を大同元年の大洪水とするが、おそらく伝説で、云々」(『舘岩村史』民俗編p.23)

 

大同元年は磐梯山の噴火があった年であることは、気象庁の文書にもある科学的事実である。磐梯山噴火の地殻変動が立岩の伝説に関連するとは言わないが、神話や伝承とは比喩的なものなので、伝説が伝えたいものの核心を読み解くためには少しの想像力が必要だ。

 

 高層の沼沢地(尾瀬沼のようなもの)が決壊し、大岩が「一夜に湧出」したように見える自然現象とは何かと考えると、「おそらく伝説」と言って斥けてはしまえないものが見える。

その岩に出る岩茸を取ると「必雨ふるとぞ」という情報もついている。豪雨が関係しているのかと私は考える。岩下村にある逆岩(サカサイワ)は立岩の岩塊が湧出するのを見てダイタンボウが激怒し、蹴り飛ばしたものが飛んできて岩下村の地名由来となっている。この伝承は立岩と逆岩が同時か、あるいは相互に関係していることを示唆していると考えてもよい。

神話・伝説=虚構=取るに足りない。というスタンスからは古代は見えてこない。記紀神話を虚構にしてしまっては歴史の空白は埋まらない。

  前置きが長くなってしまったが、これらの情報を起点にして、舘岩村の地名を歩いてみる。