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古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

 集落(旧村)の山域が一目でわかる『山散歩』の特徴に注目して見ると、集落ごとの山の領域に大きな差があることがわかる。生活資源の大部分を山に依っていたことを考えれば、現代のように車道に沿って筋状に発達した生活圏とはまるで違った村の姿が想起される。同書に記載された地図からの推定でしかないが、早くに定着した村は広い山域を持っていたと考えられるから、そこの地名には相対的に古いものが残っている可能性が高いと考える。そのうえで他地域との交通や信仰、歴史的な領域の変化によって、その地名がどの方面、どの時代の地域文化を反映したものか、あるいは時代を経る中で上書きされたものか、などのことがらを導き出して、古代の村人の見ていた日常の光景を描き出せたら上々なのだが、なかなかそうはいかない。

 

各集落の山の地名分布比較
 

『山散歩』中、広い山域を持つ集落で拾われている山の地名数は次のようになっている。伊南川東岸では木伏(きぶし)(121)、(いり)小屋(ごや)(64)、山口(やまぐち)(128)、(さかい)(120)、片貝(かたかい)(58)、下山(しもやま)(84)、西岸では大橋(おおはし)(102)、(とう)(のす)(76)、和泉田(いずみだ)(157)。

(註:山口(22)には端村の(だい)板橋(いたばし)(106)を含み、和泉田(いずみだ)には端村乙沢(おてざー)(30)を含む。入小屋に同系と思われる中小屋(なかごや)(48)を合わせると112となるが別村で集計した。)

 

 山域の小さいところは(みず)根沢(ねざわ)(16)、大新田(おおにた)(20)、宮床(49)、富山(とみやま)(8)、小野島(おのしま)(35)となっている。各集落の古老に依頼してまとめられたものだが、厳密な基準があってのものではないし、採録者の年齢や職業の違いもあるだろうが、地図と合わせて眺めると、大まかな傾向はわかる。この他に集落内の地名があり、そちらは『里散歩』にまとめられている。

 

 舘岩村星文吉氏による『郷土史』、伊南村での雑誌『郷土研究』も、この『ふるさと南郷・山の散歩道』も、その文字の背景から作者(編者)らの故郷の文化への思いが滲んでくる。これらの資料は眺めるたびに触発されるものがあり、これを作り上げた熱意と実行力に頭が下がる。いつの時代でも企画段階では反対の多いものだったことが思われ、それを実現させるには文字にできない困難があったことも察せられる。その先人の思いに敬意を持つと同時に、それを繋いでいきたいと思う。平成の大合併による広範囲な地域統合は、ふるさとの文化の連続性の解体として、強く危機感を持たなければならないし、今の状況を逆手に取って、広範な地域文化の連続性を掘り起こすことに進めていく必要もある・・・・・少し脱線してしまったので戻そう。

 

 前記事「運ばれた牛首」「スガマ」であげた地名はウシクビ七地点、スガマ六地点とも、山域の広い集落に含まれる。このことからこれらの集落と二つの地名は相対的に古いものと考える。

ウシクビについては峠地形であり、コエド(越処・越戸)、コシジ(越路)などと同様の地点を示していて、しかも古い命名だと思われる。新しい言葉ほど、聞いてわかりやすく、短く、そっけなくなる傾向があるのは現代でも同じだ(外来語は除く)。地名由来や伝説などは、長くて回りくどいほど解釈の可能性が広がっていくので歓迎できる。しかしこれを人に伝えようとすると、大抵はメンドクサイと言われる(涙)。

スガマについては延喜式の祝詞に出てくるという「天津菅麻」(アマツスガソと読むらしいがスガマとも読める。)を唐倉山の祭祀に使ったとの伝承があるのを見つけた(『南郷村郷土誌資料1』唐倉山の伝説)。伝説では皇后の使いが供える幣帛をサルオガセ(高山の樹木に寄生するとろろ昆布状の菌類?)と見立てているが、それがスガマ地名と関係があるのかどうかは今のところ見当もつかない。

 

 

天津菅麻(幣帛)に見立てられたサルオガセ

 

昭和三十六(1961)年に南郷の民俗学の先達で、この『山散歩』の仕掛け人でもある安藤紫香さんのまとめた(『南郷村郷土誌資料1.唐倉山の伝説』)の巻末に折り込まれている絵図によると、唐倉山山頂には伊弉諾(いざなぎ)伊弉冉(いざなみ)少彦名(すくなびこな)()力雄(じからを)大貴(おおな)(むち)、薬師十二神、日光、月光、(村に薬師本尊)とにぎやかな顔ぶれの神が揃っている。天狗の馬場、御膳石、御衣掛石、御手掛石、明神岩などの舞台も整っていて、この神仏に囲まれた山頂で修業した修験者は、あたかも野外劇場で主役を演じる名優のおもむきがあっただろう。

 

唐倉山山頂図

 平安末期の以仁王をはじめ、俊芿(しゅんじょう)僧都の来訪と薬師信仰、アマノジャク(デエダラボッチ)のお堂造り、宗祇禅師、西行法師・・・など、安田村(木伏)には沢山ある。神話で有名な神は多いのだが、伊南郷一の宮、尾白山にみられた御嶽神のような国つ神はいない。前回の記事「いなくなった火の神」で、地名や禁忌からの推測による採鉱との浅い関りを記したが、唐倉山の以仁王伝説中の地名由来譚にもう一つ「草鞍坂」という地名が出てきた。

「(宮が)御帰りになりますので、村民達大滝と云う所までお迎えする(此所に今朝程馬をとめて飼料をやりながら草鞍して待っていたので草鞍坂という)その夜は・・・(後略)」(前掲「郷土誌資料」)

 

この草鞍坂の地名由来が、伝説の進行上必要なものか、疑問にも思える長い説明として挿入され、「草鞍して待つ」という不自然な表現は何のことだろう(草鞍は粗製の鞍)。クサグラザカと読む前提での話となるが、上州草津温泉の「草」は臭い水で、強烈な硫黄臭を表している。「(くさ)(みず)」を好字化したこともわかりやすい。さらに日光開山の勝道上人の修行の場とされる栃木県鹿沼市の古峯神社は男体山頂の金属仏具遺物、中宮寺の鉄滓や銅滓とともに、勝道上人と採鉱の深いかかわりを示すが(前記事「8.祭神と伝承 その三(古布)」参照)、古峯神社の所在地は鹿沼市(くさ)(ぎゅう)である(ただし「ギュウ」は解読していない)。唐倉山の草鞍坂は、草が臭、鞍は嵓、坂はそのままか峠と分解できる。「大滝の近くの鉱物の匂う岩倉の峠」を伝説に託したものと読むことができる。これも採鉱との関係を匂わせる伝説として拾った。

 

谷を渡る土橋

 

唐倉山は木伏だけでなく、北麓の入小屋(現在(あずま))でも柄倉神社として祀っている。由来では、延宝三(1675)年前まで祀っていた三倉大明神を柄倉神社として合祀したのが初めで、三倉というのは、柄倉、石倉、猿倉の地名である。「石倉(山)から白神様が石に乗って出られ、申倉(山)からは山の神様が出られた」(『南郷村史』民俗編()内は筆写註)

とある。好意的に考えれば、三山をそれぞれに祀っていた祭祀の便をはかって、里宮として一社にまとめたのが柄倉神社だと言いたいのだろうが、三山の信仰であれば、奥の院とでもいうべき最も奥で最高峰の柄倉山を表す神様が出てこないのが、尻切れな印象の伝承になっている。

 

この村本来の信仰に柄倉山の姿が見えてこない。白神様は養蚕の神で、この神を信心する白神講は年配の女性によって行われた。山の神講が男性の講なので、この二神で村の神は完成してしまうようにも見える。「二倉神社とも呼ばれた。」と由来の最後に遠慮がちに記されていることは気になるが、時代は不明とされている。

 

あるいは木伏で唐倉山を祀る修験道の祭祀との間で、唐倉山の神についての食い違いがあり、柄倉山の神を語れなくなった時代があったのだろうか。柄倉沢が入小屋に流れ込んでいることや、南の多々石や保城に向かう戸板峠や山仕事の中では、日常的に唐倉山の荘厳な姿が望まれることなどから、なんらかの地元の神があるのが自然だと考えるのだが。『新編』には柄倉神社の祭神は「詳らかならず」とされ、山神は境内社とされている。現在の柄倉神社の祭神、(くら)(いな)(だま)命は後世の勧請だろう。

 

一説には柄倉→穀倉→実倉→三倉(参倉)という表記の変遷もある。カラクラ山の地名の本来はカラが崩れの擬音でクラは岩倉だろうから、「崩れやすい岩倉の山」の意味だと思われる。しかし穀倉→実倉と書かれる頃には穀倉(こくそう)を重ねた豊穣の神(倉稲魂)になっていくのがわかる。音の合っている(から)を嫌って字面のよく似た(こく)をカラと読ませるなどは、柳田国男なら「風流子の小賢しい知恵」とでも形容するのではないだろうか(笑)。

 

『新編会津風土記』(1803~1809編纂)には唐倉山は「此山東北の方入小屋村に属す」とあり、東麓の一部は入小屋分の山だった。しかし入小屋からの東麓は斜面が険しく、山の本体はほぼ木伏に属するようだ。山を祀る修験蓮華院が木伏にいて、唯一の登山道も木伏にあることから、盛んに祀ったのは木伏で、村史でも入小屋の山への信仰は取り上げられてはいない。

 

柄倉山と柄倉沢、石倉山と石倉沢、猿倉山と猿倉沢とがあり、柄倉神社に嘉永三(1850)年に作られた「参倉神社」の旗が残る。「延宝三(1675)年前まで祀っていた三倉神社」のはずの神社名の幟は、二百年近く経っても誂えて奉納されていて、三倉神はずっと健在だったことになる。このような村人のしたたかさが見えると嬉しくなる。『新編』の記録者は社に「柄倉神社」とあるのを見て記録したのかも知れない。しかし祭りの日には「参倉神社」の幟がはためいていたのだ。この幟は『新編』編纂のほぼ四十年後に新調されている。

 

『南郷村史』より拝借しました

 

入小屋(東)の山域は奥深く広大で、唐倉山の東南麓を木伏の山域の裏側を戸板沢に沿って伊南村多々石の最奥まで通じている。(写真)尾根一つで舘岩村の高杖原に届くところまで山域が伸びていて、入小屋と東の田島町針生、南の舘岩村()(じょう)とが繋ぐ山域は、南会津郡の東部と西部を距てる豪雪地帯の大山塊をほぼ網羅する。木地師の活躍した地域でもある。木地師の携える詔勅文書に「道は馬の蹄のゆく限り、山は鳥の翼の及ぶ限り」の場所を自由に通行してよいというような、おおらかで文学的な文言があることを思い合わせて、わかりやすさと共に強い印象を残す表現に感心したりもする。

 

『山散歩』には「古書によると天文五(1536)年には木地職が三戸あった」、「平野姓の先祖が大桃村(伊南村南端)より移住してきたのはその後である。」とある。引用された保城小椋家の「古書」の正確性にもよるものの、天正十八(1590)年に蒲生氏郷が会津に配置されたとき、近江から木地師を率いてきた。しかし、少なくともその半世紀前には、すでに入小屋に木地職が住まっていたことになる。同文書には入小屋から下った中小屋にも二軒の木地師がいたとある。近江の木地師は『新編』には入小屋村に「木地小屋」として記載される戸板集落に住んだ後、入小屋本村との争いがあって舘岩村の保城に移った(寛政七(1795)年)。現在ここは史跡、戸板集落跡として残る駒止峠(駒戸峠)の麓にある。「〇〇小屋」という村は木地師の村を表す。この近江から来た木地の部落が、天文五(1536)年にすでにいた入小屋、中小屋の木地職とつながりがあるのか、ないとすればその系統や氏族が気にかかる。

 

寛文五(1665)年の『伊南郷村々改帳』の記事による、簡単な村落規模が『山散歩』に収めてある。約百五十年後の『新編会津風土記』(享和三年~文化六年(1803~1809))にも同様の記事があるので比較して見ると、ほとんどの村の家数は二倍前後に増加している中で、入小屋は七軒→二十七軒(四倍)、中小屋は三軒→十七軒(六倍)となっていて増え方が突出している。


これが新田開発などの農業の発達なのか木地職の隆盛なのかは石高などの資料によらなければならないが、木地小屋の移動民の年貢がどうなっていたのかはよく知らない、保城小椋家の「古書」にあるという「平野姓の先祖が大桃村(伊南村南端)より移住してきたのはその後である。」の内容ともかかわるだろうか。大桃村から移住した平野氏は農民だったのか、木地職だったのかなどのことも何も知らないことに気が付いた。ち名探偵には負荷が高いので先送りとしよう。故郷に帰省した折に訪ねてくることにしたい。

 

 難しい問題はひとまず置いておき、地名に戻ろう。チッチェーアカマツザーとオオキイアカマツザーという対の沢が東(入小屋)にある。付け加えさせてもらうなら後者はデッケーアカマツザーが妥当だと思う。赤松沢(大・小)という地名だ。


どこにでもありそうな地名ではあるが、方言のまま書き表されているのは珍しいことで、遠い昔の文字を持たない住人らが地名を付けていく過程がわかる気がしたのでここにあげた。もちろんこれらは藩の役人や寺僧などがつける名ではない。これが平地の地名であれば、長い年月このように呼びならわされた地名を公文書化するにあたっては、さぞかし役人を悩ませたことだろうし、このままの形では残らなかっただろう。「チッチェー」を万葉仮名にするとしたらどんな字を当てるだろう(笑)。奈良時代以降、郡郷地名の二字化と佳字、好字化を命じることが度々行われたことの理由が理解できる気がする地名だと思う。しかもここでは片方が標準語の「オオキイ」にされていて、地名の現代的変化による問題点も現れている。チッチェーの反対語はデッケーなのに、この表記については、現代の採録者か編集者かが(おそらく)自動翻訳している。公的文書と生活用語の齟齬のために地名まで翻訳されてしまうのはよくないが、この件に関しては、表意文字がうまくはまることで、意味が変わることがないので微笑ましい。(つづく)