古代妄想 伝承 地名 歴史 -19ページ目

古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

伊南川東岸を木伏から下ってくると(みず)根沢(ねざわ)大新田(おおにた)となる。この二つの集落は前に記したように山の地名が少ないので比較的後からできた村と思われる(前記事「殻・柄・唐倉山」参照)

 

水根沢の鎮守の日吉神社は明治四年に改称される前は山の神(大山祇)、稲荷、()(おう)社(蔵王か)、八玉子(八王子?)(『南郷村史』より)の四社を集めた山王神社で、サンノウジタの地名が残る。初めは山の神を祀ったものだろう。八玉子は木伏の於加美神社が改名する前のものと同じで、親村ともいうべき木伏の神を遷しているのだろう。この宮を指していると思われる宮沢が伊南川に流れ込むあたりにオスバリ(尾須張とも)の地名がある。舘岩村湯ノ花地区の岩狭(いわすばり)、同宮里地区の野狭(のすばり)と同じ、狭まった渓の地形によるスバリ地名だろう。舘岩村で初めて知った地形地名だったが、以前『里の散歩道』を見た時には見落としていた。

 

四津(よつ)(おさ)と記してある通称ヨドオサ又は清水(しみず)(ばた)は、隣あう谷地(やち)と地形が同じで一帯が深田だとのことなので、水や清水に関係する地名だろう。オサが「水田の一区画の単位」(『地名用語語源辞典』)でもあることから、ヨドが(よど)むことなどを意味しているか。この地域でのオサの使用例が他にもあれば確信が持てる。

ニグメザー(ニケメ沢)、フウショウ(沢)などは今のところ手掛かりがない。

 

水根沢と大新田にまたがる高森山は両部落の地名を解説する際のランドマークで、「高森山裏側」、「高森山と○○の間」などの解説が多い。両部落に高森下の地名があって地点はやや違っているようだ。集落のどこにいても見ることができ、陽の当たり具合で時間を測ったり、雲の出具合で天候の変化を予測したりできる山だったろう。タカもモリも原始信仰の山に対する尊崇を表している。舘岩村の森戸集落もモリは社であり守だった。「日本海に面する山形や秋田には「モリのヤマ」という信仰があり死者の霊は里の山に籠ってから浄化され、さらに鳥海山のような高い山に登るそうだし」、「丹後地方のニソのモリ、鹿児島地方のモイドンの分布、山伏修験は峰をモリと呼ぶことなど」(谷有二『山の名前で読み解く日本史』より)

高森山を尊崇したのが、現在の住人の祖先かどうかはわからないにしても、このような地名ははるか遠い昔の全国的な信仰の形につながる。

 

記事とは無関係な棚田(謝)

 

「『文禄三年七月猪苗代・南山・津川・伊南伊北高目録帳』(1594)によると伊南鬼田(おにた)百十六石二斗とある。」

「慶長二年(1597)の蒲生藤三郎倉入在々高物成帳には大新田(おおにた)とある。」

このわずか前後三年の間の二つの古文献に、鬼田が大新田へと地名表記が変わっているのは興味深い。

 

オオニタという地名は群馬県下仁田(しもにた)(ニタ)、沼田(ぬまた)(ヌタとも)などの湿地を表すニタ、ヌタ地名の可能性があり、隣の水根沢のヤチ、ヨドオサなどと共に湿地をあらわし、同じ段丘上では最下流の大新田は、開墾しても排水が悪く、耕作に苦労が多い深田の状態を「鬼田」と表意したのではないかと考える。現在も深田(ふかだ)という地名がある(別名ヒドロ田)。

 

鬼田を大新田の表記にした慶長二年の時点ではまだダイシンデンではなく、希望的に好字化したものではなかったか。近世初期に新堰が整えられるようになり、引水と排水の管理ができてから、文字通りのダイシンデン化が進められていくようだ。(『南郷村史・通史』など)

 

大新田は対岸の大橋集落の分村と伝えられていて、新田(しんでん)は分村を意味するともいう。大橋には北野神社を氏神とするヌイダという集落があった時代があると伝わり、現在の大新田の鎮守北野神社は「ヌイダ集落氏神様の分社であるという。」(『山散歩』大橋の解説)

 

ヌイダ集落の由来も記されている。「下野国大塚村領主、大塚と名乗る人が応永十年(1403)中山に住し、(たて)(ひら)に田畑五反くらいを耕作しヌイダ村を作ったと伝えられている。」この「縦の平」が「(たて)の平」であろうことは、その隣の地名にヤカタアトがあることと、「山頂に館を築き、館主を配し柵を作った」との解説からも推定できる。

中山の地名は大橋村と上流の青柳あおやぎ村との間にあるということだろうから、ヌイダ村よりも大橋村、青柳村が古くからあったことは確かなようだ。あとから入ってきて田畑五反歩ほどを開き、跡形もなく消えたヌイダ村と、この大塚氏は妄想をかきたてる存在だ。


栃木県栃木市大塚(おおづか)は寛喜二(1230)年の小山(おやま)家文書に大塚野として記録されている。古墳が多数あるところからの地名で、三ツ塚、並塚、井戸塚、岩塚、我鬼塚、川子塚の小字名がある(『角川地名 栃木県』より)。

平安期からの関東の大豪族小山(おやま)氏の地であり、結城氏、長沼氏など南会津に関係の深い氏族の出自の地でもあり、この伝承の信憑性は高いように思う。長沼氏の同族で伊南郷を領した河原田氏との関係も十分考えられる。

 

これも無関係な屋敷墓
 
それはさておき、応永十(1403)年という伝承を正しいとしたときに、ヌイダ村がその約百九十年後の文禄三年(1594)には跡形もなくなって、その理由が伝わらないのはなぜだろう。今のところ山崩れや大水害で消えてしまったというような伝承は無く、ヌイダの場所は標高も高いので直接の水害は考えにくい。ここまで詳しく伝わっているのであれば、もし全滅するような災害であれば何かの伝承があるはずだと思うのだが。

 

「現大橋集落の氏神様社殿の跡と伝えられる場所に大きな社木の切り株が残り、その下部より清水が湧き出ている。現在は金峯神社に合祀されている。」というのが蔵王権現であり、大橋本村の金峯神社に合祀された後、現在は鎮守の二荒山神社に合祀されている。北野神社を氏神としたというヌイダ村と蔵王権現が繋がるのかどうかは、いつもながら証拠がないが(笑)、水根沢の坐王社との繋がりは、後に引用する『山散歩』の解説からもあると思われる。

 もう一つ、前記事「伊南郷一の宮信仰の姿」に挙げた、伊南村宮沢字七久保に祀られた金峯神社と大橋の金峯神社を繋ぐ根拠になるかも知れない。同時にそうであれば尾白山の信仰が「蛇王権現」であることの傍証ともなりうる。

 

当ブログ初期に「オセンコロバシ奇譚」で取り上げ、移動民が運び伝えたと思われるとした、オセンコロバシの地名は、このヌイダ村があった地点の川沿いの地名であることから、ヌイダ村大塚氏が移動民だった可能性がある。村ごとの移住ならば特別な伝承が残らないことの説明がつく。移動民は自分の村の祭りを盛大に行うことが知られる。放浪の神楽や芝居の一座を一定期間買い取るなどもしていたかもしれない。この件は別な機会に詳しく述べたい。大橋集落については再度、伊南川西岸の街道と合わせて考えてみたいので大新田に戻ろう。

 

「昔、伊南川(が)大新田(の)山際を流れし頃、川床浅く木伏、水根沢、大新田の人々が(徒歩で)通っていたらしく、今も所有地があるという。」(前掲書、()内は筆者補足)この伝承中にある「伊南川大新田山際を流れし頃」という記述にある「昔」がいつ頃のことか特定されていないが、『文禄三年七月猪苗代・南山・津川・伊南伊北高目録帳』(1594)によると伊南鬼田(おにた)百十六石二斗とある。」(前掲書)文禄三(1594)年に他の村と遜色のない収穫量を有することから見ると中世末には村の規模は整っていたことが推察できる。この「昔」の地形は、それ(文禄三)よりよほど昔だろうと思われる。

 

自分が覚えている現代の地形からはかけ離れた村の姿が浮かび上がってくるのは、面白くもあり奇妙でもある。大新田の下流域、山口との境には河岸段丘端のジュウサンブツという地名に十三仏塚が祀られ、現国道401号線から一段高い場所に見える。三基が現存して史跡に指定されていて、水難除けの為に作られたと伝わる。その横には経塚という地名も残り、通称イシンギョウサマと呼ばれていたが、平らな小石に一文字が記された一字一石塚が出土した(通称地名の大切なことがわかる)。同所に水除け稲荷が祀られた祠もあった(現在は移転)。先人の水害に対する祈りの強さが窺われる。同時に塚を強調する祭祀には、時代をまたいでヌイダ村(大塚)の影響が現れているような不思議な符合も感じる。大橋村の枝郷としてのヌイダ村の分村が大新田ではなかっただろうか。

 

十三仏の村境寄りにはドウロクジン(道陸神・地名)があり、その段丘下には塔場下(とうばした)の地名がある。この段丘上は上州街道が通っていたとされる。解説は十三仏の塔場としているのだが、トウバシタを普通に解釈すれば卒塔婆ではないかと思える。舘岩村『郷土史』の著者である星文吉氏はその著書中に、死者を弔うのに墓石を用いるようになったのは(舘岩では)近世初期のことで、それ以前はどうしたものか、との疑問を呈していたが、墓石以前に卒塔婆の時期があったことが想像される。もちろん塚に卒塔婆があっても不思議ではないが、ジュウサンブツの地名があるのにその場所を塔場と呼ぶことに若干の違和感を持つ。むしろ元の意味が忘れられてから宛てられた漢字表記に従った解説と思えるのだ。時代を遡ればそこは死者を埋葬した場所ではなかったか。

 

大新田の山にコオモリヤマがあって、解説は無い。漢字表記は小栗山だが到底読めない。コオモリが修験などが籠ることをいったかと考えてみるが、それらしき伝承もないし修験が籠るなら霊峰唐倉山が近い。蚕の卵を冷温で保管するなどした風穴(かざあな)があるので、蚕守(こもり)があるかとも考えるがまだ他に見ない。(山口につづく)