「石倉山が抜け出して、反対側の前沢山の下端にある愛宕山の下まで埋まり、現在の集落が一時期湖に変わったことがあった、という。(中略)井戸を掘った時埋もれ木が出てきたリ、三メートルもある大岩が「山抜け石」と名づけられている。」(『山散歩』東の石倉沢解説より)
現在、小屋川の谷間の段丘を通る国道289号線に沿って集落がある、まさにその一帯がこの伝説の湖のようだ。それがいつ頃の時代か、埋もれ木の炭素年代などの科学的な調査をすれば見当がつくのだろうか。大規模な山崩れで小屋川がせき止められたのは集落の下端で、現在の河床は標高約600m、その石は石倉山のものと同じ石で、多くは屋材や墓石に使われたという。南側高台には「ウエノヤシキ」という地名が残る。「いつの時代か定かでないが、昔人が住んでいたと伝わる。」と解説されている。現在の集落(標高約620m)との比高差は20mほどある。この伝承と関連するのか不明ながら、繋がれば興味深い地名が村の上端にある「ドウマヅカ」だ。
漢字は堂間塚と宛てられているが、気にすることはないだろう。ウエノヤシキの等高線(642m)を辿ると、ちょうどドウマヅカ(643m)に行き着く。由来は不詳となっているが、この地名が湖の伝説と関連すると仮定したうえで、さらに湖の水位が現集落とドウマヅカの間にあったと仮定すれば、このドウマヅカがアイヌ地名の湿地を表す「トマム」から転訛している地名の可能性が考えられる。
柳田国男も『地名の研究』で、ドウマンがアイヌ語で沼地や湿地をいう「トマム」由来と述べる。宮城の地名研究家である太宰幸子氏も、宮城県栗原市築館の調査で、道満沢、道満、新道満などの地名がトマム地勢と一致していることを報告している(『地名と風土』10号)。『地名用語語源辞典』では「ドウマン」は「トウマ」と同じかとして、「①ドベ、トバと関係し、「沼地、湿地」をいうか。アイヌ語の沼地、湿地をいうトーマと関係するという説(柳田他)もあるが、本土の地名全体に当てはめるのは不審。あるいは古い時代の共通の語彙であったか。」と言っている(トーマはトウマ)。
片貝にはドウマンガワラがあり道万河原の文字が宛てられている。過去には虻の宮方面からの鹿水川と片貝の山から出てくる深沢川の沢口で、二つの沢が合流し、広範囲に「トマム」を作っていたと思われる(現在の鹿水川は虻の宮で伊南川に合流)。
ドウマンガワラの沢向の山際に、中谷地、大深の地名がある。「この地帯は湿田地帯であり、通称ヒドロ田である。宮ノ下と共に伊南川流れし跡と伝えられ、耕土数メートルの深きところは葦谷地であるといわれている。」(『里散歩』中谷地解説より)ここには、伊南川本流もドウマンガワラから中谷地、宮ノ下一帯を流れていたと伝わっている(この「宮」は片貝・於加美神社)。
入小屋のせき止め湖伝承と関連して、ドウマヅカも湿地由来の地名とするなら、ドウマンガワラとともに南郷に残る数少ないアイヌ地名である確率は上がるだろう。同時に、この地域の地名考察にアイヌ地名を想定していくことも必要になってくる。南会津は東北南端で、アイヌ地名はあまり多くないと思われるが、全くないわけではないかもしれない。縄文(初期)の遺物はこの地でも発見されているし、鮭鱒の遡上は近代まで豊かだったこともあり、アイヌが生活していてもおかしくはない。
一方で、アイヌ語地名がヤマト語の名詞になって、各地にトーマ、ドウマ、ドウマンが広がったか。という『地名用語語源辞典』の説(「古い時代の語彙」)を取るなら、元がアイヌ地名だとしても、この地との関りは特定できなくなる。
駒止峠から入小屋湖が見えた、古代のある時期があったと想像してみる。崩れた石倉山の岩がどのくらいの高さのダムを作っただろう。標高600mの河床から30m~40mの高さなら現在の集落はすっぽりと水中。集落の東で北流してきた小屋川が西に向きを変えるあたりが湖への落口となり、ドウマヅカとウエノヤシキは湖畔になる。長さ約1000mで幅が150mの細長い湖が、切り立った緑の峡谷と青空を映り込ませるのを妄想してみる。流れ込む多くの沢からの栄養で岩魚が大繁殖したのでアル。
内赤羽沢、外赤羽根沢は羽根が埴で赤土の出た所からつけられた地名。各地に多くあり東京の赤羽は有名。群馬県と山形県には同地名を確認した。界の山にネアカザカがあり「土質は赤土」とあるのも同様の地貌なので、ハニアカがハネアカ、ネアカとなったと思う。
ヨウノサーはユウの転訛で岩穴がある沢だろう。山口のリュウザーも「険阻、大岩山にホコラ」とあることから同様だと思う。リュウザーと呼びならわされると、次第に龍の穴の伝説などが付会されてくる。
猫岩は「小屋川沿いの岩の連なるあたり」であることから、山根の岩から根子岩となり、猫に化けたか。
沢ノ目は扇状地の沢口下なので沢の前が転訛したものだろう。
ソリマは通常焼き畑地名とされていることが多い。南郷では東の輪間(由来不詳)の他、和泉田と宮床に反間、富山に反田があり、それらは条件の良い水田の意を持っている。東だけが輪田という宛て字で他と違い、扇状地の上段にあることからも、焼き畑であった可能性はある。同じ言葉だが意味が違うかもしれない。識者の教示を乞いたい。
東のマナイタと中小屋のマネイタグラは集落をまたいで、小屋川右岸の地名。岩が柱状か板状に折り重なった地貌だろうと思うが、現在は耕地なので、岩倉の名称であることの多いマナイタグラの地名が、ある地点から拡張されていたり、河岸の地貌が小屋川の流路変更などで分からなくなっているのかもしれない。尾瀬の燧ケ岳の爼嵓、舘岩村の爼倉山などがある。
東で最も下の沢がスガマザーで「鉱石のようなものが流出している沢であり、昔から魚は住んでいない」という解説がある。「スガマ」地名が鉱石系かと思わせる記述なのだが不明だ。須釜山、須釜沢、須釜口と揃っていて、ある時代には村にとって必要なものだったと思われる。
入小屋(東)から下った隣村中小屋は『新編』に「昔は山口村の端村なり、寛永中別村となりし」とある(寛永1624~1645)。山口、中小屋、入小屋の口、中、入は小屋川沿いの谷を山口側から呼んだもので、他の沢筋にもみられる命名方法だ。この地名がついた頃には、山口から入小屋の道は支流の入(奥)に向かう道であったことを示している。駒止峠に向かうこの道は、近世から現代は国道289号線となっている主要道だが、それ以前は伊南川に沿った上州(沼田)街道が主要な街道であり、さらに以前は、伊南川西岸の県道大倉浜野線が主要な街道で、上州と下野に通じていた。このことは伊南郷の古代文化の伝達や分布条件に大きな制約をもたらすと思われる。天明五(1785)年七月建立の「田島、江戸、若松海道」と標された道標が、山口の三方口に残っているので、近世中期には駒止峠はすでに主要道となっていることがわかる。
山口村は以仁王伝説で治承四(1180)年、沢口村を山口村に改めたとされるが、沢口から山口に変わったのは、関東に抜けられる峠(街道)の通行を意識した改名と言えるだろう。江戸幕府が設置されて京に向かうことが減ったこと、その後日光街道が整備されたことが大きな理由だろうから、改名の時期は近世初期ではなかろうか。そのことが、それまでメインではなかった伊南川東岸の街道を関東への近道として主要道にしていったのだろう。
私の父はこの峠を越えた田島町の高校の農業科に進学して、田島町に下宿していたが、生家との往復は徒歩だった。(片道30㎞)。冬休みに、早くわが家へ帰りたい一心で、雪の峠を越えた時に吹雪で道を失い、危うく遭難しかけたことがあったと聞いた。近現代の記録にもこの峠での遭難事故は多い。私の子供の頃にはすでに路線バスが通っていたが、それでも隣町まで未舗装の狭い山道を二時間バスに揺られたし、ヘアピンカーブでバスの前方が大きく崖から飛び出すのは、乗っていてスリル満点だった記憶がある。当時は日本も広かった(本当は今でも広い)。
現在は、幅の広いバイパスがトンネルとなって30分で通えるようになった便利さを歓迎しつつも、昔の人が命がけで越えなければならなかった、ほぼ他国であった峠の向こうとで広域合併して、一つの地域意識を持とうというのは無理なことだと思っているし、合併に生活圏への配慮が感じられないことには失望している。中心地への行政機関の集中や大型チェーン店の進出などで、地域ごとの地元は寂しくなっている。日本中がこの始末なのだから、民俗文化の掘り起こしはより大切になってくる(と思いたい)。
私自身は、半径2キロメートルという、子供の徒歩圏をくまなく生きられたら、そこにすべてはあるという思想の持ち主なので残念だ(笑)
中小屋の地名、オウーグンゼ、解説「小屋川の流れが岩山にあたり90度方向を変える淀みなっているところであり、子供たちの水泳の場であった。また浪滝堰の取り入れ口にもなっている。」、ヨッテヅキは解説空白。どちらも川と関係のありそうな場所だが単語がまるで思い浮かばない。ヨッテは四ッ手だとすれば四辻か、しかし小屋川に沿った道に辻があった形跡は見られない。沢の横手に隣り合わせる田畑だとしても、すべての田畑が当てはまるので地名となる必然性に欠ける。ヤスで魚を突くことをツキというのでそれと関係するか。発音の似た地名も思い当たらずお手上げの状態だ。
(大新田につづく)


