古代妄想 伝承 地名 歴史 -29ページ目

古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

今年もお付き合いください

 

 伊南村は中、近世には伊南郷で、桧枝岐村から旧南郷村の一部を含んでいる。『新編会津風土記』には会津郡古町組と古町組下とされ、伊南川を挟んで東(右岸)の白澤から南郷の宮床までが古町組、桧枝岐村から現内川までと西(左岸)の浜野から南郷の鴇巣までが古町組下に分けられている。わかりにくいので下に『新編』のものを写す。下線が後に南郷村となる。

 

古町組

 古町(ふるまち)村、小名(どう)(じょう)(現在道城)、多々(ただ)(いし)村、白澤村、木伏(きぶし)村、(みず)()(ざわ)村、大新田(おおにた)村、山口村、小名下山口、端村板橋、(だい)、中小屋村、入小屋村、木地小屋(こま)()、宮床村

 

古町組下

(とう)(のす)大橋村

青柳(あおやぎ)村、小鹽(こしゅう)村、宮澤村、(はま)()村、落合村(現内川)、(ほお)(のき)村(恥風に合)、恥風(はぢかぜ)村、大原村、小立岩村、大桃村、檜枝岐村 端村瀧澤

伊南川流域南北30kmにわたる

 

 明治の町村制からほぼ現行の境界となるが、前記事(「南郷村の位置」)でも触れたように、史料でわかっている中世以降この流域は、ほぼ南半分が関東からの影響が大きい伊南郷と北半分の伊北郷に分けられていて、領主も異なり文物の流入経路にも違いがある。舘岩村の考察でも、下野(栃木)方面から運ばれたと思われるものと上州(群馬)、越後(新潟)との繋がりと思われるものとが混じりあっていた。伊南、伊北地域で、伊南川を境界線として東西に分かれていた旧伊南村と旧南郷村の境界感覚は、多くの橋によって東西地域の交通が難なくできる現代からは容易に想像できない。地名を考えるうえでの境界は川を境にした古いものが適当だと思われる。

 

また『角川地名大辞典』中に収められている伊南村の地名は、原資料が山の生活圏を含んでいないものだったのか総数が少ない。集落の居住地内の地名が多く、地形や地勢を表すことが多い小名と言われる通称地名が少ない。前章に歌を引いた『郷土研究』中から地名を拾い出してもさほど多くはなく、それを補うことのできる適当な資料も不足している。そんなわけで旧伊南村に関しては地名というよりも、伝承や神社由来に偏らざるを得ない。また前述の境界線の考え方から、北は旧南郷村の鴇巣と宮床までを伊南郷として、必要に応じて越境しての(南郷村は多くの地名を得ているので)地名考察になっていく。

 

前章に引いた星孝翁の『寒国短歌』は、伊南郷の地理、風俗をよく紹介する史料であるだけでなく、当時の地理感覚として気になるところを太字にした。

前九年の役に敗れた安倍氏の類で、当地域へ落ちのびた安部の弥七という人物の伝承。

 

五閑の入りの山奥に 岩屋で其身を終わりける(註:地名、五閑は後閑)

勝れし大兵大力で 脛の長さは八束余

五閑の鎮守と祀りける 八束の明神是とかや(群馬県みなかみ町の後閑明神)

御霊の宮とも崇めたり

 

この伝承は上州(群馬県)月夜野の八束明神の由来をそのままなぞったものだ。前九年の役は永承六年(1051)~康平五年(1062)の源頼義による安倍氏征伐という名目の蝦夷侵略だが、ここに登場する八束(やつか)(はぎ)は、『常陸国風土記』(奈良時代初期成立)にも登場する。

古老(ふるきおきな)()へらく、昔、()() (くにひと)(ことば)()知久母(ちくも)、又()都賀波(つかは)()といふ 山の佐伯(さえき)、野の佐伯在りき。」(『常陸国風土記』茨城郡(一))これは記紀に登場する長脛彦(ながすねびこ)などの中央政権に従わない蝦夷(えみし)の蔑称とされている(谷川健一著『白鳥伝説』など)。『常陸国風土記』から約三百年後、記紀の神代からはそのまた数倍もの時間が過ぎているにもかかわらず、クズ、ツチグモとともに、八束脛がここに出てくる。『寒国短歌』の作られたのが文政期としたとき、前九年の役からは750年後、記紀の記事である神武東征の時代からの時間は優に千年を越えている。伝承の持つインパクトと保持力の強固さには驚くしかない。録者の菊池光江氏は曰く、

 

「尾瀬沼の住人平野長英氏の著『尾瀬』によると、尾瀬の伝説に四つあり、尾瀬中納言説(以仁王)、尾瀬の三郎利房説、悪勢説、安部の三太郎説である。」

 

最後の「安部の三太郎説」が安部の弥七説に通じるものがあるとして、後世の研究に委ねると結んでいる。当地の伝承と言えば以仁王一色になっている感のある現代の到達点に、後世の研究者として気恥ずかしさを抱かないわけにはいかない。不勉強ゆえに、以仁王(尾瀬中納言)以外の伝承を知らないでいた。できれば機会を得て四つの伝承それぞれをご紹介したい。

 

逸れてしまったので本筋に戻ろう。ここで安部の弥七として歌われている八束明神は、神社の由来によると、源頼義が奥州で安倍貞任、宗任を征伐した時に残党が尾瀬に逃れ、さらに三峰山塊の一つ石尊山の岩窟に籠り、夜ごと後閑の里に出て穀物などを盗んでいた。ある夜村人が跡をつけると、盗人は生い茂る太い藤蔓を這い上がって岩窟に入った。それを見て村人が蔓を切り落としたので、盗人は降りてこられず、自分の馬を殺して自らも命を絶った。しかしその後、村に様々な祟りがあるので、骨を埋めて祀ったという。神社の御神体は人骨である。(ネットより月夜野町誌編纂委員会『古牧村村史』から要約)

 

この伝承の真偽を詮索することに興味はないが、政治経済の中心が江戸に移って久しくなった文政期の『寒国短歌』の中における、この伝承の占める位置づけに上州(沼田)街道を通じての伊南郷と上州の地理的な親近感の強さを感じ取ることができる。このような伝承の持つ心理的な方向性は思いのほか重要ではないかと考えている。近世の作なので当然「上州野州水戸領へ」と出稼ぎする様子も歌われているが、上州がはじめに出てきて、現代のような太平洋岸志向ではない。鎌倉幕府が機能して交通路を整える以前は、東海道よりも東山道で上州→信州→美濃→近江→京というのが伊南郷からのルートだっただろう。何より平野部には大きな川があり、湖沼も多いので、古代の旅には難所となっていたはずで、山腹と尾根を伝う方が移動には便が良かったと思われる。

 

『日本の姿』第二集(民俗文化映像研究所DVD)という記録映画に出演した、田島町針生(はりゅう)の木地師に嫁入りした女性が、「一人で長野から歩いて嫁に来たのが心細かった。」と話していたのは衝撃的で忘れられない。木地師はやんごとなき血統を重んじるため、ネットワークによる交流を通じて木地師同士で婚姻したという。長野のどこから来たのかは述べられていないが、おそらく信州佐久から、妙義山塊を越えて上州街道を経たのだろう。現代に、このルートを十代(推定)の女性が何の通信手段もなく、一人で歩くことが想像できるだろうか?背景にそれを可能にするだけの、木地師のネットワークがあっただろうことも想像される。

 

官道が発達する以前から、縄文時代から発達していたと思われる山のルートは、冬期間に山だけを辿って秋田のマタギが信州や越前で猟をしたり、都(京)まで行けると言われていたりする。只見町には秋田のマタギの作った地図が残っている。代々の経験の蓄積によって奥羽山脈や越後山脈を自分の庭のように知り尽くしていたことがわかる。

 

 伊南郷の総鎮守である伊南郷一ノ宮は宮沢の香取神社だが、上州の「八束の明神」をこまごまと歌い込んだ『寒国短歌』に、地元の一ノ宮に関する信仰が歌われていないことに違和感が無くはない。伊南郷を領した河原田氏は藤原秀郷の後裔とする小山氏の末で下野が出自とされているが、はっきりしたことはわからない。現在の河原田姓の分布を見てみると、東京や大阪の大都市は除いて、滋賀(近江)長野(信濃)群馬(上州)などに多いことは興味深い現象だ。この山岳地帯を繋げるルートは近江木地師の移動ルートであり、以仁王伝説のルートでもある。妄想の中では、河原田氏の勢力範囲に以仁王伝説が事細かに広がっていることに何かの理由がありそうに思えてくる。(02へ続く)