古代妄想 伝承 地名 歴史 -33ページ目

古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

 念願の資料を現地の方々の温かいご助力を得て、原本にあたり読むことができた。戦後の人心の荒廃を憂いて、青少年が誇れる「郷土」を後世に伝える必要を感じ、村人が総力を挙げて取り組んだ思いが伝わってくる熱い書籍だ。

記事の正確さを難じることより、その時点での村人の歴史認識を知ることができる点が大切なことだ。「郷土」を自分のものとする人たちの経験と知見によって再現される「郷土史」には、著名な学者が冷静かつ正確につづった記事とは違った力強さという良さがある。先学の「熱」に触れられるのが嬉しい。

 

 星文吉監修による『郷土史』(1960)によれば、初期から村落形成の主体となって来た舘岩川に沿った上郷、下郷の地域には、多くの「星ノ五郎伝説」がある。口承の伝説だけで文書も寺社遺物にもそれについてのものはほぼない。伝説は以下のように残されている。

 

上郷       精舎       居城「五郎館」と称すところあり。鎮守社に同氏が納めたという刀や兜があった。(兜は腐食し、刀は行方知れず)

              岩下       星ノ五郎の籠ったという所あり。岩に蹄跡が残る。番屋沢には、星ノ五郎宿営時に家来が番をしたという由来が伝わる。

              伊与戸    入佐倉山に城跡というあり。寺沢館は星ノ五郎居館という(現在川底)。

              井桁       下壇原に居城ありたり。戦国時代に住みしと『旧郷土史』にあり。

下郷       前沢       助木生との境の峯に完成しなかったという館跡(堀の跡など)あり、五郎館山という。

              塩ノ原     鎮守社を星ノ五郎が長徳年代(995~999)に祀るという。

 

他に水系は違うが、前沢と山で境を接する西根川の助木生にも、前沢境の峯にあった居館に隠れ住んだことと、五郎の霊を祀って鎮守とした。という伝説が残っている。この記録は星安芸守という人(法印か?)が、『新編会津風土記』の資料として書き記したものらしいが、記事は採用されなかったようだ。

また、引用では「『伊南郷土史』(注:伊南村は北隣)に永延二年(988)長江村の塁に星三郎住むとある」。を引いて、「星ノ五郎はこの類の者ではあるまいか。」と推測している。

 

 

 

 

 

 同時代の伝説として、八幡太郎源義家が奥州征伐の際にこの地に関わったという伝説が木賊、森戸、小高林、下角生にある。木賊は熊野神社創建伝承となっているが、それ以外は兵士が馬を繋いだり、愛妾と赤子がここを通過する際に中毒死したり、義家侵攻のうわさに驚いて隠れた豪族の話などで、大きく舘岩郷に関わる伝説とは言えない。ただ最後の「下角生豪族伝説」という項にある記事で、「(要約)下角生平に長者といわれた豪族が、逃した安倍貞任を追って八幡太郎義家がこの地に来ることを聞いて驚き、一時深沢山の奥へ隠れ住み、その時は戻ったが、平氏の衰えと共にいずこへか姿を消した。白山社を氏神としていたことや信仰に篤かったことなどから、元越後方面より移住した者か、又は慧日寺系の者であったかしれないが、いずれにしろ源氏系統ではなく、平家に属してこの地を治めていた者かと思われる。」という記事で、示唆に富んでいる。

 

これらの伝説は文献史学からは取るに足りないものだろう。表記も現在の『村史』では「星野五郎」とされているが根拠は示されない。しかし『郷土史』の記述では「星ノ五郎」または「星五郎」であり、現在も舘岩の姓の多くを占める星姓だ。明治時代に姓を付けるに際して、多くの村民が「星」を選んだことにどのような動機があったのだろうか、その本意を知るのは難しいだろうが、これだけ多くの伝承を残す必要を抱いた人たちの思いというものがあることは事実なので、しばらく本論から逸れるかもしれないことを謝して、門外漢の妄想を述べてみる。

 

 鎌倉幕府によって長沼氏が館岩を含む長江郷に配されたが、それ以前に郷をまとめていた者の記録はない、平安中期に平氏が隆盛を極め、支配力を弱めた貴族に代わり、地方の豪族による荘園の私有化が進む動きの中に、この長江荘も含まれていたと仮定しておく。

当地の一部には鎌倉開府以前から武蔵、下野に勢力を持つ小山氏の一族である長沼氏が入り込んでいたことがあり、それを追認する形での「配置」ではなかったかと思える。武力による切り取り次第で、領地にできるような状態にあったとすれば、荒海川流域の鷲神社の多さなどから(前記事「鷲オオトリとりもの」を参照)、東の旧田島町の針生とつながる八総の東部の高杖原から保城という木地集落があったルートは、早い段階で長沼氏の勢力下にあったとしてもおかしくない。

 

あくまでも伝承レベルだが、井桁の鹿島神社は長治元年(1104)再勧請され、熨斗戸の鹿島社は天永年間(1110~1113)に星川麿が祀った、梅宮はそれ以前から祀られていたという。塩ノ原の鹿島神社は長徳年間(995~999)星ノ五郎が祀り、星ノ五郎とは伝わらないが貝原には寿永(1182~1184)の頃神を祀った。小高林の住宅は長和元年(1012)建築と伝わる。

すべて鎌倉開府以前のことで約200年の間に集中している。混乱の時代であり、これらの伝承を後世の付会とするのは簡単だし、そう考えるのが常識なのだろうが、「永延二年(988)長江村の塁に星三郎住む」という『伊南郷土史』の記事と、塩ノ原に「鎮守社を星ノ五郎が長徳年代(995~999)に祀る」の記事、さらに前出の「下角生豪族伝説」の記事は興味をそそるものがある。

 

舘岩村のたたずまい 八総

 

 星ノ五郎の氏族は伊南川水系から南下して下野を目指し、要路の塩ノ原に鎮守(鹿島)を祀って拠点とした。一方では長沼氏が下野方向から支配地の拡大を狙い、針生や古代中山峠を越えて高杖原、八総を拠点に舘岩川北上を目指していたのなら、平安末期に舘岩川流域は戦場になっただろう。特に下野に通じる街道の要衝である上郷一帯は攻防の中心部だったと考えられる。一時は上郷のほとんどを支配下に置いた星ノ五郎が、その後劣勢となり後退して五郎館山に籠り、「助木生との境の峯に完成しなかったという館跡」で滅ぼされたのなら、助木生の「五郎の霊を祀って鎮守とした」という伝説に収まる。五郎は御霊でもある。星ノ五郎が郷民から崇められていたとすれば、郷民をなだめ、同時に祟りを避けるためにも、祀りこめるのは新支配者の常套手段だ。聖徳太子も菅原道真も、御霊となって祀られるまでは、怨霊となって祟り現世を脅かした。神話時代ではオオクニヌシもその仲間だ。

 

さらに、十世紀末に長江村の塁に住んだ星三郎の同系かという星ノ五郎の氏族に対する星文吉の推定に、下角生豪族伝説の「平家に属してこの地を治めていた者か」の推定を重ねるなら、平家の興隆の時期と星ノ五郎が塩ノ原に鎮守を祀った時期は一致する。この氏族は平家の威勢を背景にして南下しようとしていたと考えることはできる。

およそ百年後の十一世紀初頭には井桁、熨斗戸の鹿島神社の創建や再勧請の伝説があり、再勧請した上で上郷八村の総社とされる。再勧請の意味も、前章「祭神と伝承 その一」で触れた熨斗戸の鹿島神社と梅宮(天満宮)との齟齬もこの事情の上で考えると納得のいくものになる。

 

井桁鹿島神社の小祠

 

地図上で見ると南の中山峠の下野街道を井桁鹿島神社が押さえ、針生、保城、高杖原から八総の街道を熨斗戸の鹿島神社が押さえるような配置に見える。この時期に星ノ五郎は鹿島の神を奉じて上郷地域を勢力下にしたと推定できる。

 

平氏が凋落し滅亡していく十一世紀後半に向かっての趨勢は、星ノ五郎にも重なっていくことになる。そしてこの地に多い平家の落人伝説はここにその発端を持つのではないかと思い当たってしまった。水引の伝説に、いつのころか筑紫の武士が住み猟と農をしていたが、不思議なことにいつも刀を離さなかった、敵でもあったものか。という口承を記している。穴原の伝説には、恥風(はぢかぜ)(地名)の鬼丸山に住む鬼を平家の落人平野筑前守家貞が退治して、頭と左右の腕を別々に祀ったという。水引の口承に筑紫の武士とあるのは、平氏であることを匂わせている。この二つの伝説で見る限りこの地の人心は平氏に親和性を持っている。

 

  星姓は、舘岩西部の西根川流域に多い橘姓と共に、西北に接する桧枝岐村にも多い。桧枝岐は星、橘、と平野姓が700人ほどの村民のほとんどを占める。それを誇りにしている落人伝説の村だ。一方で上郷の精舎、井桁、八総は阿久津姓がとても多く、岩下はほとんどが君島姓、木地師集落だった高杖原は菊池、小椋姓、下郷の前沢はほぼ小勝姓、福渡は芳賀姓がそれぞれ大部分を占める。前沢と福渡の神社起源伝承はともに戦国時代から江戸時代となっていて新しい。桧枝岐に接する西根川流域に集中する橘姓があるものの、星姓は他の舘岩全域に広がっている。この分布からは、星氏が舘岩川流域を南下しきれずに、逆に下野からの他姓の氏族に押し戻されているような形勢が伺える。

 

 各集落(旧村)に多い館跡、居館跡の真偽のほどについては、実際に見ていないので言えることはないが、川荒れや生業の事情による集落の移動も考えられるし、時代を下ってからのものが伝説に付会されることもないとは言えない(むしろ多い)。山の開墾跡や水路の跡がまるで堀のように見える地形もあるので、伝説地の一つ一つの信憑性を吟味するなら疑問は多いだろう。それでもこの伝説の多さは、この地でせめぎあい、勢力を争った歴史の傍証となっているように思われる。それを現在まで多くの伝説に託して伝えようという意志を村人に持たせ、星の姓を残した可能性のある星ノ五郎の氏族の性格や統治についてはわからないことだらけだ。謎の多い星ノ五郎、星川麿に興味が尽きない。

 

もっともこの姓の集計は平成四年(1992)刊行の村史巻末の記事協力者とその集落名からなので精確性はそれほど高くない。現在はさらに多くの人(姓)が混じっていることと思う。