古代妄想 伝承 地名 歴史 -34ページ目

古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

 舘岩村の形成は上郷の(八総、岩下、森戸、熨斗戸、伊与戸、精舎、井桁、戸中)からだったようで、八総の伊勢神社が八か村の総鎮守と言われたり、井桁の鹿島神社(社家伝:長治元1104年常陸から勧請)が上郷八か村の総社であったり(ともに村史より)、時代の変遷に応じてそれぞれが正しいのだろうが、ここではより古いと思われる神の気になる事柄について考えてみたい。例えば鹿島神社の総社が井桁のもの(幕末ごろ熨斗戸が総社になる)という伝承は、長治元(1104年)に再勧請したとある社伝と、八か村の名が書かれた井桁鹿島神社の棟札(文化七1810年)の存在が証明するのだが、それは上郷すべての村で鹿島が祀られていることと、井桁の鹿島神社が地域最古参であることを示すがそれ以上の情報はない。遺物の他に肉付けのできるものを探し出したい。

 

 地名の考察から進めるなら、この地域の祭祀の中心は森戸(宮地の古称)(前記事「ド、ド、ド、ド、ドウ」参照)になる。この地に居を定めた一団が居住地の鎮守を置いた場所が森戸の地名から推定できるからである。はじめ神体は村名の由来ともなった立岩を依り代にしていただろうし、その下で(あるいは岩上で)祭祀を行う場所がモリドだっただろう。他の地域にも居住者が増えて村落となる頃には村落一帯がモリドと呼ばれたものと思われる。

 

 

 

 森戸の鎮守は八幡宮で誉田別命・大山祇命を合祀している。ここで気になったのは祭神を応神天皇ではなく在世時のホムタワケにしていることで、勧請元が鎌倉の鶴ケ岡八幡宮ならば祭神は応神天皇と神功皇后(ともに諡号(しごう))なのが通常だが、誉田別命、息(気)長足姫と在世時の名称で祀られているのは、山城の石清水八幡宮か筑紫の宇佐八幡大社を勧請したものか。このことによれば、森戸八幡宮は鎌倉時代以前の鎮座か、鎌倉以前から八幡神を信仰していた集団による勧請と考えられる。八幡神ははじめ鍛冶の翁の姿で現れた。

 

 鹿島の神はそれ以降に上郷、下郷に(言い方が悪いですが)何らかの理由でかぶせられた神という感がある。次のようなあからさまな記事がある。

 

「現在総社の熨斗戸鹿島神社は、もと梅の宮と称して梅の古木に祀ってあったという。菅原道真を祀り、神体は梅鉢形をした天然石である。社伝によると天永年間に星川麻呂という人が来て創祀した」(『村史』四巻p.23)

明応七(1498)年、梅宮鰐口と記銘のある鰐口も伝わっている。

祭神が菅原道真とまで書かれていて、これはどう見ても天満宮。また別の伝承には「鹿島神社はもと郷頭家の氏神だった」(同書)ともいう。これは鹿島が村の神ではなく郷頭の個人的な神だといいたいのだろうか。

 

だが『村史』一巻p.95の「熨斗戸の梅宮」の項では「梅宮は、京都右京梅津の梅宮大社を勘定したものだろう」としていて、鰐口の記事はあるが、菅原道真、神体の梅鉢形の石の記事はない。通史編と民俗編で記述の姿勢が食い違っているようだ。熨斗戸の鹿島神社が総社になったのは幕末らしいから、梅宮に祀られていた鹿島社ということで矛盾はないというのだろうか。梅宮は橘氏の氏神ということであり、橘姓は舘岩村に多いとはいえ、西根川流域の宮里地区で多く、上郷からは最も離れている。橘氏の氏神というためには、それがなぜ熨斗戸に祀られているのかを明らかにする必要があるだろう。梅宮大社は式内社で明神大社でもある醸造の神で立派な神社だが、橘氏の氏神としてここにあるとするなら、その必然性がよくわからないでいる。

 

 村史によると現在の舘岩村で鹿島神社を鎮守としているのは、上郷に熨斗戸と伊与戸が同一社を祀り、井桁を加えて二社。下郷で塩ノ原、前沢の二社が祀られている。舘岩川沿いの四社のみで、湯の岐川と西根川に鹿島社はない。上郷八か村名が書かれた井桁鹿島神社の棟札(文化七1810年)からすると少ないように思える。もとが郷頭の氏神で、何らかの理由でそれを上郷全村で祀ることになったものの、再び郷頭が変わって郷民の信仰が元に戻ったのではないか。

伊与戸は上村と下村に分かれていて、上村には八王子神と稲荷神を祀り、下村には熊野神と稲荷神を祀るが、これは熨斗戸の鹿島神社に一時合祀されたものを昭和五十年頃に分離して『新編』に記載されている状態に戻している。これらが、「かぶせられた」感のある理由なのだが、どうだろうか。

天永年間(1110~1113)に創祀した星川麻呂という人物は不明で、飛鳥時代に同名の人物が天武天皇の功臣として日本書紀に現れるが無関係だろう。星姓の多い当村では星野五郎館跡や星川麻呂などの伝承があるが詳しいことはわかっていない。これらも切り口次第では踏み込んで考えられるかもしれない。

 

八総の鎮守は伊勢神社だが、これは時代的には新しいと思われる。『新編』に日光神社と記される二荒山神社は、境を接した荒海川流域に糸沢に二社、中荒井(熊野に改名)、金井沢などにもあり、峠一つで荒海川上流部に出る八総であれば何らかの繋がりを考えるのが当然だ。

 

『田島町社寺調査報告書』によると、田島の二荒山神社の祭神はすべてトヨキイリヒコに統一されている。トヨキイリヒコは上毛野君、下毛野君らの祖とされている宇都宮二荒山神社(宇都宮市)の祭神で、東国に遣わされたた崇神天皇の皇子であり、東夷平定の武神である。一方、明治十一年の『神社明細帳』をもとにした『村史』一巻p.878に記載の八総の二荒山神社の祭神は味鉏(アジスキ)高彦根(タカヒコネ)(ノミコト)大物(オオモノ)主命(ヌシノミコト)(ついでに記す。所在地字は「鹿の坂甲」前記事「鹿をひろう」参照)で、こちらは二荒山を神体とする日光二荒山神社の祭神である。両社は式内社下野一ノ宮の二荒山神社の論社(比定が未確定)である。田島町にある二荒山神社の祭神がすべてトヨキイリヒコということだと、このルートからのアジスキタカヒコネとのつながりが切れてしまう。このあたりは後世の作為や、調査の不徹底がないかどうか、さらに詳細を詰める必要がある。

 

それはさておき、この神の名は「鉏」という鉄器を、これ以上ないくらいの美称で飾ったものだ。妹の下照姫が、死んだ(あめ)(わか)日子(ひこ)と人違いされた味耜高彦根を知らしめるために歌った歌。

 

・「(あめ)なるや (おと)織女(たなばた)の (うな)がせる 玉の御統(みすまる)の (あな)(たま)はや み谷 (ふた)(わた)らす 味耜(あじすき)高彦根(たかひこね)」(『日本書紀』)

 

・「ではアジスキタカヒコネはどのような性格の神であるか。アジは美称であり、スキは鉏の意であるとふつう解されている。すなわちそれは鉄器を人格化し美化したものである。」

 

・「アジスキタヒコネはうるわしい容儀をそなえていて、二つの丘、二つの谷の間に映り渡ったとあり、また、その歌には(み谷二渡らす)とある。いくつもの丘や谷に照りかがやく鉄器とは、何を表現する比喩なのであろうか。」(・引用、谷川健一『青銅の神の足跡』)

 

谷川健一氏はそれを野ダタラの溶鉱炉の炎が谷を照らしているのではないかと論を進め、同時にアジスキタカヒコネの抜く剣オオハカリ(大葉刈・大量)に言及し、「これは大きな刃をもつ刀剣と解釈される。朝鮮語で刀をカルという。草薙(くさなぎの)(つるぎ)都牟刈(ツムカリ)の大刀ともいう。」

 

また、谷有二氏は『日本山岳伝承の謎』の中で記紀の同じ場面を引いて述べる。

「現代朝鮮語もkalは刃物をいう。刃が倭語とすればハガリは日朝合作語だ。古代朝鮮語の(なた)はnatでやはり刃物をあらわして現代朝鮮語の刃はnalであるから、カタナも倭語の片と朝鮮語のナ(ル)の合成かも知れない。」

「伊勢神宮の神宝に須我利と称する太刀があり、スパッとよく切れるからスカリだと説かれもするが、前二例からすればso(鉄)kal(剣)で、鉄剣そのものの方がそれこそスッキリする。」(アルファベット表記の一部は原文ではハングル文字です)

 

 長々と引用を重ねたのは、『新編』の森戸の「山川」の項に、

「軽井澤 村東五十間にあり境内の山中より源を発し瀧岐澤、大内澤、八木澤これに会し、西に流るること十五町計、立岩川に注ぐ、廣八間」の記事があるからだ。上記の引用部を当てはめればカル(刃)をイ(鋳)る沢と読める。現在手持ちの地図では軽井沢が確認できないが国道352号線に軽井沢橋がある。八木沢はヤキ(焼き、冶金)沢か、支流も含め保城川に集められているのかも知れない。以仁王が村人に杖を求めた伝説がある高杖原と銅鉱山の八総、その初期居住地である森戸が関連しそうだ。ヤソウは昔は八相と書いたとある。ヤソウの音は八十生とも書ける。八相、八総の意も兼ねて、古代鉱山地の命名としてはなかなかだと、一人悦に入っている(笑)。

スキー場やゴルフ場とそれに伴う道路などで地形や沢はだいぶ変化しているだろうが、地名と神社、伝承が残されていれば歴史の断片を見ることができる。

 

 

イノシシの下顎の牙 縄文アクセサリー風
 

狩りの神として信仰されていた二荒山神社(日光権現)だが、それ以前のそもそもは、狩猟のための刃物とその原料を司る神ではなかったろうかと考えてみる。矢じり、槍、小刀などが珍しいものではなくなってから、狩の成功や豊猟をもたらす神となっていったのだろう。

木地師もマタギも道具を自分で作れるようになって一人前とされたのだから、ごく小規模な採鉱と溶鋼は彼らにとっては日常的なものだったと思うのだ。それが大規模になれば戦のための武器製造にもなっていく。

 

 同県河沼郡柳津町には国内屈指の産出量だった軽井沢銀山がある。銀山は貨幣原料だが、日本中にある軽井沢の多くは、狩猟民が必要とする鉄の道具の供給に関係するのではないかと考えられる。同時に社会情勢によっては、狩猟民や木地師は鉄資源調達の最前線にいることにもなる。中世に長沼氏と河原田氏がこの地の帰属をめぐって激しく戦った背景の一つにも、この事情は関係するのではないか。

 

1960年に私家版として上梓された星文吉著『郷土史』という本を、『村史』は度々参照していて、神社由来については詳しいと紹介している。それが手に入らなくてまだ見られていない。それを確認できないことには、この先の記事を作るのに落ち着かないのでだいぶ探していた。

さいわいコピーを持っている人を探し当て、拝借できることになったので、それを読んでから(その二)に進めたい。