明治に香取神社の呼称がつけられるまでは、伊南郷一ノ宮、一宮大明神、一宮神社などと呼ばれる宮沢香取神社は、長い歴史の中でいろいろな信仰が重なっているため伝承も記録も多い。錯綜するそのすべてに当たることは難しいが、現在の名称「香取神社」は、明治期の廃仏毀釈の嵐の中で、祭神である経津主神をこの神の総本社、下総国一ノ宮の香取神宮につなげて奉斎したものだろう。それより前の成り立ちを考えるために、『伊南村史』民俗編をはじめとして、いくつかの記録や伝承を並べてみよう。
まず信頼性が高いとされる『新編会津風土記』(文化六年1804)の宮沢村の神社についての記事。
① 「一宮神社 境内東西三十五間、南北一町免除地、村北二町にあり、勧請の始めを傳えざれども村名の起こる処なれば、きはめて古代の鎮座なるべし。昔河原田氏深く崇敬し社領もありしと云。祭神詳らかならず、鳥居あり。古町法導院司なり 相殿二座 稲荷神本村より移せり、石神 同上」
② 次に『伊南村史』民俗編「宮沢の社」より、「延享三年(1746)の『御巡検御廻国使御案内手鑑』には、一宮大明神、蔵王、愛宕、御嶽山の四社を記している。」
③ 同書、「寛文五年(1665)『伊南郷村々改帳』には宮沢村の社として一宮神社と蛇王権現をあげている。「蛇王権現は、他の資料にみえる蔵王権現のことであろうか。蔵王を蛇王と書いたかと思われるが、あるいはもともと蛇王であったものが、蔵王となったのかも知れない。」とある。
1665から1804までの約140年間に記録上でも多くの変遷があり祭神についても判断が難しくなっている。まず『新編』の記事に祭神が不詳となっていることが驚きだし、稲荷神が『新編』にだけ記録され、それ以前にはないのは稲荷神の流行の時期を物語るのだろうか。単独の社としての蔵王(蛇王)、御嶽山が消えていく過程も現れている。蛇王と記された時代は、雨乞いや水害との関係をもつ原始的な神かと思うが、蛇王→蔵王→石神と変化するとすれば、次第に抽象的になっていく。さらにいくつかの伝承を比較すると、ますます混迷してくる。
④ 『伊南村史』民俗編に引く『一宮大明神略縁起』には、老翁に変じた御嶽権現が東へ下ってきた高倉親王を出迎えたおりに、一宮の称を名乗るようにと言われたことに由来する。それは高倉親王が、長く上州一宮大明神を守護したことによるという。
⑤ 安藤紫香著『会津における 高倉宮以仁王』には、
「尾白根の里におつきになり、村司権蔵宅にお泊りになった。その夜、以仁王の夢枕に白髪の老翁が現れて、(われは上野国抜鉾大明神から一の宮老翁となって、宮の道中を守護してきたが、これからの旅は安全と思われるので、上野にたち帰る)といって雷ヶ原の大杉より昇天してお帰りになった。」この時から尾白根村は杉岸村と改め尾白根より流れる沢を宮沢と呼ぶようになり、里人はいつしか杉岸村を宮沢村と呼ぶようになった。(中略)香取神社は、十一面観音菩薩で祭神は抜鉾前尊、抜鉾大明神で仏神両部を祭る(ママ)郷社であって元は尾根梵天にあり(中略)尾白根山東光寺と呼びそののち今のところに移し」とある。
これは桧枝岐に伝わる『家宝記』という資料の記事を主にしたものだそうだ。
④と⑤では老翁と以仁王の役割が逆になっている。④では以仁王が上位にあり、出迎えの御嶽権現に一の宮の称号を与えるのに対して、⑤では抜鉾大明神が以仁王の上位にあり、宮を守護してきて自らの判断で上州へたち帰る。太字部の老翁に変じる神、守護、一の宮というモチーフの共通性から、古い方を参照して新しい方が作られている形跡がある。④の「老翁に変じた御嶽権現が東へ下ってきた高倉親王を出迎えた」の部分は、上州から来た神ではなく在地の神が、天孫の裔である以仁王から、尾白根山の御嶽権現に一の宮の称号を下賜される形であり、御嶽権現は経津主大神の武神の属性を加えられて、この地に残る。しかし⑤では親王の旅を助けてきた抜鉾大明神は上州へ帰り、一の宮を祀った後には以仁王もこの地を去る。この比較から考えると、伊南郷にとってより身近で、祭祀の維持と継続に有益と思われる④の伝承が⑤の伝承を踏まえて後に作られたと考える。ただ⑤で夢枕に立った神が、「われは一宮老翁となって」と不自然な自己紹介する部分は④ができてからそれに付会した後世のつけたしだろう、意図的に伊南郷一の宮と上州一の宮の混同を誘っていると思われる。
⑥ 『郷土研究』第三号の上町閑人氏の稿、「貫前神社」には、若い時に旅行でたまたま参拝した上州一ノ宮の思い出と、その後村の寄り合いでの不思議な符合を綴り、
「或時郷土の神社の話が出た際、阿久津神職から、貫前神社は武神を祀る御社であり宮沢の香取神社は実にこの神社(註:上州一の宮貫前神社を指す)より勧請奉ったのであると承り 云々」と述べている。
⑦ 同書第五号の河原田徳作氏の「伊南郷土史(五)」では、伊南郷を領した河原田氏の系譜を書いていく中に、
「三代式部太輔盛信 弘安二己卯年(1279)中山館主河原田景信を上野一の宮貫前大明神御分霊を請い金幣を棒持して帰り一の宮と号す。今宮沢香取神社である。神田宝刀其の他を寄進し、城地鎮護の氏神と祀り、伊南郷の惣鎮守として尊崇し(後略)」と記される。
明治以降の名称である香取神社が使われていることから、後半は著者のまとめたものかもしれない。しかし河原田氏が武神である貫前大明神を奉斎した経緯は最もわかりやすい。著者河原田徳作氏の郷土史に対する篤学なことは大変なもので、この記事の出典が「伊南郷土史(一)」冒頭に挙げてある多数の古文献のどれなのか、私にはわからない。先学者のご批判を仰ぎたい。

⑤の伝承を伊南郷向きに書き換えたとして④を除外し、⑤から⑦までの伝承は、香取神社の勧請元が上州一ノ宮貫前神社である方向で一致する。祭神経津主大神は下総一の宮である香取神宮と同じだが、経路が推定できてくる。出典については検討を要するし、結論めいたものは出せないが、前章01で見たように上州を強く意識していることは感じられる。
また⑦の後半部「城地鎮護の氏神と祀り、伊南郷の惣鎮守として尊崇」が、著者の著述か、古文献の引用か、香取神社という明治以降の名称を使っていることで、信頼性は低いものの、上州一の宮(武神)を自らの氏神として迎え入れたいと考えた、河原田氏の伊南郷以前の根拠地がどこにあったのかを問い直すことは無駄ではないだろう。
下野に根拠地を持つ小山氏の同族であることから、出自はその地であったとしても、現代社会の転勤のように最短距離を移動していけるわけではなく、幾世代かをかけて移動している場合もありうる。関東北部から会津の南山(ほぼ南会津郡)に同族を進出させるという企図であれば、長沼氏と河原田氏がともに下野街道を北上すると考えるのは自然ではない。どちらが後先かはともかくとして、より支配下に置くことが容易な、同族の手の入っていない土地を目指すほうが自然なことに思える。
宇都宮を経由して北上する下野街道と、東山道(中山道)沼田を経由して西から伊南郷に入る上州街道の比較検討は、今後の課題として興味深いものを含んでいる。河原田氏と長沼氏は同族とはいいながら、領地の境界においては常に争いをしていた。双方の初代が兄弟ということだが、⑦の貫前大明神勧請の伝承は三代式部大輔盛信であることから、この時期には武神を奉斎する事情(戦)がでてきたとの推測は可能だ。
ここでたびたび出てくる上州一の宮が、貫前神社、抜前神社 抜前抜鉾神社と様々に表記されていることについての参考となる手引きとして谷川健一著『白鳥伝説』からの孫引きをしておく。
「群馬県富岡市一ノ宮にある貫前神社は抜鉾神社と、もともと別個の神社で、それがのち合体したものである。尾崎喜左雄は『上野国の信仰と文化』のなかで、貫前神社の鎮座後に、近くにいた物部がその祀る神を鎮座し、それにヌキサキに通ずる抜鉾という名称を付したのだと推定している。貫前神社は物部が甘楽郡へ発展する以前の渡来人の神であり、抜鉾神はその後に、物部によって祀られた神であるとするのである。」(289p)
ということらしい。現在は貫前神社であり、別名を抜鉾神社としている。祭神は経津主神で相殿神が姫大神となっているが、姫大神については養蚕機織の女神という説、稚日女尊(太陽神=天照大神)という説などがある。
弘安二年(1279)の「河原田景信を上野一の宮貫前大明神御分霊を請い金幣を棒持して帰り一の宮と号す。」の説をとるなら、一の宮香取神社の祭神に経津主神が加えられたのは、その時と推定できる。治承四年(1180)の事件から始まる以仁王伝承の付会もこの神の奉斎と関係づけて考えることができるのではないだろうか。
『伊南村史民俗編』「オジラ山信仰」に
「オジラ山の最初の信仰対象は中嶽・上嶽・下嶽を中心とするオジラ山の神、すなわち山の神であろう。これに仏教が関り、中嶽に観音、上嶽に薬師、下嶽に地蔵が当てられて神仏が習合化される。その祭祀に当たったのが東光寺なのであろう。東光寺はオジラ山神の別当であったと思われる。他方、オジラ山神を祀る施設には、中嶽に当てられた観音が神体・本地仏として祀られ、これがのちに一宮神社になるものと思われる。」とし、この三嶽を三梵天、御嶽山と称したという。また東光寺の本地仏は下嶽の宝雨地蔵で、十一面観音とともにオジラ山の信仰の中心は水を司る神であろうとしている。③にある一宮神社の蛇王権現、蔵王権現についての言及はない。
先に、変化か作為か、として退けた伝承④だが、そこに登場する神の序列には大事な点がある。都から落ちてきた以仁王を迎えに出た御嶽権現は、その時代における当地最上位の神とみてよいから、④伝承時の一の宮信仰は御嶽権現ということになる。ゆえにこの時点では水を司る御嶽権現が伊南郷一ノ宮だった。以仁王の「一の宮をなのるがよい」という一言(託宣)によって、御嶽権現に上州一の宮貫前神社がかぶせられる。まるで出雲の国譲り神話のような、水神から武神への祭神の変遷が、伊南郷において行われたことになる。遠い記憶が幻のように訪れ、新支配者と被支配民の歴史は繰り返される。それは他の多くの郷でも行われたことだろう。在来の信仰への政治の介入により、郷民の反感をかわずに祭祀を継続するために新しい神話が必要となるケースだ。
①の「河原田氏が深く崇敬」、⑦の「城地鎮護の氏神と祀り」から『新編』の「祭神詳らかならず」までの間に、尾白山の水神信仰に経津主大神をかぶせて武神とした河原田氏の盛衰を見るように思う。河原田氏が滅んだ後の祭祀からは、経津主大神の要素が薄れ、郷民の意識が元の山神や水神信仰に戻っていたと考えないと、近世の「祭神詳らかならず」の謎が解けない。小塩村は旧二月二十五日に尾白山頂まで、三尺あまりの大梵天を中嶽に奉納し法印が祈祷したというが、この祀りの形式が雨乞いなどに発するものなら上記の説を補強する。そう考えたいのは郷民の尾白山、御嶽信仰のしたたかな持続に拍手を送りたいからでもある。
観光絵葉書を買ったことのある、日光の神橋にまつわる伝説「山菅の蛇橋」は、勝道上人を助けて大谷川に橋を架けた蛇王権現で水神、毘沙門天の垂迹という。伊南郷の御嶽山神も個人的には蛇王であってほしい。舘岩村押戸に蛇神を祀ったと伝える熊野神社相殿神のダイジャ山がある。これには大社が訛ったか、という村民の推定があるが『新編』は「蛇神を祀る」としている。寛文期の蛇王権現が蔵王のことなのか、誤記なのか、ということの事実関係も気にかかる。ジャオウ→ザオウはおおいにありそうな転訛だからだ。(03へつづく
