古代妄想 伝承 地名 歴史 -22ページ目

古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

思ってもいなかった方向から、避けられない現実が押し寄せてきて、しばらく資料に向かえない日々が続き、ほぼ一か月過ぎてしまいました。どうにか「古代妄想」の世界へ戻ってくることができそうです。

 

南郷村は、昭和の大合併で伊南郷の北部、旧大宮村と、伊北郷の南部の旧富田村が合併してできた。近世の行政区分で見ると新編会津風土記には、会津郡伊南郷の古町組下に鴇巣、大橋が属し(伊南川の西岸を桧枝岐まで)、古町組に宮床、山口(端村・台、板橋)(いり)小屋(ごや)(現在は東)、中小屋、大新田(おおにた)(みず)根沢(ねざわ)木伏(きぶし)が属し(同、東岸を伊南村の白沢まで)、和泉田組に和泉田(端村・乙沢(おてざー))、下山、富山(とみやま)、片貝、界(端村・(あぶ)の宮)、小野島が属した(伊北郷の大倉まで)(下の概略図参照)。

 
現在の南郷村の形に近世行政区分を加筆(黒い印が現在の橋)
 

中世にさかのぼると、富田村は金山町、三島町に本拠を置いた山内氏領、大宮村は伊南の河原田氏領で、境界では争いもあった。それ以前ははっきりしないが、伊南川を境にして東西に街道があったことが、この流域の文化の伝わり方に大きく関わっているだろう。明治の中頃まで橋はほぼ丸太の一本橋で、雪解け水や大雨になれば流された。丸太に集落名を記して流されても知らせが来るようにしてあり、たびたび大変な労力で下流から運び上げた。古代には一本橋さえ困難だったろうから、東岸と西岸の文化に違いが出てくるのが自然の成り行きだろう。

 

ブログの初期に紹介した『ふるさと南郷・山の散歩道』は、各集落の山の領域を地図と地名によって明確に示してくれるので、二回目となる南郷村の古代探訪は、主な生活圏だった山を視野に入れて進めていこう。

 

『ふるさと南郷・山の散歩道』の序文には、「私たちの祖先が山と深いかかわりを持ち、その恵みによって、営々と生活してきたことを思うとき、皆さんが本書をてがかりに「わらび折りをしたあの山」「カモシカに出会ったあの谷」「岩魚を釣ったあの沢」等の地名を調べ、家庭でも、学校でも、職場でも多くの方々に活用していただき・・・(後略)」とある。ここに村民の多くが体験していることを前提として記されている事柄はまだすべて無くなってはいないものの、この牧歌的な景色が浮かぶ文章の具体的な感触を、現在どれだけの人が共有できるだろうか。

 

安全、快適と引き換えに発見や驚きの機会は減ったように思う。半世紀前、ある程度の年になった子供は山や川で一人で遊んでいても、親は心配していなかった。農家だったので雪のない季節はいつでも忙しかったのだ。私が一人で川に魚取りに行ったのは9~10歳ごろだった記憶がある。山へ行く曾祖母の後を一人で追って、迷子になったのは自分の記憶がないので、4~5歳くらいではないだろうか、向かいの山で泣き声を聞きつけて知らせてくれた人のおかげで、神隠しにならずにすんだ。私はよく保育園に到着しなくて騒ぎになった。どこかに道草をしたままになってしまうのだった。たいていは通園路の農道を逸れて河原に行ったようだ。それで怒られた記憶もないが、故郷に帰ると近ごろでもよくさかなにされる。

 

山菜取りや山仕事の際のやむなき用便に、沢の曲がり具合がうまく視界を遮ることから名づけられた、「クソッピリザー」を、住民相談の上で「クサカリザー」に改めたというエピソードは可笑しい。その改名会議を想像するのも楽しい。山だからこそ残る地名と由来かと思う。

 

雪や雪崩の研究家、写真家でもある高橋喜平は著書『遠野物語考』の中で、自分の体験に基づいて、川遊びの危険個所となる渕や滝つぼなどに伝わる河童伝説に触れ、「河童の伝説は子供の水難をかなりの確率で防いでいた」と、伝説が日常生活に持っていた役割を示している。

 

木伏、山口、宮床、界、乙沢は集落名の由来が高倉宮以仁王(もちひとおう)伝承の中で伝わる。中小屋、下山には集落の中の小さい地名に以仁王が関わっている。伝承の伝える地名由来の目的は、古代人の経験から導き出された、「伝えたい事柄」がもっとも忘れられずに残る手段だと考えるが、当地においてそれが何であったのか、はっきりとはわからない。前記事「伊佐須美神遷座と仙石太郎伝承の意味」では地名由来の伝承が採鉱地の地図にたどり着いた。しかしここでは以仁王伝承があまりに多く、後世の付会と思われるものも多いので、ひとまず木地師らの運んだ貴種流離譚としてよけておく。

 

木伏集落の形 小木伏沢
 

伊南村との境、伊南川東岸に位置する木伏はもと安田村といったが、木材を伐り伏せて以仁王を守ったことによって木伏村としたと伝わる。()久保沢(くぼざー)小木伏沢(こきぶしざー)という二つの沢があり、現集落は小木伏沢の作った扇状地上に作られている。前者は柱状の岩峰が連なり、古くから霊峰として信仰され、小中学校の校歌にも歌い込まれる、村の最高峰唐(殻)倉山から発する。唐倉山は中世河原田氏の久川城の東北、鬼門を守る位置でもある。八久保沢は唐倉山南直下まで奥が深く、121ヶ所挙げられている木伏の山の地名の、ほぼ四分の三は八久保沢とその支流の地名となっている。伝承の一つでは沢の最深部で唐倉山の南にあるバンナイザーに集落の初めとされる伴内氏が承和七(840)年、焼き畑をしながら住んだのが始めで、長暦三(1060)年に伊南川沿いの平地((だん)(した))に移ったと伝わる。また一説では、長暦三年は伴内四族のうちの佐原家がバンナイザーよりやや下った入八(いりや)久保(くぼ)を開墾して薬師様を信仰したともいう。さらに同じ長暦三年、伴内四族の橘家五右衛門は()()衛門(もん)(ばた)、小椋家は出戸八(でとや)久保(くぼ)を開墾して住んだという。伝承からみれば、安田村の名はこの頃から、以仁王伝説の治承四(1180)年までということになる。伴内氏が水田耕作を志向していたという前提でなら、唐倉山南麓という高地での焼き畑からみれば、多少なりとも水田を作れただろう伊南川沿いへの移動は、村名を安田村とする根拠として頷けなくはない。もっともこの年代は信頼できる資料などが無い。

 

木伏の地名分布 下部が八久保沢、印が伴内沢

 

しかし真偽を確かめるすべがないことに便乗して、ひとつ興味深い地名との関連を挙げておく。田島町荒海川流域の考察にもあげた「荒田」に代表される「アラ」地名の宛て字の一つに「安楽(あら)()」があり、それは遠く兵庫県の古代採鉱冶金地域の真っただ中にある。(『青銅の神の足跡』谷川健一より、下の地図参照)「安楽(あら)()」が大化以降度々行われた地名の二字化、佳字化の令に従っていたとすれば「安田」になることは考えられる。また入八久保、八久保沢のヤクボは(いり)薬母(やくぼ)、八雲立沢という文字も宛てられ、八雲立沢にあった高さ二尺ほどの瀧は蟹沢の瀧と呼ばれた。「ヒドとイリヤクボ(入薬母)の間の八久保沢(八雲立沢)に高さ二尺くらいの瀧がある。これを蟹沢の瀧とよび(後略)」(『山の散歩道』)。ここに私が採鉱と関係するのではないかと妄想する、「アラ(鉱)」、「カニ(金)」の地名が現れる。(前記事「蟹のある地名」「荒さがし」など参照)

さらに、「八雲立つ」は出雲の枕詞、出雲はスサノヲのヤマタノオロチ退治以来、古代から近世まで最大の採鉱冶金地域である。伴内氏が薬師を信仰していたことも、薬師の本地がスサノヲ(牛頭天王も・京都八坂神社祇園祭)なので納得できる。八久保沢の集落近くの(いり)山の神にある清水は飲むと腹痛が起きる「毒清水」と呼ばれていた。これは鉱毒に対する注意喚起で採鉱地に多い類話でもある。隆起した岩峰を連ねる唐倉山と修験による信仰の歴史に、木伏の古い村名である安田村と伝承の断片を重ね、さらに対岸の伊南村小塩に見られた採鉱の歴史と薬師信仰「小塩の焼け焦げやくっ様」参照)にも重ねると、古代の木伏村(安田村)も採鉱に関係する可能性はある。

 

 

 

『青銅の神の足跡』より

 

見事な扇状地を形作る小木伏沢の沢口に集落がよく発達したことは、地勢が良かったことはもちろんだが、理由の一つに清水が多くあることが推察できる。サワグチノシミズ、カキオトノシミズ、シミズ、シミズバタなどの地名が残る。一方の八久保沢は山が川に迫っているため段丘上が狭く耕作適地は少ない。イリヤマノカミの毒清水が山際にあり、それより上流のヤスミイシとさらに上流のブドウクボに清水のあることは記されているが、最も集落に近い支流に毒清水が流れ込むことも、水田耕作には好い条件ではないだろう。

 

以仁王伝説を抜きにして、木伏の地名が何をもとに命名されたのかを考えるのは難題だ。木伏(キブセ・キブシ)という姓があり、上越、中越などに分布するが、発祥は南郷村の木伏と言われているらしいが由来はわからないようだ。宮城県、岩手県にある同文字の木伏はキツブシ、キップシと発音するのでアイヌ地名との関係も考えられそうだが、キブシとは語感が違ってくる。木伏集落の小字に「小伏(こぶし)()()」があり、木伏もコブシかとも考えられるか。以仁王を守るために木を伐り伏せたという伝説なら、同じような命名は河沼郡柳津町の伊佐須美神伝承にも残る切伏峠もあり、他にも全国に「切伏」の地名は散見する。キリブシ、キリブセともに語感はキブシとは違うように思う。

山伏は、野宿もいとわず山で修業をするところから、野伏(のぶせり)は野武士の元で落ち武者狩りをする農民などらしいが、さて木伏とは何からきた命名か。

 

前述した木伏の始祖とされる伴内氏が山から下ってきて住んだとされる「壇の下」とは何のための壇だったろう。『里の散歩道』には壇の下「地内に一里塚があった」ということだが、一里塚は壇ではないようだ。土塁のようなものか堤防か。伴内四氏の入植がすべて長暦三(1060)年と伝わることは、集落の始祖と長暦三年には何かがあるようだ。承和七(840)年という最初の入植が最奥部の山奥なのは採鉱が目的かもしれない。そこは地図で見る限り、どのルートを通って来たのかも推定することが難しいほど、険しい山麓である。木伏側から耕作を目的に入ったとすると、そこまで行く必要性はないと思われる。承和七年の伝承は集落地名由来の口承でしかない。村史では取り上げられていないが、始祖が持ち伝えた氏族伝承の断片かも知れないので、承和七(840)年と、伴内四族の居住とされる長暦三(1060)年に関係する歴史上の出来事に注意を払うことにしよう。

 

村(集落)の鎮守は水神の()加美(かみ)神社(明治から)となっている。神社由来書には「永禄四(1561)年大和から下ってきた荏原伴内久元から数えて九代目の子孫伴内久道なる者が、高霰(たかお)(かみ)火彦(ほむ)霊神(すび)の二神を字沢口というところに祀ったのが最初」(『南郷村史』民俗編)で寛永三(1626)年に八竜神と改号している。「大和から下ってきた荏原伴内久元」が伴内氏のはじめで安田村の始祖だとするなら、地名伝承との年代は大きく食い違っているのだが、それはひとまず置いておいて、このことから本来木伏の神社は水神と火神を祀ったことがわかる。改号の後の八竜神も水を司ると同時に雷鳴を伴った稲妻という火を持っているしヤマタノオロチも思わせる。しかし明治期に()加美(かみ)神社となって水神として祀るに至って火の属性は消えてしまう。長い時間の中で村民の願いに沿って、属性が段階的に農業の神へ変わってきた。現代からみれば、()加美(かみ)神社は雨乞いや豊穣を叶える神だと理解することになる。

 

平安期の製鉄ジオラマ、グレーの盛り上がりが鉄滓
 

火彦(ほむ)霊神(すび)は別名火之迦(ひのか)具土(ぐつちの)(かみ)闇淤(くらお)加美(かみの)(かみ)(オカミ神)とは親子か兄弟のような関係にある。

()加美(かみ)神(闇淤(くらお)加美(かみの)(かみ))が記紀に登場するのはイザナギが火の神カグツチを斬り殺した際に、その手に握った()(つか)(つるぎ)をつたう血から生まれる。「次に御刀の手上(たがみ)に集まれる血、手俣(たなまた)より()き出で成れる神の名は、闇淤(くらお)加美(かみの)(かみ)。」であり、その前には同じ血からタケミカヅチ、タケフツ、トヨフツなどの鉄製武器の神々が生まれ出ている。水一般を表す神はイザナミが火之迦(ひのか)具土(ぐつちの)(かみ)を産み出す際、苦しみながら死ぬときに「次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売(みつはのめの)(かみ)」として登場し、万物を生み出すイザナミから生まれるのに対して、闇淤(くらお)加美(かみの)(かみ)は剣を生み出すカグツチの血から生まれる。このことは闇淤(くらお)加美(かみの)(かみ)がより剣を作る職能に深いかかわりを持っていることを表している。それを祀った氏族もまた同様だろう。〈つづく〉