昭和二十五年から二十八年に「伊南郷土研究会」が発行した『季刊 郷土研究』を友人に紹介してもらったところ、書中に菊池光江氏によって三回に分載された「星孝翁の『寒国短歌』-抄-」郷土風俗歌があった。文政期に伊南郷小塩村の素封家、星孝翁の書いたものを県教委の梅宮茂氏によって昭和二十五年二月二日の「福島民友新聞」に、発表されたものということで、その解説に「百二十年前の文芸作」と銘打たれたものだそうだ。現在ではそれに69年を加えて「約百九十年前の文芸作」ということになる。
用語や用字が現代とはかけ離れているので読めないところもあるものの、当時の風俗を七五調に快くのせて、詳しく歌っている。村史等の引用よりも余程正確に当時を偲ぶことができるし、気になる内容も含むので全文を引用することにする。下線部はカナがふれなかったところで、太線部は気になる伝承部、註は私のわかる範囲で加えたもの。誤りや七五調で当てはまるカナが振れるところがあれば教えていただきたい。
星孝翁の『寒国短歌』 菊池光江(『郷土史』への採録者)
偉哉日の本は 豊葦原の中津国
往古の神代を伝え聞く 天神地祇の御代の春
天津日嗣の昉りに 百位の官職備わりて
君と臣との礼儀あり 東業西収も自然から
昔を今に至るまで 不易かはらぬ御宝
これぞ万民万代の 命を延る五穀の
神書の訓に百姓を 大御宝と訓いたり
しかし国に次第あり 南陽国はいつ迄も
雪降らざれば年毎に 草木花の実盛気よく
耕作勝れてみのり能く 不作は更になかりけり
北陰国は如何なれば 例年雪霜早く降る
中にも深き国々は 東山道の其内に
信州越後奥州の 会津南の山の内
八月下旬のころよりも 雪霜早く降りにける
立岩郷より引続き 伊南や伊北の村々の
其用水のみなかみは 桧枝岐山駒ヶ嶽
燧山の高山に 至佛山の大山か
未申より差挟む 抑も此山と申せしは
方三国に跨がりて 巽は上州戸倉山
西は越後の国界 北と東は会津山
桧枝俣の居村より 二十里登りて湖水あり
燧至佛の間にて 小瀬の湖水と唱えけり
回り巡れば六十里 湖水へ落入渓水は
奥沢釜城桧木沢 松倉長沢不動滝
北の俣に和清沢 名のある沢々十二沢
落入湖水のことなれば 沖の白波茫々と
漣岸を洗ひあげ 底の深さは限りなし
落口一つの大河にて 二段の岩をつんざいて
漲り落る水音は 鳴る雷の如くにて
地軸もゆるぐばかりなり
白峯沢へ落入りて 銀山川と是をいう
駒ヶ嶽の西北を 巡り折ひと夫れよりも
伊北只見へ出るゆへ 只見川とぞ名付けたり
伊南川落入る其よりは 柳津川とぞ唱へたり
此小瀬沼を尋ねれば 昔し康平六つの年(註:康平は1058~65)
八幡太郎と申せしは 是ぞ源氏の名将で
奥州征伐なされしに 厨川の要害を(註:前九年の役)
年を重ねて責めたもふ 賊の一類敗北し
落散る余韻の其内に 安部の弥七と云人は
かかる深山へ落来り 小瀬の平と云場所に
少かの小屋を引結び ここに住居をなされける
小瀬は所の字にて 山も其より此方は
小瀬沼山と唱へける
世も静りて其後に 上州川場に赴ひて
五閑の入りの山奥に 岩屋で其身を終わりける(註:五閑は後閑)
勝れし大兵大力で 脛の長さは八束余
五閑の鎮守と祀りける 八束の明神是とかや(群馬県利根郡みなかみ町の後閑明神)
御霊の宮とも崇めたり 扨この沼は両国の
境に立ちし沼なれば 春より夏は年毎に
桧枝俣の狩人に 戸倉の猟師寄り合いて
鮒と岩那と苦鮠を 年中渡世にあみを引く(註:苦鮠はハヤ)
秋より冬は此山の 通路は絶へて無りける
春の彼岸の明けて後 職人商人通には
向の越口目印に 氷の上を渉り行く
水面更に見へざれば 氷の上を真直に
原地を行くにことならず 四月の節にならざれば
堅く禁め渡らせず 下旬になれば自然ら
堅い氷も解砕け 波に漂ひ散乱す
其節厚みを尋ねれば 一丈有余も有とかや
厚き氷を踏故に 難の障りも無りける
此山々の為体らく 嵩山表裏は千丈の
雪ぞ積りて春過ぎて 夏の最中の水無月の
土用過にも成りければ 去年の白雪村消へて
駒の形に消え残る 其故山の題号を
駒ヶ嶽とぞ唱へたり 又山々の落水は
寒く冽く冱へ渡り 酉年なればいつとても
田方青立不熟 折節飢饉の其時は
春は山路に残る雪 秋は根雪の降らぬうち
鹿子まだらの頃よりも 葛やわらびの根を掘りて
食事の佐に取集め 夏の糧には其外に
ヲヲトチ沢菜かやかくみ 女郎草や蕗の類まで(註:カヤの実と、カクミはハシバミか?)
其節々に随いて 貯置いて雑食を
えらばず是のみ喰いける 夫のみならず働きは
切れた綴れを身にまとひ 斧山刀鍬に蓑荷縄
放たず其身を苦しめて 晝夜の稼ぎに隙ぞなき
春は耕し作仕付 田の種麻蒔き大豆小豆
女子は蚕飼の営みに 夏は田畑の耘りに
蕎麦蒔き麻切蘿蔔蒔 其より麻の乾返し(註:羅蔔は小かぶ)
池に浸して引剥て 仕上次第に其名あり
登り近江に次近江 調べ生ソロヒ其次に(註:麻布の製品名か)
仮名引江戸上綱網苧 是ぞ当国第一の
産物なれば年々に 九月初めの御貢
此麻時はいつとても 坊主山伏皷女座頭
乞食非人の麻貰ひ 若松当山夫婦づれ
柳津月本小平潟 倍堂外僧の乞食に(註:ほいとうは門付け)
麻苧の奉加数しれず 最早初霜の降節なれば肌寒く
雨や霰の暴日こも 蕎麦刈稲刈干草刈
女子年寄残りなく 雪と争う取おさめ
折り知り顔に山々の 峰の木葉も木枯の
紅葉の錦過ければ ふるみ降らずみ定なき
時雨ぞ冬の始めには 壮んの者は年毎に
上州野州水戸領へ 木樵屋根葺木挽引(註:上州=群馬、野州=栃木)
思い思いに出にけり 跡に残りし老少は
往来出入も不自由に 谷の小川も吹とじて
雪は一夜に一丈も ふり積りし其時は(註:一丈=約3m)
人の通いじ絶えとまり 隣あるきも出来ざれば
毎日屋根の雪卸し 草臥果てて夜に入りて
燃火火燵を楽みて 晝の凍へを取り返し
其間には藁仕事 草履わらぢに馬の沓
こもに筵に縄よりに 茅表の畳さし
女子は麻の緯經を 績と紡と機織ると
隙無き渡世ぞ哀なり 其より皆済御蔵方
四斗俵二朱の過役籾 越後当地の商人に
年中出入の諸差引 木綿綿入足袋頭巾
羽織袴に小脇指 思ひ思ひに支度して
最早節氣に成りければ 煤掃掃除に鍋釜の
百霜落しに婦人方 鉄漿付道具に至るまで
洗ひみがいて節分の 追儺の夜半の儺ひ
福内鬼外と撒散らし 越年佳例の支度には
餅と烏賊と凍魚と 分に随いそれぞれの
家相応にもとめ得て 目出度年を迎ける
雪の中にて新玉の 年の始の嘉儀を伸
祝ひ寿ぐ礼儀して 親類方の振舞に
嫁婿取りの婚礼に 望のゆわい(祝)も過ぎければ
立春過ぎて如月の 二月彼岸に成りければ
棟より高く積雪も 軒端は氷離れける
是ぞ此世の地獄にて 冱練地獄の住居なり(註:冱=冷える、さえる)
谷の外渡る鶯の 声を聞いては節を知る
土用になればいつ迚も 雪の中よりつばめ来て
囀り渡ればそろそろと 四方の山々霞来て
漸く春の気色なり かかる深山の雪深き
幽の谷もむかしより 住めば都の譬ひにて
恩愛父母の慈悲の縁 又は妻子の情愛に
ひかれ繋がれおのづから 渡世の家業を勤めける
併しながら大君の 恵も深き政りこと
仮令吾妻の庁辺 八重繁き奥迄も
同じ日影を天照す 神の仁の御裳裾の
川の流れの国津民 五日の天も穏かに
十日の風も徐に 十風五雨の時候にて
五気の時候も和順にて 乃至五年も十年も
豊満作に有付いて 早晩飢饉の患無く
神と公との道直ぐに 都の春に行くべくは
是そ環城楽の舞 さて万歳の小忌衣
指す腕には悪魔をば 卒土の外まで追い拂ひ
治る手には福寿を抱き 千秋万歳限り無く
原ね聞にし唐土の 唐尭虞舜の聖代に
鳳凰空に舞遊ぶ 麒麟は国に現るる
又本朝の古の 仁徳帝の御歌に
民の竈の御歌あり 天暦延喜の御代の春
時に刑鞭蒲朽ちて 蛍空しく去るとかや
錬鼓苔迄深うして 雛驚かぬ御代とかや
宮も藁屋も押並べて 蓬莱扶桑葦原の
とざさぬ御代を楽しみて 天下安全農業の
民百姓に至るまで 萬々歳と祝けり
「地下に眠る孝翁も百二、三十年後の昭和の時代に、自己の作品が新聞雑誌に発表され、世上に珍重さるることに就いては、会心の微笑を洩らさるる事と想われて、一入の感興が起こる。幽冥境を異にしても、記録を残せば人の命は永遠に滅びぬと痛感した。」という菊池光江氏の思いを、これを採録しておいてくれた同氏におくりたい。
