多々石の地名は何に由来するのだろう。『新編会津風土記』には、もと只石と書いたとありタダの音を保存することに重きを置いた地名と思われる。神武天皇の后、セヤタタライスズヒメ(日本書紀)、また大和の三輪山にオオモノヌシを祀って疫病を収めた時に、神託によって祭祀者となったオオタタネコなど、タタラやタタの音は採鉱民との繋がりを思わせる。
同書、神社は日光新宮・祭神三穂津姫、日光瀧尾神社・祭神味耜高彦根、斎宮・本村より遷せり、日光本宮・祭神大己貴、於佐乃波幾神社・祭神鹿葦津姫、相殿・山神とある。
多々石入(奥)大内沢には戦前から戦中に採掘した多々石鉱山があり、日光二荒山神社を模して三神分立形式で祀っている日光神社もある。アジスキタカヒコネを祀る日光二荒山神社については前記事でも触れたのと(「祭神と伝承その三(古布)」など)、採鉱民に関することがらは多く、他の文化と同時に進めると論旨が錯綜したり、重複が増えたりしてしまうので、この稿ではそれを避けて、伊南郷でも独特の個性を持つ「斎宮大明神」と、鎮守である「於佐乃波幾神社」にフォーカスしてみる。
前記事で田島町、荒海川流域の鷲神社を取り上げたが、(「鷲(オオトリ)もの」)来し方も行く末も不明で、全くの空振りに終わった。しかし、伊南村多々石の斎大明神を紹介した記事に、その影を僅かに見出せるかもしれない。「斎宮大明神」と彫られた石碑と、『里雑交』(宝暦十一・1761年)に記されているという「斎院大炊助 是は当谷最初の家にて、爰に住居年久しく河原田以前の家とかや」という近世の記録をもとにした妄想となる。
中世以前から多々石に居住したという斎院だが、斎という小字地名を残し、祭祀と関連しそうな名を持つにもかかわらず、日光三社との関りも、この人物がどんな神を祀ったかを知る伝承も無い。伊南郷は中世に河原田氏によって区画された、通称「伊南ノ町」(古町地区)と呼ぶ氾濫原の城下町を中心として発達するが、多々石は古町の東、一段上の斜面にあり、小滝川北面の比較的ゆるい南西向き斜面で、郷を一望する地勢にある。また箕輪峠(古くは駒止峠ともいった)によって北東の田島町と通じ(会津若松方面)、又同峠の枝道により舘岩村森戸へと通じる(下野街道最短路)要路でもある。背後に広大な山を抱えることからも、中世以前の郷祖ともいうべき村だったことは容易に想像される。

田島町の鷲神社の祭神アメノヒワシは阿波忌部の奉斎する神であること、阿波忌部は天皇の祭祀に使う麻衣を納めてきたことなど、は前記事(「鷲(オオトリ)もの」)で辿った。この忌部氏は、平安期には、読みはインベのまま斎部氏と名を変える。斎院が斎部からきた名称であれば、田島の多くの鷲神社と同じアメノヒワシを奉じていたと考えられる。さらに、この仮定が許されるなら、斎院が安房忌部の職掌であった麻織物や麻栽培を伝えたとも想像できる。中世から近代まで、伊南郷の経済を支えた重要な産物に麻織物があり、斎院を麻産業の伝達者と考える時、『村史・コラム』が神に祀られた理由として記す「この谷の特筆すべき長であり」の具体的なイメージが浮かんでくる。
文献では平安末期に伊北の麻布を詠んだ和歌があり、下野の麻布は正倉院にも現存するそうだから、下野との距離感もごく近いことから、初めて伊南郷に多々石村を起こした斎院大炊助が忌部の北上の最端部にいて、下野と伊南郷を麻文化で結び、麻布文化を伝えたと考えると、平安期の伊南郷が立体感を持ってくる。
妙義山塊の夜明け(だったかな?)
このあたりからさらに妄想が進む。忌部ならなぜアメノヒワシや鷲神社ではないのか?管見によれば、鷲神社の足跡は関東を北上してきて田島町あたりで途絶える。太平洋側を辿っても相馬あたりで途絶える。このことを理解するためにどのような状況が考えられるだろう。
状況の一つに蝦夷との力関係を想定してみる。奥州藤原氏が滅ぼされるまでの東北北部は、まだ完全に朝廷の支配下にはなかった。鷲神社の北上が朝廷の施策と強く関係するものであれば、その最前線には勢力の拮抗する境界線ができる。斎宮は時代の変わり目にその線上にあったと考えてみる。このことからは南会津地域での鷲神社の鎮座の時期を平安末期以前に置くことができる。しかしこれは名称が鷲神社でないことをうまく説明できない。
そこでもう一つそれより少し時代を遡って、忌部氏自体の盛衰を持ち出してみよう。『古事記』の天の岩戸の場面で、「布太玉命ふと御幣と取り持ちて、天児屋命ふと詔戸言祝ぎ曰して・・・」この後にアメノウズメの舞踏が始まる。ここに出てくるフトダマが忌部の祖、アメノコヤネが中臣氏の祖で、双方とも司祭だがアメノコヤネがより重要な役割を担う。
同じ場面を『日本書紀』では次のように記す。
①「相興に致其祈祷す。」(両神同等の役)、
②一書「忌部の遠祖太玉には幣を造らしむ(中略)中臣の遠祖天児屋命、即ち以て神祝き祝きき。」(幣帛を作るのがフトダマで、祝詞を述べるのがアメノコヤネ)
③一書「乃ち忌部首の遠祖太玉命をして執り持たしめて、(児屋命が)廣く厚く称辞をへて祈み啓さしむ。」(神器を捧げるのがフトダマ祝詞を述べるのがアメノコヤネ)、その後「(スサノヲ追放を)乃ち天児屋命をして太諄辞を掌りて宣らしむ。」(高天原の神の勅をスサノヲに命令するのがアメノコヤネ)。
これらは、中臣氏の台頭により、古くから朝廷の祭祀を司っていた忌部氏と中臣氏との力関係が反映された場面と言われている。大化以降、神祇を担う中臣氏から、政治を担う藤原氏が分かれて、祭政を独占していくのだが、忌部氏衰退を反映したのが斎宮と考えるなら、おおよその時代を推定できると同時に、鷲神社自体が、それを奉斎する氏族と共に北上する推進力を失い、斎院も撤退したと考えれば、斎宮が鷲神社ではなく斎院大炊助個人を祀った理由として考えることはできる。
その他に河原田氏が伊南郷に入ったことによる、先住の斎院との争いも考えられるが、それは太平洋側の鷲神社も北上停止する理由を説明しない。伊南入部当初は長沼氏との関係も悪くなかっただろう河原田氏が、田島町(長沼氏領)には多く祀られる鷲神社を強いて排除する理由も見当たらない。河原田氏にも麻布の生産は必要な産業だったろうから、その長を河原田氏が武力を背景にして勢力下に抱え込むことは難しくなかっただろう。斎宮大明神碑の建立は後のこととして、「斎」の地名が残っていることからも、斎院大炊助の居住を河原田入部よりもだいぶ古い忌部氏衰退の時期だろうかと考えるのが、今の到達点か。神社についての他の由来や伝承などが見つからないので、立ち止まっている。
村史コラムの「この谷の特筆すべき長であり」との指摘には概ね頷ける。最も偉大な神かもしれない。しかし、疑り深い性質の私は、偉大な事跡を残した権力者だから神に祀られる、という推定のストレートさに、僅かながら疑問を持ってしまう。
北野天満宮の祭神、菅原道真が学問の神になったのはいつ頃か、詳しくは知らないが、彼の神は雷を自在に使って絶大なる力を現す祟り神で、藤原氏に祟ったゆえに恐れられ、祟りを宥めるために祀られた。聖徳太子もその死後に、皇子の山背大兄王とその一族を蘇我入鹿に滅ぼされてからは、その祟りを怖れて、手厚く鎮魂(封印)されたのが法隆寺と夢殿(梅原猛『隠された十字架』)とする著作もある。
かつて衝撃を受けたのは、天皇が政治に復活する直前の慶應四年(1868)八月に、天皇位の継承争いに翻弄されて四国に流され、魔王となって天皇家を呪い滅ぼさんと念じて憤死した、といわれる崇徳上皇の霊を、死後七百年以上たってから、明治天皇の詔勅を持った勅使が行って還御を乞い、御輿に奉じて運び、都の新しい神廟に祀ったのは、戊辰戦争を直前にして、崇徳上皇の霊が朝廷軍を害することが無いように、との理由から行われた(谷川健一『魔の系譜』)という信じがたい事実だ。
崇徳上皇の場合はやや状況は違うが、このように偉大な業績を持つ人間が神とされるには、その死が普通ではないために、死後に恐れられるという要素がある。郷民の暮らしに確かな足跡を残した偉人が、悔いや恨みをのんで死んでいったとしたら、その後に起こる禍はすべて祟りとされるだろう。魂の安寧を願って神と祀らないわけにはいかない。古代の人々はそう考える。斎宮大明神碑に「神になった人」に共通する影の物語を空想してしまう。
新しいために『新編会津風土記』にだけ記録される多々石の鎮守である、於佐乃波幾神社も不思議な神社といえる。中世から重要な産物としていた麻織物の神として、筬剥氏を祀ったものとなっていて二つの文献が確認されている。一つは宝暦の頃(1751~1764)古町村の五十嵐氏が先祖を追善する掛け軸に「當所長 筬矧家尊霊等」とあり、もう一つは天明五年(1785)の古町市場再興願いに、「天正年中・・・古町之内に筬剥と申す人御座候て筬を剥ぎ家業に仕候・・」とある。(『伊南村史・通史』)比較的新しく祀られた神社が鎮守であることと、由来や伝承、記録が少ないことを不思議に思う。
筬とは機織りの経糸を反物の幅に必要なだけ通して、手元側に固定しておく竹製(現代は金属製)の道具で、例えれば抹茶を点てる時に使う茶筅のような割竹加工の、その何倍もの細さと精密さを要求される割竹を使う。詳細は知らないが、検索によれば筬の作成の最上級の資格試験では、手わざに1/200ミリという驚くべき精度を要求される。この竹材を細割りする工程のことを「筬を剥ぐ」という。対の語として「梭を掻く」(註:梭は横糸を通す器具。を削る)という形容もある。
絹糸用か?竹筬、400本以上ある
この「筬剥ぎ」を伊南郷では機織り名人の意と伝える。この二つは字義通りならば、道具造りとそれを使った作業で、別物なのは明らかで、果たして当初から「筬剥ぎ」=「機織り」だったのか、また仮にそうだとすれば、その用法が他の地域でもあるのか、今の時点ではよくわからない。二つ目の文献からは、筬造りを家業としていたと読める。柳田国男の「イタカ及びサンカ」(『柳田国男全集4』ちくま文庫)の中で、「『松屋筆記』巻六十五に曰く、関東にて筬を造る者を久具都と呼び平民おとしめ思えり、これ古の傀儡の類にて、住処不定の者筬を売りありきたるなるべし。その子孫民間に雑居するを賤しみて平民縁を結ばざるなり。陸奥岩城辺にてはこれを「筬かき女」と称す。」の引用がある。
この『松屋筆記』は文化末年(1818)から弘化二年(1845)ころまでの約30年間にわたり、古今の書物の記事を抜き書きし、考証・論評などを加えたもの。(デジタル大辞泉)ここでは引用がどの文献か不明なので抜き書きされた記事の時代がわからないが、江戸中期ごろに祀られた筬剥神社とかけ離れてはいないように思える。
『松屋筆記』の引用と、「イタカ及びサンカ」に従えば、この筬剥(矧)家は「筬かき女」と考えられる。優秀な筬を造り、自ら機も織ってその技術を伝えることで糊口を凌いでいた女性の姿が浮かび上がる。祭神が鹿葦津姫であることは祀られた者が女性だからだろう。「おとしめ思えり」、「雑居するを賤しみ」という境遇に置かれながらも、郷民が町に定住すること、「古町之内に筬剥と申す人御座候」を認め、その教えを乞わざるを得ないほど進歩的で高度な技術だったはずだ。その技術によって一つの地位を築いていたのだろう。イタカのネットワークにあったからこそ、高品質な竹材(西国に多い)の入手や加工に郷民の及ばない技術を持っていたとも考えられる。
二つ目の文献には在世時が天正時代(1573~1593)とあり、祀られた江戸中期までにやや空白の時期がある。この文献が群馬県浅間山の噴火(天明三年・1783)に端を発する大飢饉の直後に出された市場再興願いであることが気になる。伊南郷の人々は、餓死者五十万人ともそれ以上とも言われるこの大飢饉に「筬かき女」の祟りを感じたのではなかったかと考えてしまう。
優れた技を持ちながら、「筬かき女」という条件下に生まれた者が、その技を伝えることで郷を発展させた。前出の追善軸の文面には、子孫がいなかったことも記してあり、軸を作った五十嵐氏が弟子か養子かはわからないが「筬矧家尊霊」の文字には深い尊敬が感じ取れる。しかし一代限りだったとすれば、在世時の境遇が満足のいくものだったとは思えない。
筬剥家に以上のような状況を想定すると、賤しい身分の女性が持ち伝えた技術は、郷民にとって神の技であり文化であったといえるだろう。もちろん伊南郷が古くから麻布の産地として培ってきた潜在力を持っていたからこそ、この神が生まれたことは言うまでもないが。
やや妄想が走り過ぎた感があるが、このことはまるで、片目の神として祀られた採鉱民の歴史を、筬剥ぎに移行して再現したかのようだ。生業が運命的に抱える、漂白に従う人々の技術と文化の運搬、そのことによる定住民からの差別、ここでも神となる条件は似ている。
「イタカ及びサンカ」には先の引用の後に、次の一文がある。「筬または梭と、前に挙げたる箕、ササラなどとは物は異なれども、得やすき山野の材料により鋭利な刃物を利用して手工をなすは相似たり。」、この数行には天才柳田国男の慧眼を感じる。筬造りはその繊細さにより、仕上げの行程は女性向きだと思うが、それを支える「鋭利な刃物」は木地師やマタギと同じように、自らが鍛冶をして作り上げるイタカの男の役割ではなかったろうか。古代には、どのような生業であっても鉄器を鍛えることと無縁ではない。
集団を生業で分類する考え方がある一方で、それはあくまでも専業化の進んだ、現代的な分類だと認識するべきだろう。生業が分化する以前の集団の在り方を見直して、分類方法も再考してみる必要を感じる。


