一の宮が鎮座する宮沢集落は尾白山の東南麓にある。同じ伊南川左岸の尾白山北東麓にある小塩集落も尾白山信仰の篤いところのようだ。小塩という地名は、当地では舘岩村精舎ショウジャでもあった発音で、「コシュウ」となる(前記事「塩(ショウ)参照」)。字面通りに考えれば塩水の湧出する場所となるだろうが、今のところそれを匂わせる伝承には出会っていない。コシュウの発音に対する当て字と考えると、田島町に針生、藤生、栗生沢、下郷町の塩生、舘岩村の八総、助木生、角生、左惣、二字符、と同じ命名法か。並べると地域的な共通性はあるようなのだが、肝心の「法」がわからない。同類の地名を集めていくうちに突破口が見つかることを願っている。(針生については、蘆名氏の家臣に針生氏がいることを知った。蘆名、山内、長沼、河原田の四家はそれぞれの家臣を環流していこともあり、針生の地名は針生氏由来かという選択肢ができた。)
小塩には元徳三年九月(1332)と記銘のある梵字で三尊をあらわした板碑を神体とする山神神社があり、鎮守は諏訪神社で、両社ともに寛文時代の古風土記にも記録される。さらに諏訪神社の相殿神に本村より移したとされる伊勢、稲荷、星宮がある。この星宮が、諏訪神社の相殿とされる前に祀られていた様子が『伊南村史・民俗編』古文書・寄稿の章にある伝承に登場する。
昭和七年生(1932)、佐藤 常氏の「小塩部落の薬師様」という寄稿で、佐藤氏が語り部だった祖母からの小昼の話を回想したものだ(小昼とは仕事の休憩時間のこと、方言「イップクシペヤア」とあらわされていて嬉しい)。
(要約)この薬師様は、もと祀られていた諏訪神社奥の堂の沢のお堂が焼けた時に、村人が焼けかかった像を救い出したもので、焼け焦げ薬師様ともいわれ、小塩の「上の家」、屋号「清水屋」に安置されていた。この家では働きすぎて目の見えない人がおり、この薬師様を奥座敷に祀り、庭先の奥には星宮を祀って毎日のように礼拝していたところ、眼病が治り有名になったので、人々が毎日のように祈願に来るようになった。特に眼病を治す願掛けに来る人が多かったという(ここに星宮が出てくる)。尊像は紆余曲折の末、現在は村の墓所入口のお堂に安置され、堂の沢薬師如来と崇められている。また現在のお堂には尾白山から下って来たとも言われる「南無薬師瑠璃光如来」も新しく奉られている。この薬師堂も『新編』に記載がある。
情報が多い伝承なので項目を整理してみる。
①星宮が「上の家」、「清水屋」という屋号の小塩の有力者の家神だったこと、
②この家には「働きすぎて目の見えない人」があったこと、
③眼病平癒の願掛けが薬師様と星宮の両方にかけられていること、
④本来の安置場所は諏訪神社奥のお堂であること、
⑤南無薬師瑠璃光如来が尾白山の信仰と関係すること。
また要約では略した「紆余曲折」の部分では六部が薬師如来の安置に関わっていることが示されている。原文は六分とされ、十全ではない者、村に住みついた半端者や、乞食から行者までの複数を指していて煩わしいが、当時の「行者」についての認識がよくわかる。①の星宮から③で薬師様へ、さらに⑤の如来様へ信仰対象が移っていく。一見雑然としているこれらの情報には、「清水屋」を中心とした、採鉱民に関わる情報が多く含まれている。
栃木県栃木市平井町の大平山神社の主祭神は、ニニギノミコト、アマテラス、トヨウケビメの三神だが、「当初の祭神は月日星の三光天子で、本地虚空蔵菩薩」(『角川日本地名大辞典』)として祀っていた。また『御鎮座略記』には、垂仁天皇の御宇、三輪山(現大平山)にオオモノヌシとアメノマヒトツが鎮座したことに始まるとされ、本殿脇の星宮神社はイワサクネサク、アメノカガセオの二神を祀る。ここに伝わる天目一箇神は製鉄神であり、製鉄炉の炎(温度)を見続けたために、片目の視力を失う製鉄の親方を比喩している。「働き過ぎて目が見えなくなった」神で、②に対応する。
星宮神社の祭神、磐裂根裂神は、古事記ではイワサク神、ネサク神とそれぞれ独立しているが、この神々はヒノカグツチ(溶解した鉄)を出産した際にイザナミが死に、悲しみのあまり怒ったイザナギがヒノカグツチの首をはね、その剣の切っ先から落ちた血から生じた鉄製利器の神である。アメノカガセオは、またの名をアメノミカボシともいい、日立市大甕神社の祭神で、この社には田島、舘岩、伊南に伝わる「育ち石伝説」もある。
この神については星の輝き(カガ)、金星、北極星など諸説ある。しかし「輝き」を相殿の磐裂根裂神と繋げて考えるなら、溶鋼炉内の眼を射るような輝きがより相応しい気もする。タタラの炉は上から木炭と砂鉄を交互に投入し、溶解した鉄は炉底に塊となっていくが、炉内の色で温度を測るために炉体にあけられているホド穴(のぞき穴)は、離れて見る者には輝く星に似ても見えるだろう。「三光天子で、本地虚空蔵菩薩」とある虚空蔵菩薩も、金星(妙見)の化身で鉱山神でもあり、会津柳津の福満虚空蔵菩薩は同町の軽井沢銀山と対応している。時代により祭神は変われど、カガセオと虚空蔵は同じ信仰をあらわしている。境内社の三輪神社は縁起に記される三輪山(大平山)を祀るもので、オオモノヌシとともにスクナビコナを祀る。スクナビコナは高天原のカミムスヒの指の間より地上に落ちた、とされるとても小さな神にもかかわらず、スクナビコナが黄泉の国へ去った際に、オオクニヌシがスクナビコナなしでは国造りを進めることができないと嘆いた神だ。この神を砂鉄の比喩だという説にはとても魅力を感じる。(吉野裕『風土記世界と鉄王神話』など)このように大平山神社には、出雲の製鉄神が揃っている。これらのことは、この神社の祭神が製鉄神であることを示している。
大平山神社の所在地は、栃木市西端部で南に関東平野を一望できるところにあり、西には足尾銅山があり、北には日光山地を背負う。男体山における製鉄については以前触れた(前記事「祭神と伝承その3」など)。真弓常忠著『古代の鉄と神々』にも詳しい。中世伊南郷を領した河原田氏の出自とされる小山氏の勢力下にあったと思われ、小塩の「上の家」の屋敷神はこの星宮神社が運ばれたと考えるのは自然だろう。諏訪神社も、諏訪神社祭神のタケミナカタは『御鎮座略記』にあるオオクニヌシの子、出雲の武神でスサノヲの孫にあたり諏訪の地とともに製鉄とゆかりの深い神でもある。
これらを踏まえて改めて「小塩部落の薬師様」を見直してみれば、「上の家」が採鉱部民の親方であり、星宮はその部民神で、鉱山師の家神として祀られたと推定できる。諏訪神社は鉱山集落の鎮守として祀られていたのだろうが、これが河原田氏によるかそれ以前かはわからない。この鉱山神の信仰は、神仏習合の習いで時代とともに祭神に薬師が加わり、さらに瑠璃光如来も加えられた。と読むことができる。
小塩鉱山は近世から昭和初期まで繰り返し採鉱されていて、近世初期から度々鉱石採掘による流域汚染をめぐって、下流で南隣の青柳村と争ったことが村史に記されている。この近世の採鉱意欲は執拗と言ってもよいほどで、この集落に採鉱部民であったことの記憶が、延々と刻まれていたと思わせる。南会津町のホームページ尾白山山開きのルート紹介地図には、北麓の滝倉沢川支流に金山沢の名が見える。もちろんとうに採鉱の時代は終わっている。現在はご多聞に漏れず過疎の農村なのだが、昭和の「最盛期には坑夫及び雑役に就労していた人は有に三百人を越していた」(『伊南村史・民俗編』鉱山)。
伊南郷土研究会編『季刊 郷土研究』第三号に、加賀谷土星氏による「金山なる地名のゆかりを探る記」という一文がある。(この筆名、偶然にしても、姓がカガで名が星なのにびっくり!)
「大字青柳部落西方約七、八町を距てる処に、地名「金山」と呼ぶ山地あり。(中略)往時、金、鉄など掘り出せし処なるか、然らずんば湯を吹きし処(精錬した場所)でもありぬべしと思い立ち・・・」という動機により、通りがかりに現地の住民(「大先生」と記すところから友人だろう)を無理に道案内に加えて現地を踏査した、ユーモアと批評精神に満ちた貴重な記録となっている。踏査の結果は、
「山頂に至りて、ところどころ焼けて暗褐色、或は褐色となれる岩見えたり。此の岩は、所謂、石英粗面岩にし岩脈をなすものの如く、周縁には明らかなる溶岩のままの姿現すもの有りて、ガスの抜けたる跡(気孔)無数の孔となりて奇抜なり。又これにベニガラ(赤鉄鉱)色など付着し、さながら「カラミ」(溶鉱炉で鉱石を溶かして吹き分ける場合、滓となって出るもの)を彷彿するものあれば、蓋し人の目には鉄のとろけたる類にも見ゆるらん、これ正に金山の名のゆかりとぞ思いけれ。」
また大正時代の試掘孔に入り、「此の坑は石英粗面岩中石英質の優れたる処を掘りたるものの様にて、特に乳白色、黄褐色、魚の卵の如き結晶の石英質に富める部分を掘りたる処などは、正に含金石英脈ではあるまじかと目に映りたるものぞかし。」と、次第に枕草子を思わせる雅文体になりつつ、地質に対する造詣と鋭い観察眼を披露している。結論としては石英粗面岩の発達している処に金属鉱床の胚胎することはあるが、踏査箇所にはそのような兆候はなかったとしている。
この記事中興味をひかれた事に、金属精錬の現場用語が出てくることがある。「湯を吹きし」、「カラミ」(鉱滓)などで、これが加賀谷氏個人の職業的な語彙なのか、当時の地域の生活知識として一般的なものなのかはわからないが、後者だとすればとても興味深い。
溶解した金属を「湯」と呼び、目的の金属を精錬することを鞴に象徴して「吹く」と呼ぶのは、はるか古代からのことで、地名にも滋賀と岐阜にまたがる伊吹山の神は『古事記』にヤマトタケルを苦しめたことで有名で、天目一箇神を祀る南宮神社がある。岡山県高梁市吹屋地区、同津山市吹屋町、会津若松にも一箕町吹屋山(石ケ森金山)などや、氏族名では伊福部氏にもみられるものだからだ。それらは銅山(採鉱)や製鉄、鍛冶、鋳物師に深いゆかりのある地名や氏族である。会津の湯田、弓田姓や「湯」地名にも興味を覚える。伊南郷でこれらが日常の言葉として使われていたとすれば、身近に採鉱冶金が見られていたことになるだろう。
大正三年(1914)ごろの南会津郡の鉱業を記録している『南会津郡誌』には、試掘出願箇所が一覧表になっている。伊南郷の大川村(内川から大桃までをまとめた村)と旧伊南村を合わせた範囲に60ヶ所の試掘地があり、宮沢(14ヶ所)、小塩(15ヶ所)、青柳(10ヶ所)の三集落に集中している。前出の小塩、滝倉(沢)入(入りは奥)、小塩鉱山(金、銀、銅、鉛)が採掘。他には多々石入で多々石鉱山(金、銀、銅)、内川で大原鉱山(金)が採掘している。宮沢入は尾白山麓なので尾根一つで小塩鉱山に近いと思われる。
「・・・本郡は栃木県足尾地方と相距る遠からずまた銅鉱の存するもの少なからず銅に次ぎては銀、鉛、亜鉛、金、鉄等の存在するを見る。其の他石油、石膏、石灰、岩塩等を産し・・」
「・・・試掘出願を為したる鉱業権者二百余人、鉱区ヶ所約三百か所に及び(中略)然れども事業化にして克く大規模計画の下に採鉱精錬を為すものなく、何れも粗鋼物にて搬出する・・」(『南会津郡誌』)。
試掘と言っても、数人で見当を付けた場所を手掘り(狸掘り)することが多かったようだ。
この試掘願いの採鉱権者は東京、大阪、栃木などがほとんどである。日露戦争も鉱山開発を後押しして、近代のゴールドラッシュの感もある。富国強兵の国策に乗って、資本家、山師とその配下が、欲と二人連れで跳梁跋扈していただろう。似たような光景が、中世にもあったと思っている。
戦国時代の甲斐武田氏を支える甲州金を産出した山梨、埼玉の国境にあった黒川金山も、全体としては大規模だが、それぞれの坑穴(間歩)を請け負う「組」がいくつもあって、組自体の規模は大きくない。親方と一族の者(マキ)で作られていたようだ。小塩の「上の家」もそのような鉱山師だったことが思われる。前章「伊南郷一の宮信仰の姿」にあげた宮沢字七久保の金峰神社も小塩と同様に採鉱民の一団によって信仰されたものかもしれない。
明治末から大正時代の採鉱も、まだ小規模で採鉱技術も機械化していない。知人の母は戦後金堀りをしたことがあったという。この時期の鉱山労働やその文化と信仰が記録されたものがあれば面白い。


