4 鷲(オオトリ)もの | 古代妄想 伝承 地名 歴史

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古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

 荒海川の上流から下流へ神社を辿ってみる。

 

滝ノ原 字宮原:神社 字不明 熊野神社

糸沢 字宮原:二荒山神社、字森前:二荒山神社(古今)、字清水端:熊野神社(羽塩)

関本・川島 字蟹沢:神社

中荒井 字八反沢:神社、大字中荒井字下稲荷:田出宇賀神社(()(ドウ)

藤生・小塩・上野 字上小塩:熊野神社、

永田 字鷲山:神社

 

次に桧沢川も上流から荒海川合流付近まで。

 

針生 字宮下:熊野神社

金井沢 大字静川字林の沢山:竜口神社

福米沢(大鹿原)字宮沢:雷電神社、字不明:田中権現

上塩江字背戸山:十二所神社

下塩江字二ノ崎:神社

(『田島町史』第一、四巻より)

 

 

田島地区永田集落の鷲神社入り口
 

鷲と熊がいるが、鷲を追ってみよう。

鷲神社が(ワシ、オオトリ)これだけ密集して祀られているのは珍しいようで、「田島町をはじめ下郷等一定地域にのみ分布している鷲神社の存在は、全県的に見ても一つの特色(中略)恐らくは、鷲神社を信仰する関東からの移住者達により建立されたことに始まった・・」(『田島町史』第一巻、下線筆者)とされている。

埼玉県久喜市鷲宮(ワシノミヤ)神社(祭神 アメノホヒ、タケヒナトリ、オオナムヂ)は周辺に多くの鷲宮神社を見出せる。東京都台東区(オオトリ)神社は「酉の市」で知られる。(祭神 アメノヒワシ、ヤマトタケル)、東京都目黒区大鳥神社(祭神 ヤマトタケル、クニノトコタチ、オトタチバナヒメ)。これらの神社は名称は似ているが、よく見ると祭神が違い別系統とも思われる。

 

町史が想定している「関東からの移住者」とは、その前後の記述からは中世に田島を含む長江郷を領した長沼氏かと思われるが、北関東に広く勢力を張った小山氏は先述した結城氏(尾崎前山遺跡の所在地)と共に長沼氏と同族で、南北朝期には守護として社殿を造営したり、鷲宮神社を管理もしていたようだ。そうであれば久喜市の鷲宮神社が運ばれてきたと考えやすい。

 

古色溢れた石段が続く先に拝殿が

 

久喜市の鷲宮神社社伝には「関東でもっとも古い大社」と言われているとあり、「出雲国から土師部の人々を率いて関東に来た(アメノ)()()(タケ)(ヒナ)(トリ)は鷲宮の地を拠点として開拓にあたり(中略)当初は「土師宮

 

()」(ハニシノミヤとも)としていたものが後に訛って「鷲宮(ワシノミヤ)」になったと伝えられています。」(『鷲宮神社展』図録)という創建伝説を伝えている。土師部は古墳の造営や葬祭のための部のため土木や開拓などに優れている。これらの伝説からすれば、時代は中世よりもずっとさかのぼる。古墳時代から土師部は開拓や土木にその力を発揮していく。古墳時代が終わってからは土木や建築の専門職になっていくのが自然な成り行きか。利根川、鬼怒川、荒川などの水系周辺の開拓に関わるかと思われるが、よくわからない。

 

前章「鹿をひろう」で引用した大林太良氏の『私の一宮巡詣記』からの孫引き、「五世紀末か六世紀初頭に、東国鎮定の代官として大和朝廷から物部連氏が派遣され、霊剣フツノミタマを平国之(クニムケノ)(ツルギ)として奉じ、鍛冶部や長幡部などの職業部を率いて、支配者として乗り込んできた。」(『日本神話の形成』松前健)という動向が一致する。しかし十世紀の延喜式神明帳には土師宮でも鷲宮でも記載がない。大和での物部守屋の滅亡の時期や記紀編纂の時期との関係があるか。

 

また「(アメ)(ノホ)()命、(タケ)(ヒナ)(トリ)命がお供の昌彦、昌武父子と、出雲族27人の部族と共に当地に到着し、地元の部族と共に当地の鎮守として、大己(オオナ)(ムチ)命を別宮に祀ったのが(本殿に並んで祀られる神崎神社の)始まり」(ウイキペディア)(下線と()内は筆者)とされる。

アメノホヒとタケヒナトリは父子神、オオナムチは大国主命の別名で出雲の大神なのでまとまりがある。実働部隊の二神が祖神の大己(オオナ)(ムチ)命を奉じてやってきた様子がうかがわれる。アメノホヒは、『古事記』でスサノオとアマテラスが誓(ウケイ)する際に、アマテラスの勾玉から生まれ、れっきとした天孫でありながら、命を受け葦原の中つ国の様子を見に降りたまま、大国主を信奉して仕える(寝返る)。

「(アマテラスの命令により)天菩比(アメノホヒノ)神を遣わしつれば、大国主(オオクニヌシノ)神に媚び附き、三年に至るまで(カエリゴト)(マオ)さず。」(『古事記』)というユニークな神で、出雲族と共にオオクニヌシを祀る資格が十分ある天孫なのだ。

 

下線部の「地元の部族と共に」には、物部氏や出雲族の特徴だと私が思っている(だけ?)行為が見られる。アメノホヒの寝返りの記述、大国主がコシ(越)のヌナカワヒメを(ヨバ)う際にも、ヌナカワヒメを訪ねて一度は断られて条件を付けられ、一晩長い恋歌を歌って紳士的だ。国引き神話にしても戦をしたとは記されていない。地面に綱を付けて引いてくるのもどこか牧歌的である。もちろん実際は侵略なのだが、同化的侵略とでもいうべき面を持っている。

他国に乗り込むのではなく、自分の国に地面を引っ張り寄せる国引きは、日本海岸の鳥取砂丘や宍道湖のような、河川の運ぶ堆積、海流と天候が要因で発達する砂州や岬、内陸化する湾などを思わせる。「国引き」とは侵略ではなく、自然が時間をかけて行う現象の神話的表現かもしれない。

 

立派な書体の鷲宮神社の額

 

 有名な国譲りの場面で、天孫タケミカヅチは剣を海に逆さに立て、その切っ先に胡坐して国譲りを迫るが、オオクニヌシは「子供たちがいいというならそうしますから、そっちに聞いてください」などと言って時間を稼ぎ、コトシロヌシとタケミナカタそれぞれに同じ交渉をさせるうえ、条件を付けて自らが鎮座するための壮麗な出雲大社を作らせる。タケミカヅチや神武東征のように力ずくで即決を迫る天孫(ヤマト)とは対照的に、出雲族は巧妙な懐柔や婚姻などの手段によって、拡散(侵略?)に時間をかけるのが特徴でもある。下線部「地元の部族と共に」という鷲宮神社の社伝に、その特徴が伝わっている気がする。物部氏のもとで全国に配置されたとみられる出雲族は(松前健『日本神話の形成』)、文化も高く生産技術にも優れていたが、他部族との交渉が上手だったことも理由にあったと思われる。国の概念がさほどない頃の方法なのだろう、天孫(ヤマト王権)よりも古い時代の支配や進出の形かと想像させる。

 

一方、田島地区にある鷲神社の祭神は、天日鷲(アメノヒワシ)(カケル)()命(『田島町社寺調査報告書』より)だが、台東区の(オオトリ)神社や常陸国の鹿島神宮の境外社にある天日鷲(アメノヒワシ)を祀る鷲宮社と同じで、こちらから分祀されたとも考えられる。鷲宮神社の伝承にある土師部とは違った部民のようだ。アメノヒワシは日本書記(一書の三)の天の岩戸の前でアマテラスの復活を祈る祀りの際に、織った布で幣手(ニギテ)(幣帛か)を作った神として登場する。

 

(オオトリ)神社は阿波忌部氏が奉斎して、徳島県徳島市の忌部神社は、天皇即位の大嘗祭には、末裔の三木氏が育てた麻で織った衣(麁服(アラタエ))を調進する。紡績、製紙の神とされ、麻ではないが、結城紬も忌部氏がもたらしたと言われている。栃木県小山市の安房(アワ)神社は忌部氏の祖とされる(アメノ)(フト)(タマ)命を祀る。忌部氏もヤマトによって西日本を中心に各地に散らばる。天皇を斎く祭祀を担っていたが、中臣氏との祭祀権争いに徐々に勢力を失っていく。天の岩戸の場面でも、忌部氏の祖神は祀るための用意をし、祝詞を挙げるのは中臣氏の祖神、アメノコヤネとなっている。関東から北上した鷲神社が田島から広がりを見いだせないのはこのあたりの政治的な状況と関係しているものだろうか。

 

近世に三十三観音が参道脇に配置される。
ちゃんと三十三体が現存
 

  鷲宮、鷲神社ともに、北関東の中世小山氏の支配地が絡むことで、どちらも田島地区と関係があってもおかしくないが、祭神から見る限りは阿波忌部のオオトリ神社となる。そうだとすれば、田島地域の麻栽培や養蚕とつながるのはいつの時代だろうか。古代採鉱冶金の方向で一貫性が出るかと思いきや、鷲神社に関する限りは繋がりが見いだせない。地名にも多摩川に沿った調布、砧などのような顕著な織物地名は見られない。地名の残った時代と、鷲神社の信仰ができた時代にずれがあるのか、忌部氏の職掌にもっと広がりがあるのか、さらにこの地区の社伝や伝承、由来譚などを洗い出さなければ先に行けない。

 オオトリものは空振りに終わってしまった。

田島の荒海川流域にまつわる地名の考察はここでひとまず終え、次は南隣の舘岩地区から、舘岩川、桧枝岐川、伊南川流域へ場所を移していくことにする。