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古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

舘岩地域の地名や信仰伝承でつかみ切れなかった断片を挙げて、今後の作業の備忘録にしておこうと思います。

 

「育ち石」

旧木賊村の鎮守は山神社で、それとは別に播州星ヶ丘の住人星川麻呂によって祀られたと伝わる熊野神社に、「育ち石」の伝承がある。

「此人常に遊猟を好み東降し赤沢山の水源に至る時に、霊石二体星川麻呂に密着して下流室山の半腹(注:鎮座地)に至りてにわかに長大し、双像の霊石となる。其の形陰陽二神の尊影に髣髴たり」また一説には朝日長者の娘朝日姫の婿の猿丸ともいわれているという。源義家の夢に現れたことから義家が社殿を造営寄進したと伝わる。

 

類話も東隣の田島町に二つ伝わる。

「田出宇賀神社の「おがい水((うがい)水)」の傍らに、戦時中まで棒状の石杭が立っておった。この石は年々育つといわれていて、ある時長く伸び過ぎたために途中から折れたこともあったという。」

 

要約:「金井沢の室井家のウチ神であるオシンメ様は、オシンメ様が袖に入れてきた小石であったが、ここに落ち着きたいと云ったのでこの地に祀った所、ぐんぐんと育っていまみるような大石に成長した。その大半は土中に埋まっている。」(『田島町史』民俗編より)

 

 この類話は広い範囲にあると思われるが、この信仰の由来は何だろうか。『舘岩村史』では「君が代」にうたわれる、「さざれ石の巌となる」と同様の霊石信仰かと解説し、『郷土史』では「我々の想像に及ばざるところなり」と投げ出している(笑)。

 

キーワードとして播州、猟師、双像、陰陽二神また、朝日長者、猿丸などが出てくる木賊熊野神社由来が、もっとも物語としてまとまりと情報がある。猟師の山の神は夫婦神であることや、双像が陰陽二神であることなどから、古代信仰の原型を多く残している内容になっている。朝日長者の伝承は採鉱民が運ぶものの一つで、猿丸も日光二荒山との接点がある。

角生も鎮守の田光神に「御神体は青石二丸下野の国那須野が原の殺生石の破片なり」とあり、双体神を祀っていることから伝承的に木賊との関連があるのかも知れない。

 

オシンメ様の伝承は、この地域に活躍した霊や神を降ろすオシンメ様という民間の巫女だが、田島町に残る、中世の熊野比丘尼が仏像を笈にいれて勧請した伝説のスタイルを写したような構成になっていて、木賊の伝承に較べると脱落もあるように思える。

 

八総二荒山神社の小祠
 

金井沢の育ち石については、カナイは金鋳でもあるかと考えるので(前記事「鹿をひろう」)、採鉱の線で追ってみると、前章で触れたように、木賊には桧枝岐に通じる小繋峠に入った所に黒石鉱山があったことが『郷土史』に書かれている。また上流の川衣には川衣鉱山もあった。この二つの鉱山の簡単な鉱山史(同書)に、発見は山仕事の者が良質の銅鉱石の露岩を拾ってきたことからとあるので、それよりはるか以前でも、露頭があり、採取が容易であった可能性は高い。このような鉱山と産鉱の視点から「育ち石」伝承を考えると、かつては掘ったり拾ったりした岩を砕き、高温で焼いて金属塊を作る溶鋼や精錬は、神の御業であり、工程上でも意味の上からも「育つ石」と言えなくもない。「神の御業」の詳細が忘れられて産鉱伝説が変形したものが「育ち石」の伝承になったという推定だが、これを確信するためには、残った伝承の変化の過程を示すような他の伝承などを見出す必要がある。

田出宇賀神社は、現在の祭礼は祇園祭として華やかに行われ、産鉄の風俗が伝わっている形跡はないが、「田出宇賀神社の氏子は片目が小さい」という伝承があり、これも天目一箇神や伊夜彦神社、また鎌倉権五郎などに共通する、類型的な産鉄民の伝承であることから、この由来譚を追及すれば別な視点が出てくるかとも思う。

 

「トクサ」

植物名である木賊の地名は、今のところ当て字とは考えずにいる。珍しい植物ではない木賊は、木地師が木製品の素地を仕上げたり、女性が爪を磨くのに使った研磨剤(現代ならサンドペーパー)であったことから飛躍してみれば、矢じりや錐状の小型の刃物の切っ先の仕上げ砥材として、金属器製造との関係を考えられなくもない。実際にやってみると、木賊の茎は爪の研磨には思った以上に使えた。浮世絵の初期、鈴木春信の作品に、娘たち(遊女か?)の爪研磨具としての木賊を描いたものがある。木賊周辺には蟹沢(ガニザワ)ノ上(ノウエ)蟹沢(ガニザワ)(フク)(ミチ)原、赤沢山、新屋敷(アラヤシキ)(カニ)(イシ)山、黒石(クロイシ)、穴原などの採鉱を思わせる地名が多い。(前記事「蟹」のいる地名「鹿をひろう」など参照)

また木賊の下流にある新屋敷集落は唐沢峠で東の湯ノ岐とつながるが、アラヤシキはアラをアラカネ(麁金)とすれば、ゴールドラッシュによってできた屋敷を核とした村との解釈もできるか。(前記事「荒さがし」「もっと荒さがし」参照)

 

「丸石信仰」

先日舘岩の上郷地区を少しだけ見て歩いた。井桁の鹿島神社、八総の二荒山神社、熨斗戸集落、伊与戸の聖観音堂などをウロウロと回った時に目についたものが丸石だった。古びた木の祠が何を祀ったものかは判然としなかったが(稲荷社か)、高床に作られた二つの祠のそれぞれの祠下に10センチから15センチほどの丸い石が数個集めてあったのがとても気になった。伊与戸の聖観音堂では、堂の向かいに集めて祀られた馬頭観音碑などに並べて、丸石や楕円石がモルタルで基部を固めて祀られていた。丸石の信仰は現在住んでいる甲斐の国で最も盛んであると言われていて、実際目にする機会も多い。中沢厚などの研究者もいて最も古い部類の信仰形態ではないかとされている。関東以北での信仰の存在はそれほど報告例もないようで、この稿を書く過程で見た資料本でもその信仰に触れたものは皆無だったので、意外さに虚を突かれた感じがした。

その後『田島の石仏』中にも石碑の基部に据えられたものが被写体の石碑とともに写り込んでいる図版が二点ほどあり、『田島町史』には、前述した金井沢の育ち石神体の根元にも数個の丸石が写り込んでいた。甲斐の国では道祖神としての意味合いが強い祀られ方をしているが、本当の正体はわからないと言っていいだろう。丸石信仰があったとすれば、いつごろからのものか、関東から入り込んできた習俗なのか、南会津でどのような祀られ方をしていたのか謎は多い。

これに言及したかとみられる唯一の記事は『郷土史』中の「木賊七不思議」に記された「御礫石」で、「神の礫石とて丸き石数十個あり。」とだけ記されている。

 

伊与戸観音堂前 丸くないものもある
 

丸石について他に触れた資料が無い現時点では考察を進めることができないでいる。地元の記録や祭祀の調査、伝承を拾い出す必要があるが現在では難しいだろう。中沢氏の著書にも、遺跡発掘の現場で丸石が出土しても遺物とされずに記録されないことが多かったことが報告されている。(参考:中沢厚著『石にやどるもの』)

 

八総の「蛇口」は一つには川荒れ(鉄砲水)を蛇に見立てた崩壊地名かと考えるが、二つ目には『石神問答』(柳田国男著)冒頭の「シャグジ」とも通音なことから、丸石信仰とも合わせてその方向も考えられる。さらに八総鉱山がある村という特徴からの可能性として、採鉱のための坑道(()())出入口を蛇口と表現しているかもしれない、それぞれが表すものが全く違う厄介な地名だ。昭和に採掘した住友鉱山は、峠を越えた田島町滝ノ原鉱山から大規模に貫通する坑道を取ったが、その昔(近世)は岩下の奥に八総鉱山の入り口があったという。さらにそれより昔に八総にも坑道があったことを否定はできないので、これも考える余地のあるものだ。

 

「イゲタ」

井桁の地名は『新編会津風土記』にもとは井下田と書いたとあり、「寛文中(1661~1673)に現行の文字に改めた。」とある。それを引いた『郷土史』の記事には「部落内鹿島神社に御手洗と称する略方形の神池があって、その神池の下流で水田を耕作したことによると伝えられている。」としている。

 

これには二つの疑問がある。一つは神池を「井」と称することについて。清水や井戸があったという記述はないのだが、「略方形の神池」を「井」と言えるかどうか。もう一つは大正年間あたりから本格化したこの地域での水田耕作の記事があり、同時に「井桁堰は元禄年間(1688~1704)に拵えた記録があるそうだから、其頃は既にそこここに水稲が作られてあったかと思ふ」。(『郷土史』)ともあるが、寛文よりもだいぶ以前からイゲタの地名があったことは確かで、水田耕作を地名の由来とするのにはやや無理がある。

 

そこで、イは居で桁はキダ(段)のイキダ=段丘の上の村という音を当ててみるのはどうだろうと考える。居平という地名は初めにそこに住居を定めて村が作られたことを示していて、数多く見られる。さらに南会津の発音ではイキダはイギタと濁音化するので、イとエが曖昧なこの地では、容易にイゲタへと転訛する。転訛した音を聞いて井下田の文字を当てたと推測してみる。

地形地名「イキダ」と考えて地勢を見ると、井桁は目の前を舘岩川が流れる河岸段丘の縁にあり、山が迫って通路が限られている交通の要所でもある。戦の神、鹿島神社が鎮座するには相応しい。

 

「不明地名」

押戸にあるだいじや山には熊野神社と相殿に蛇神が祀られる。「大社山が訛ったではあるまいか」という村人の解釈には頷けない。確信があるわけではないが、村の社を「大社」と呼ぶことが容易にできるとは思えない。「蛇神を祀る」となっている『新編』の記事は信頼してよいだろう。地勢も地名も氾濫の猛威を畏れる気持ちを表していると思う。

 

角生(つのう)の地名も原意がわからない。漢字からは水晶の結晶などが連想されるが何の根拠にもなりそうにない。貝原はカイが峡の意だろう。地形も合致している。

 

熨斗戸の地名について『郷土史』は、大古には沼であったことから「()()()」であったろうとしている。私は氾濫により土砂が「ノシ」たのだろうと考えて崩壊地名としたが(前記事「ド、ド、ド、ド、ドウ」、『郷土史』の考察にも納得できる。コフ(古布=白鳥)の地との兼ね合いからは、むしろ「沼跡戸」のほうが、地名と歴史がかみ合っているようにも思える。検討の材料として両方を挙げておく。

 

 精舎の庚申塔近くに古い墓があった。道路開削時に骨や古銭がでてきた記事があるが、住民は誰も墓であったことを知らなかったという。この場所から少し離れた崖の下を「ビョウスの下」と言っていたことから、この墓所をビョウス(廟所)と言っていたことがわかる。この地名の使い方は、桧枝岐ではビョウショ、南郷ではビュウスとなって現代まで続く。埋葬場所を墓と呼ぶようになったのは墓石を建てることが一般化してからか。「死骸などはどうしたものかわからない。墓所を定め石碑を建てたのは農民では元和(1615~1624年)時代からと云ふ」と『郷土史』は語っている。ビョウスと言っていた時代には、地位のある限られた人のみが埋葬地を定められ、石碑は無かったのだろう。この地名の広がりや地域がどのあたり迄なのか注意しておいてみよう。

 

「シナシ」

湯の花にある四梨山、四梨口、熨斗戸にある四無原、また田島町の金井沢は古くは支那志村だった。田島町の北東にある下郷町にも豊成村に志無があり、シナシが何なのかがわからない。『地名用語語源辞典』に引くと「()(なし):砂丘、砂州などのため流れが伏流する川をいう。」とある。

では尻はというと「尻:後、後方、背後、末端、出口、裾などの意」とあるのだが、支那志村(金井沢)の桧沢川にも舘岩川、湯の花の湯ノ岐川にも、本流が伏流化するような場所がそうそうあるとは思えない。川幅も狭いし急流で、砂がたまることも伏流化することも考えにくい。沢(川)が平坦な扇状地や盆地に出るところで、一か所くらいならそのような場所があるかも知れないが(田島町に水無川がある)、シナシがあちこちにあるこの状況からは考えにくい。

しかし「山」や「口」に被せてあるので、沢や川に所縁のある地名の線はありそうである。落葉高木シナの木は剥いだ樹皮を籠や布のための繊維をとる重要な資材木だが、どうやらそれでもなさそうだ。ある方向からの風の名称か(ヤマセのような)方言かと思い地元の叔父などに聞いてみたが、それも違った。朝鮮語、アイヌ語にもそれらしい単語には行きつかなかった。当て字の多様さから見ると、漢字を当てた時代にはすでに意味がわからなくなっていたようなので古い地名だと思われる。狩猟用語など特殊な言葉だろうか。いずれにしろ「シナシ」は」、その地名が遠い昔に運ばれてきたものだと考えられる。

 

館岩川下流

 

「ホシカワ・ホシノ・ホシ」

星川麻呂(星川麿)といい星ノ五郎といい、現在の舘岩に多い星姓とのつながりについての確実なことがわからない。前者は木賊で猟師と伝わり、また熨斗戸では鹿島神社を祀ったとも伝わる。後者は多くの館を作った戦う武人として伝わり村民は親和性を持っている。

両者に共通なのは「星」の文字だけで、時代に関しても不明となっている。古代から現代にまでつながる、私にとってこの地における最大のミステリーだ。

 

伝承に多数残っているにもかかわらず記録がない過去の有力者には、入れ替わった勝者による「敗者の跡を残さない」という強い意図がある場合もある。

 

会津坂下町を中心として西会津地域伝わる「高寺伝承」も、六世紀における仏教伝来の従来の歴史認識を塗り替える可能性を秘めつつ、それを証拠立てるものが一切ない。伝承レベルでは多くの寺の仏像が高寺おろしと伝わり、寺院跡や参道跡とみられる痕跡があっても、確実な証拠はない。新支配者が破壊と焼滅を徹底的に遂行したのではないか。と萩生田和郎は推測している。(『中国僧清巌と高寺伝承』)奈良県明日香村の石舞台古墳も蘇我馬子のものと言われてもいるが徹底的に破壊されている。

 

伝承は地域の歴史や教訓や由来を後世に残そうとした先人が、記憶に残りやすい形にまとめて口述したものだ。広い意味で地名もその一つと言える。一つの地名の意味がわかることによりその時代の人々の思いに到ることもある。地名は名づけられた時代の意識の公約数であり、もとより意味のないものはない。現在不明な地名の、意味を掘り起こそうと試みる拙稿にも、多少なりとも意味を読み取っていただければ嬉しい限りだ。

 

まだわからないことは多いのですが、時に外側からの視点が不明な部分を教えてくれることもあります。旧舘岩村の地名はひと区切りにして、次回からは伊南川流域に入って旧伊南村へと北上していく予定です。拙い考察にお付き合いいただきありがとうございます。地元や方言を知る人のアドバイスをお待ちしています。