古代妄想 伝承 地名 歴史 -32ページ目

古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

 旧舘岩村塩ノ原に古布沢、古布金山、昆布沢、神金山という地名がある。手元の地図では位置関係が詳しくわからないが、神金山は田の瀬にある伝承では、「弁財天を祀ってあった大釜(地名)より竜神火が上がり向の山頂で消えたので神火(金)山というようになった。」(『郷土史』)とあることから、田の瀬と塩ノ原の間にあることはわかる。この竜神火は龍灯と言われるものと同じものかと思われ、鉱山の発見由来譚によく登場する。小高林の崩れ岩権現も「御神体のあたりより龍灯の上がった」と伝わる。小高林には蛍石(非金属鉱)を産出した蛍石鉱山があった。

 

 現在の立岩は木に覆われている

 

塩ノ原には村史の記事上には鉱山はない。この地名が気になったのは、古布沢、古布金山、昆布沢の地名が同じ「コフ」を語幹とするからで、この「コフ」が(くぐい)のことをいう古語で(近世の食物図鑑、『本朝食鑑』(こうのとり)の項に「古布」がある。)ハクチョウなどの大型の渡り鳥をあらわすものなら、戸中の御嶽神社の由来伝承と共に、鉱山、採鉱に関わる地名と考えられるからだ。その伝承には、

 

「昔木賊(とくさ)村へ来て住んでいたという星川麿の後裔がここに来て山猟りをして住んでいたが、或日岩上絶佳たる地に異様の白鳥来りその光明の樹に映れるを見て祠を建て、日本武尊(ヤマトタケル)命及び大山祇命を勧請し鎮守社とせし。」(『郷土史』)とある。そして舘岩川と支流の鱒沢が合流するところにある戸中集落は、鱒沢山に真米鉱山、中島舘岩鉱山、神高鉱山(方鉛鉱、閃亜鉛鉱、亜鉛、黄銅鉱)と土倉鉱山(蛍石)があり、「いたるところに鉱脈があり」(同前掲書)という集落である。またこの伝承中、星川麿の来て住んだという木賊村には石英鉱床から方鉛鉱、閃亜鉛鉱、黄銅鉱、金銀を産した舘岩(川衣)鉱山があった。

 

 金屋子神は(タタラ)製鉄の神だが、近世の鉄山経営を書き記した下原重仲の『鐵山必要記事』(『日本庶民生活資料集成』十巻)には、出雲国で、鍛冶の神が白鷺の姿で桂の枝に休んでいるところを、猟人の犬が樹の枝の光明るのを見て吠えたてて、金屋子神が降臨する。『鐵山必要記事』の金屋子神伝承(「金屋子神祭文」)は戸中の御嶽神社の由来と同じ話と言っていいほど符合する(猟師・白鳥(白鷺)・光明・樹)。

金屋子神は西日本中国山地のたたら場で多く祀られるが、大山祇命は合わせて祀られる。東日本では金山彦命と大山祇命になることが多い。

 

戸中御嶽神社は、はじめに祀った者たち(採鉱冶金集団)がいなくなって祀りが一時絶え、残された白鳥伝承から、後に日本武尊が祀られた可能性が考えられる。そうでないとこの伝承の符合の理由は説明できないと思う。これは後述する古峯ヶ原神社にも重なることとなる。

 

 この御嶽神社由来に語られる、白鳥と祭神日本武尊命の関係は、『古事記』にある日本武尊命の魂が、命の死後白鳥となって飛び去ったことからきていると思われるが、谷川健一は『白鳥伝説』(集英社1986)中の『常陸国風土記』の白鳥の里について考察し、成長しても言葉を発しない垂仁帝の皇子ホムツワケが、空を渡る白鳥を見て口を動かしたことから、帝の勅によりアメノユカワタナが白鳥を追った、という記事に対する折口信夫説に別な解釈を提示していく中で、

「鍛冶神が白鳥となって飛んでいく後を追いかけたというのが、真相であろう。白い鳥の飛んでいくところが金属精錬の場所として相応しいと見られていた時代があったと思われる。(p.443)」という説を展開している。

 

これに補足して、初期産鉄と渡り鳥との関係がわかりやすい理由を述べてみる。渡り鳥が休息する湖沼には、山から流れ出した川砂鉄が、比重によりまとまり、層をなして堆積していた。同時に葭原となっている湖沼の水際には酸化鉄によって植物の根に付着する褐鉄鋼(高師小僧)も形成されていた。現代発見されているものでも、大きいものは花瓶大だというから、大古には豊富にあったものと思われる。白鳥の飛来地と鉄はこれによって結びつけられる。

 宍道湖、琵琶湖、諏訪湖、霞ケ浦、猪苗代湖などはいずれも早い時期から産鉄との関りがあり、同時に神話世界での舞台にもなっている。

 真弓常忠は著書『古代の鉄と神々』の中で、祭神タケミナカタを祀る諏訪大社の御射山祭という高層湿原祭祀について、

 

 

「わたしは古代製鉄のとの繋がりを想定している。湿原祭祀が元来鉄の原料である「スズ」を得るために発祥したもので、湖沼や湿原の水辺の根に生成される「スズ」すなわち褐鉄鋼の団塊を得るためにおこなった呪儀、または予祝の祭祀が芸能を伴った(後略)」(注:このスズは鉱石の錫ではなく、「鈴」の原型である中空の褐鉄鋼(高師小僧)をいう)

 

同書にはこのような報告もある。「男体山の鉄鐸は山頂の太郎坊神社付近より昭和三十五年鏡鑑、錫杖、経筒、独鈷、土器類とともに出土したもので、中宮祠宝物館に蔵されているが、(中略)この山に鉄滓がないかと尋ねたところ、見せられたのはまさしく鉄滓であった。銅もあった。いずれも溶解した際の残滓であるから、他から持ち込むことはあり得ない。必ずこの中宮祠付近で製鉄、製銅の行われていたことを証するものである。」

 

 会津の郷土史の先達である萩生田和郎は『中国僧青巌と高寺伝承』において

「古代の湊町は鉄の一大産地だったのである。このことを裏付けるものとして祭祀がある。赤井の(アラ)脛巾(ハバキ)(荒鎺)神社、笹山の須佐乃男(スサノオ)神社、東田面の金砂神社である。この各社は荒脛巾は津軽、須佐之男は出雲、金砂は加賀をそれぞれ本拠とした製鉄集団であり、稼働年代については発掘調査を行っていないことから不明であるが(後略)」(注:湊町は猪苗代湖畔)と述べている。現在の盆地内西部の古墳発掘現場関係者からも、褐鉄鋼の堆積層があったことが確認できた。四世紀末に作られた会津大塚山古墳出土の鉄剣の原料は産地の特定がされていない(重要文化財の為サンプル採取ができないという)、定説はその時代の剣は朝鮮半島由来だろうということのようだ。いつかはっきりさせてほしいと願う。

 

 そして白鳥(コフ)の飛来について思いあたるのは、上郷はかつて八総まで沼であり、大同元年(806)の洪水による自然堤の決壊によって水が抜け、平地ができたという伝承だ。猪苗代湖はもとより、日光を源流とする鬼怒川流域には現在でも白鳥が飛来する。ある時期に、羽を休めるのに適した沼があれば、白鳥がやって来るだろう。むしろ、それがあったことで舘岩郷に採鉱目的の集団が来たのではないかとも考えられる。前記事の1.「舘岩村大掴み」に『舘岩村史』を引用したものを再度あげる。

 

(『九条家文書』の)「御摂籙(ゴセッロク)渡庄(ワタシショウ)目録(モクロク)」(平安時代の荘園の目録)を見ると、長江庄のところだけは水田の面積が記されていない。その理由は様々に考えられるであろうが、あるいは水田よりも山野そのものの領有が重要だった荘園だったからなのかもしれない。(『田島町史』通史一二〇ページ)

筆者(佐藤)は、この指摘は極めて重要であると考える。(後略)

 

白鳥信仰あるいは金屋子神信仰の奉持者による鉱山開発を想定すると、上記の引用「山野そのものの領有が重要」に対して一つの解答が導き出せる。

 

 「コフ」について、もう一つの問題がある。ただ、この件は守備範囲が広くなりすぎ、現在の私ではとても手に負えないことなので問題提起するという形でしか書けないことをご了承願いたい。

 

 それは日光二荒山(男体山)開山の勝道上人が修行の地としたという伝承の聖地、栃木県鹿沼市の古峰(ふるみね)神社なのだが、この祭神は日本武尊命である。草薙剣で火攻めを脱出した神話から、火伏の神とされている。所在地は鹿沼市(クサ)(ギュウ)古峯(コブ)ヶ原で、「こぶがはらさん」とも呼ばれて親しまれているのは、「フルミネ」の呼称よりも古いことをうかがわせる。舘岩でも参詣講が盛んで、近世のそれは村史にも詳しい。しかしはるか古代の信仰はどうだったろうか。

 

 「コブ」は旧かな使いでは「コフ」となり、古布金山や昆布沢、古布沢と同じ語幹の地名であり、地形を見るとこの一帯が湿地の多い高層湿原だったように見えることから、沼のあった「コフ」ヶ原(白鳥)の可能性がないか、地質や地形の変遷はどうだったろうか。

日本武尊命の火伏という伝承には少し無理があること。

盛んな天狗信仰は、大修験僧、勝道上人の事跡を伝えると同時に、勝道上人も含めた産鉄民そのものとも考えられないか、産鉄の業がその時代には天狗(神)のなせる業と受けとめられたことは想像できる。二荒山山頂奥の院に祀られるのが、オオナムチ、アジスキタカヒコネ、タギリビメを合わせた二荒山大神と、少し離れたところに鎮座する太郎坊神社(天狗)であり、ヤマトタケルはない?こと、祭祀遺物が主に太郎坊神社付近から出土していることからも、この山の本来の信仰が産鉄神、天狗(勝道上人)であり、そして産鉄族の白鳥信仰が伝承として残っていたとすれば、魂が白鳥となって飛び去ったヤマトタケルとして、後世それが祀られたことについても頷ける。

古峰ヶ原は足尾銅山のある足尾町と鹿沼市の境にあり、小規模な鉱山は近くの谷にもあった。この地の信仰が採鉱と無関係ではありえないと考える。

 

白鳥信仰とその移動については、前掲書『白鳥伝説』が詳細に論証している。大和から常陸、陸奥へと北上していく物部氏と安倍氏そして白鳥信仰があった。その枝分かれした(かも知れない)支線に、日光を経由して舘岩郷の鉱山地帯もあったとするなら、歴史がないかのごとき古墳期から九世紀頃の南会津の空白に、地名を辿ることから、古代の姿を描き出す起点ができるのではないかと、また妄想が動き出す。