古代妄想 伝承 地名 歴史 -27ページ目

古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

 「寛文五年(1665)『伊南郷村々改帳』には宮沢村の社として一宮神社と蛇王権現をあげている。」(『伊南村史民俗編』信仰)とあり、「宮沢の神社は延享三年(1746)の『御巡検御廻国使御案内手鑑』に一宮大明神、蔵王、愛宕、三嶽山の四社を記録」(同書)、文化六年(1804)の『新編会津風土記』には一宮神社の祭神を不詳とし、相殿に稲荷と石神と記録している。昭和55(1980)『伊南村近代百年史』には、それ以外に宮沢字七久保にある金峯神社を紹介している。これらの記録はいずれも公的記録であることから信頼できるものとし、その移り変わりが、誤記や聞き落としと考えずに、理由を妄想してみるのも面白いかと思い試みてみる。

 

神社や祭神には時代や生業よって、はやり廃りがあり祭祀の解釈もそれに従って変わっていく。居住地の結界を守る神が道中の安全を守る神になったり、特定の産物を司る神がすべての産物に拡大解釈されたり、部民の移動によって神社自体が忘れ去られたりする。しかしその痕跡は、伝承や地名を様々な視点で見直すことによって拾い出せることもある。それが見つかることを期待しよう。

 

前章(02 くる神・いた神・まつる人)でみてきたことに従い、一宮神社の名称と抜鉾大明神(布津主神)は河原田氏領有時代に上州から運ばれたと考え、それ以前の祭神の姿を復元してみる試みだが、至らない点も多いと思われることをご容赦願いたい。

 

 蛇王権現は、日光開山伝承の勝道上人を助けて大谷(だいや)川に橋を架けた伝説の神で水神であり、毘沙門天の垂迹という。深沙(しんじゃ)(おう)堂(蔵王権現堂)に祀られる。また遠く離れた、香川県西部の四国霊場第七十一番札所弥谷寺は弘法大師と蔵王権現の縁起を伝えるが、蛇王権現(深沙大将)として祀られるものは、蔵王権現と役の優婆塞の結びつきをあらわす初出の『今昔物語』の成立よりも以前の平安時代中期に製作されたことがわかっている。これは一般的な蔵王権現とは像容が大きく違い、「炎髪から姿をあらわす七匹の蛇形」と「蛇の巻き付く」左上腕部を特徴とすることが報告されている。(『宗教研究』2016年89巻「蔵王権現と蛇王権現:四国霊場七十一番札所をめぐって」)https://www.jstage.jst.go.jp/article/rsjars/89/Suppl/89_KJ00010163782/_article/-char/ja/

 

この像容は日光の深沙王堂のものによく似ている。

 

お借りしました!必ずお参りします!
 

 そして四国の弥谷寺には戦前まで弥谷参りという習俗があり、これは「死後間もない死者の霊を背負って弥谷に参る」(同前掲書)というもので、原始的な山岳信仰の形を残しているように思える。蔵王権現と役行者の文献記録より古くからあって、それ以前の原始山岳宗教の象徴とも思われる蛇王権現像の存在は、宮沢一の宮の蛇王権現が蔵王の転訛ではない可能性を高くする。

同時に蛇王像と『今昔物語』の成立の約一世紀の間かそれ以前に日光の蛇王権現の奉斎と伝播の時期を考えることもできるように思う。そして蛇王権現の性格が「弥谷参り」に通じ、宮沢における蛇王権現の性格にもそれが適用できるのであれば、ここに古代山岳信仰の原型としての尾白山の姿を垣間見てもよいのではないか。

 

 祭祀の形態はともかく、死者の霊を山上へと導く信仰が戦国時代か近世初頭までは残っていたことが推定できる。近世中期までには、蛇王権現は蔵王と通音であり、ともに山岳信仰である蔵王権現へと入れ替わっている。宮沢一の宮はもと小白根山東光寺という天台宗の寺であったという『里雑交』の記事があり、さらに同書に、寛文十二年の神社改めの際に、会津藩の勧めである唯一神道(吉田神道)に従わず、両部神道(神仏習合)を通している(『伊南村史・民俗編』)と書かれているのも、祖先の霊を祀る祭祀の意味を固持したと考えれば納得がいく。

 

 蔵王権現の正式名称は金剛蔵王権現、または金剛蔵王菩薩である。中世に金剛蔵王権現を奉じて日本中を渡り歩いた修験者たちがいた。

 

「中世に大峰修験道が仏教には存在しない仏、金剛蔵王権現を祀ってから出た名前で、中世というから、鎌倉、室町の頃だろう。金剛蔵王権現が祀られた山を金峰山というので、金剛蔵王権現は金峰蔵王権現とも呼ばれた。」(谷有二『山の名前で読み解く日本史』)

 

 
宮沢大字七久保の金峯神社はこの時期に祀られたものかと思われる。群馬県片品村から日光へと通じる金精峠などの金精(摩羅=男根)信仰などとも関係するのかもしれない。金精峠には奈良時代の怪僧、道鏡の伝説などが脚色されて付会されているが、陽石(男根石)信仰の起源は縄文時代から続くもので、金精信仰も関東から東北にかけて多いものだ。
 

 次に御嶽山(三嶽山)を見てみよう。ミタケは様々に表記されたり読まれたりする普通名詞に近いもので、郷や国ごとの第一とされる山はミタケである。木曽御嶽山(おんたけさん)、武州御嶽山(みたけやま)(金峰山)、吉野の金峰山は(かね)御嶽(みたけ)ともいわれ祭神は金山彦と金山姫である。なぜそれが地域第一なのかはさておき、これらに共通するのは採鉱との繋がりだ。修験者は山の道と地質や植生に通じた探鉱者でもあった。修験者の活躍は中世が顕著で、山名に反映しているのはその時期のものが多いのかも知れない。

 

しかしそれより千年以上前から鉄をはじめとして金、銀、銅、亜鉛等々の地下資源探索者は存在していて、文字通りの錬金術を発達させていた前記事「荒さがし」など)。私は修験者が探鉱者であることを否定するのではなく、むしろ積極的にそう思っているのだけれど、より昔の、仏教の衣を着る以前から、そのような者たちは活躍していて、むしろ政治の荒波に乗って生き延びていく術として、修験者のようなものになっていったと考えている。すべての修験者が宗教者であり教養人であるとも思わない。大多数の修験者は、むしろ順応性が高く、真の意味で知的であると同時に、狡猾な面も持った、自然を生きる力にできる生活者だったと思う。

 

ミタケの名で呼ばれていた山に金峰がかぶせられたのかどうかはわからないが、ミタケが必ずしも鉱山地帯ではないところにもあることから、より古い呼称はミタケだろうかと思っている。三尊形式にしていった(三嶽)のは更に後のことだろう。

 

延享三年(1746)蔵王、愛宕、三嶽山が記録されているのに、文化六年(1804)には消えて、稲荷と石神が出てくる。これをどう考えればよいだろう。村史は「石神は三嶽山であろうか。」と迷っている。当初の鎮座理由が失われ、鎮座の意味も曖昧になっていることが伺われるが、神の属性を考えれば鉱山神の蔵王権現も石神となり得る。双方をまとめたものかもしれない。

04に続く