現在南会津郡の東部、下郷町、田島町方面から西部の桧枝岐、舘岩、伊南、南郷の各村、只見町への主要交通路は田島滝ノ原から舘岩森戸へ通じる中山峠(R352~R401)、同町針生から南郷の山口へ通じる駒止峠(R289)、同町高野から大沼郡昭和村を通って南郷の界に通じる新鳥居峠(R401)などがある。このうち駒止峠は越後への便に都合がよく、近世からは主要街道として山口を発展させてきた。現在はトンネルによるバイパスで30分ほどで結ばれているが、私の父の時代までは徒歩で峠を越えていたことは前記事「入小屋湖伝承から(東・中小屋)」でも記した。伊南村多々石から田島町針生に通じる現戸板峠はやはり古くは主要道だった。そうであるからこそ戸板峠と駒止峠とには異称やそれにまつわる異説も多いので紹介してみる。
名探偵コナンは「真実はいつもひとつ!」とのキメ台詞で始まるが、「ち名探偵」の私はそれに、「とは限らない!」と続けることにしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%92%E6%AD%A2%E6%B9%BF%E5%8E%9F
駒戸湿原 ウイキペディアから拝借しました。昨年の台風で現在通行止中
①『会津の峠(下)』(歴史春秋社)に収められた安藤正教(安藤紫香)の稿によると、「古くは大峠と呼んでいた。針生側に今も小峠と呼ぶところがあるので小峠と大峠の二つに分けていたのかも知れない。この峠を箕の輪峠と名づけられたのは尾瀬大納言が長寛二年(1164)ここを通られたときに、大峠とはどこにでもある峠だとして箕の輪峠と名づけられたと言われている。」
その後、治承四年(1180)高倉宮以仁王がこの箕の輪峠に落ちてきた際に、峠の険しさに馬が歩みを止めたことから駒止峠と呼ぶようになったとされる。
(大峠→箕の輪峠→駒止峠)(これは現駒止峠の変遷として述べられている・筆者注)
②『伊南村近代百年史』(伊南村村史編纂委員会)の記事によると、「古来より東部上州方面より西部への交通の要路は、多々石入箕の輪峠を越えたので、(中略)長寛二年十月七日、人皇七十八代二条天皇の頃に、尾瀬大納言藤原頼国郷が従者十二人を伴い、針生三本松より村司弥籐次が屈強の者五人で案内し伊南里へ越さんとして箕の輪峠に差しかかった時に、はるか南の方に富士(燧ケ岳)の英姿が聳えているのに目を止められ、駒を止めてしばらくご覧になり・・・」歌を詠んだ。それがもとになって駒止峠と名づけられたとされている。
さらに「当時は(現駒止峠)を北駒止と称し、箕の輪を南駒止と呼んでいた。」しかし北駒止の利用が盛んになり南駒止は利用されなくなり「駒止の名称は北駒止が独占する現在となった。」と解説している。()内は筆者補足
(箕の輪峠→駒止峠→南・北駒止峠→現駒止峠)(これは現戸板峠・同)
③前出『会津の峠(下)』の「戸板峠」の稿に酒井淳は天明八(1788)年古川古松軒が幕府巡検使について廻った『東遊雑記』の記述を引いている。「針生を出て針生峠という大難所の坂有りて・・・(中略)・・・また山口村に男天狗岩・女天狗岩・・・(後略)」(戸板峠を越えたことになっているが、大難所の坂といい、山口の記述といい、この旅行記の記述の流れは現駒止峠ではないか。針生峠=駒止峠?)
「戸板峠は田島町の針生から駒止峠の西を登って伊南村の多々石から古町にでる峠である。駒止峠にバス運行前は伊南村の人達が田島へ出る時に通った道であった。」
「なおこの峠を田島の方では大峠とも呼んでいた。」
(大峠=戸板峠)
④『伊南村史・通史』には「明治二十年ごろに作成された古町の路線図によれば、現在の農協周辺を起点とし、この峠に向かう道を蓑輪線と記している。」として、「現在この峠の名称は戸板峠となっている。これは針生側に流れる戸板沢に由来すると考えられる。」
(蓑輪線→戸板峠)
⑤伊南『季刊・郷土研究・第三号』に、大山孝貴の「遺跡を尋ねて(二)」があり、貞享四(1687)年、長谷部友厚の手記『南山雑考』から「南、沼田峠より中山峠、箕の輪峠、鳥居峠、八十里峠で包まれた中を南山と云ふ」を引いて、「そこで右の箕の輪峠と云ふのが現在の戸板峠、中古の駒止峠、大昔の箕の輪峠である。」と記す。同時に「多々石の一番奥地が箕の輪と総称されている。形状が北は大宮村(南郷)、東は桧沢村(田島町)、南は舘岩村でちょうど縁のように北東南が嶺で囲まれ、西方が開放され、且つ土地が低く平坦で丁度箕の形をしている。つまり一帯の土地が箕の輪と云い、其の上の峠が箕の輪峠と称せられたと解している。」
(箕の輪峠→駒止峠→戸板峠)
このように諸説ある駒止峠だが、これらの記事にはそれぞれ取り上げるべき点はある。もとより千年以上の歴史を考えると、往古のルートはわからないし、集落の位置自体が変わっていたり消えた集落もあるだろう。しかし歴史を記録しようとする先学の思いを推察しながら、僭越は承知でその議論に加わるのは楽しいことだ。先学たちの議論に加わって後出しじゃんけんをする(ズル)。しかも彼らに咎められることはない(謝)。
小峠の地名があることから大峠との対で考える①の考え方には賛成だ。しかし、せっかくの地名考察が徹底していないため、大峠がどこにでもあるから、箕の輪峠の名称をつけられたとするあたりで根拠が不明になる。また針生の「駒戸山」という地名に触れていない。尾瀬大納言によるそんな改名があるとしたら「余計なお世話」というものだ。しかし、「どこにでもあるから改名する」という認識は広範囲の移動によって得た知見によるものといえるので、「大峠」が地名として不都合になった時期は、複数の大峠の存在を多くの郷民が知っていたことを示すといえる。それがいつ頃でどのような時代か、単純で難しい問題が見出される。小峠の地名が今も残ることも重要だ。
②の物語部分は①と同じで、語り物になりすぎている感がある。特に燧ケ岳を富士に見立てるのは方角的にも無理があるし、そもそも京の人にとってめったに見ることはない富士が、しみじみと郷愁を誘う山になるかは疑問だ。しかしそれはともかく、駒止峠が南北二つの峠に使われた時代があったという記事は示唆に富んでいる。伊南郷の中心地であった多々石、古町からの通行に有利な街道であった箕の輪峠が、貴種流離伝説の舞台になるのは頷ける。この伝説が箕の輪峠と①に同じように伝わっていることも興味深い問題だ。
③の古川古松軒からの引用にある「針生峠」の呼称は特異なものだが、峠は地域によって呼称が変わるということの証拠でもある。「針生峠」という呼称は実際に針生に住んでいる者には使えないもので、多くの峠の起点になっている針生では、保城・箕の輪・駒戸・戸板などの具体的な峠名でなければ生活上で機能しない。古松軒が針生峠の名を記したのがどこだったか知る由もないが、実生活でここの峠越えをしたことのない者から聞いたのではなかろうか。
さらに酒井淳は田島側では「大峠とも呼んでいた」としていて、戸板峠と大峠の呼称が併存していたことを記していることに注目したい。街道が始点と終点でそれぞれが向かう地点名で呼称を変えるのはよく見られる。南会津で上州街道と呼び上州では会津街道と呼ばれるように、到着地の地名を名にすることは、峠にも当てはまる。大峠を古い時代のものだと思うのは、目的地のない地名だからだ。
④の蓑輪線という路線の呼称は「古町の路線図」とのことなので、村内だけで通用する路線呼称の可能性があり何とも言えないが、箕の輪に行き着く道、つまり目的地が路線名となっている例でもある。箕の輪を蓑輪とも記していたこともわかる。
⑤の大山孝貴の説は、歴史を地名と結んで読み解きたい私には魅力的に映る。「箕輪」の地名は、『地名用語語源辞典』に、「①東日本で中世山の上に築かれた城塞・砦の麓に山裾を取り巻く形で発達した村落。根古屋、堀之内などと同じく城下町の先駆形態をなす豪族屋敷村か。②ミ(水)・ノ(助詞)・ワ(輪)で、河川の曲流部、海岸の湾入部などに沿った半円形の地を示すか。」とした後に「①、②の場合とも、農具の箕の縁の湾曲に見立てたものか。」(と解説している。
こんなに回りくどく言わなくても、大山の箕の輪の解説は当を得ている。三方を山に囲まれた西南向きの緩傾斜地は、時代を問わず生活していくのに適した地形だ。大山は大正年間に多々石入の穂積開墾地の開拓に携わっていて、その地で平安末から鎌倉期と思われる屋敷跡三軒と、朱を保存していたとみられる壺を発掘していて、記事はその遺跡と遺物から郷土史を考察したものになっている。発掘品はその後某大学教授に請われて渡したまま、結果の報告を受けていないと記されている。在地の農民学者が提供した遺物がこのような顛末になっている例は数知れないことだろう。二重三重に残念なことではある。その穂積開墾地の上が箕の輪であり、多々石入のその地域を総称して箕の輪と称していたようだ。手持ちの1/25000『伊南村管内図』にはそれらの地名は無い。
多々石が河原田氏以前の伊南郷の中心地であった(前記事「二人の伊南の神」参照)ことや、大山の発掘品が平安末から鎌倉期のものと推定されること、そしてその地域の地名から、箕の輪峠は戸板峠の古い呼称であることは疑えない。しかし大山が「現在の戸板峠、中古の駒止峠、大昔の箕の輪峠である。」と小気味よく断定することには「とは限らない」の一言を差し込みたい。田島側から概念的に呼ばれていた大峠と、そこを通行した人々によって呼ばれた箕の輪峠は、併存していたとも考えられるし、近世までそう呼ばれていたことは、大山自らが引用した貞享四(1687)年の手記が箕の輪峠を取り上げていることでわかる。箕の輪峠の呼称の時代を「大昔」と断定することには矛盾があるだろう。
これらを組み合わせて呼称の変遷を整理してみると、下のようになる。
現在の駒止峠: (小峠)大峠→箕の輪峠→北駒止峠→駒止峠
現在の戸板峠; 大峠→箕の輪峠→駒止峠→南駒止峠→戸板峠
針生峠はどちらを指すか曖昧
各説とそれについての私見を述べて、さて、「・・とは限らない」の妄想部分へと踏み込んでみよう。
まず大山孝貴の説の「大昔」の呼称に「大峠」を加えておきたい。そしてこれは田島側からの概念的な呼称と考える。図の地図(大正時代)での小峠の位置は、針生から多々石に向かう戸板峠の手前にある。小峠、大峠を通って箕の輪に到着する。
大正期の地図 橙が戸板峠、中央橙〇は小峠、黄丸が駒止峠頂上黄線が針生への通路
そして次に箕の輪峠となるが、これは大峠と同時に使われていた可能性がある。箕の輪峠の呼称は、箕の輪を目的地とするので、田島側と舘岩側との両方から使われていたか。尾根筋を使った比較的なだらかな峠であり、広範囲にわたっての呼称だったように思える。
駒止峠は江戸時代までは駒戸峠だった。『新編会津風土記』の表記は駒戸峠で、旧駒止峠の工事の落成を祝い、高倉宮以仁王の故事に倣って「明治二十一年から駒戸峠は駒止峠と改称された」(『南郷村史・民俗編』)との記事から、もとは針生の字駒戸山の地名(山名)が峠の由来である可能性が考えられる。しかし駒止峠がいつから街道の役割を持っていたのかは『南郷村史』もわからないとしている。そして現在はコマドメ峠ではなく、コマド峠と発音されているが、まだコマドメも併存しているかもしれない。これは明治に漢字と読みが改称されたものの、次第に呼称が旧称のコマドに戻っていったものか。
現在のところコマドそのものの地名解釈ができないでいる。駒の漢字をそのまま馬と見ることは考えにくい。馬の産地ではあるがマギやマキの地名になることが常識的だ。長野県のシロウマ岳のような雪代や伊南にある間通戸や岩間戸のようなマトが硲の地形地名かもしれない。ここに関する伝承を見出せない。
ここで戸板峠の名称についても考えてみたい。『角川地名』戸板峠の頁には「伊南側からは戸板沢を、針生側からは戸板川をそれぞれさかのぼった所にある。」として戸板沢・川を命名の由来としている。しかし25000/1『南郷村全図』を見ると、針生から戸板川をさかのぼると戸板峠を多々石入に向かうが、多々石側から戸板峠の途中を西寄りに分かれ、戸板沢に沿って下ると駒止峠の西麓に向かうことになる。源流が違う別の沢で、そこは木地師の住んだ戸板集落だ。
峠の命名に関する編年に関係させてみたいのが、宝暦六(1756)年に木地師が住みついたとされる駒止峠の西麓の戸板集落で、安永四(1775)年には十四戸あったと記録されている。規模からは立派な村と呼べる大きさだ。「トイタ」という地名は、全部ではないが、トは「トル」の省略として、イタはイタムの語幹で「損なわれたもの」として双方とも崩壊地形を示すものか(『地名用語語源辞典』)とされている(他にも解釈はあり)。駒止峠周辺では、多々石入に発する戸板川が針生に流れて桧沢川に入るが、その西側の尾根を越えた小屋川の上流部にも戸板沢がある。戸板集落は後者にあった。そこは現在の駒止峠の西麓で、「トイタ」が前述の地形地名なら、そういう場所は多くある地域なので紛らわしい。
その木地集落はそれ以前には峠の東麓で活動していたという。西麓に40年ほど住んだ後、寛政七(1795)年に多々石や舘岩の保城に移動した。戸板峠と戸板川、戸板沢と戸板集落がそれぞれ組になっていて、二つの組には地名的に関連がありそうに思えるのだが、戸板集落の存在は近世の僅かな期間のことで文献上も関係を示すものはない。というのが定説のようだ。
しかし駒止峠東麓に行き着く戸板峠の枝道が分岐して、駒止峠西麓に行き着くのであれば、目的地を戸板集落として、そこも戸板峠(枝道)と呼ばれるだろう。現在の地図で等高線を追うと、比較的歩きやすそうな地形のように見える。加工した木地を負って運ぶには、険しい駒止峠を越えるより、山腹に道をつけて比較的なだらかな戸板峠の本道に接続する方が、運搬には容易だったのではないかと思われる。戸板峠、駒止峠を繋いで歩く木地師の道が古戸板峠として存在したことで、後世峠名の混同が起きたとは考えられないだろうか。この枝道を想定することにより、戸板峠=駒止峠であること、南北の駒止峠のあったと伝わること、以仁王伝説のスライド現象が説明できる。消えた木地師集落を起点にして、二つの峠が繋がっていた。この仮説から考えると、枝道の戸板峠は戸板集落まで、そこから針生集落の北側を回る峠が駒止峠で、到着地点は針生の字駒戸山となる。この峠道を越えることはない多くの郷民にはわかりにくい接続だろう。まして戸板集落が無くなってしまえばなおさらである。
青線が妄想の戸板峠、枝道終点が戸板集落のあたり
貞享から天明までの約百年間に主要街道が戸板峠から駒止峠になり、天明五年に山口に道標が建てられ、天明八(1788)年には、針生から伊南郷に幕府の巡検使が通った。越後と関東を繋ぐ近道となる。大山孝貴の引いた、箕の輪峠を主要道としている「貞享四(1687)年、長谷部友厚の手記」と、山口三方口に天明五(1785)年に建てられた、駒止峠の街道を「江戸海道」とされた道標の間には約百年間の開きがある。そして古川古松軒が天明八(1788)年幕府巡検使に随行して旅したのは、山口三方口の道標建立の直後であることと、「針生峠」を大難所の坂といっていること、戸板峠=駒止峠の混同から現在の駒止峠と考えておく。(ここに関する引用は『会津の峠』の孫引きをもとにしているので自信なし。)
戸板峠は伊南郷からの人が利用する道になっていき、主要道としての存在感は薄くなっていったのだろう。『新編会津風土記』の針生と多々石に戸板峠の記述は無い。戸板集落が保城と多々石に飛び(移動すること)、人がいなくなれば、枝道の古戸板峠は山にのみ込まれて消える。そして同じ戸板を冠した針生の戸板川だけが戸板峠の地名由来になっていったと考えられなくはない。
木地師が駒止峠西麓に住み着いてから山口の三方口に道標が立つまで約三十年、それ以前には東麓にいたと伝わることから、この間に彼らはその山域を踏破し必要な木を切り倒し、木地にして運び出した。そのほかに薪炭材も伐る。そのためにその十年後には入小屋本村(東)と争って舘岩保城や伊南多々石に移っていった。入小屋村との争いが無くとも、一か所に40年は長い部類に属する、本来それが宿命の職能だ。しかし一方で、彼らが活動したことによって、杣道のようだった駒止峠が街道化する下ごしらえができたことが想像される。彼らが西麓にいた40年間と峠の反対側に住んだそれ以前の期間とにわたって、踏み固めた道をもとに街道化の可能性が高まり、駒止峠の開削工事が進められたと考えると、「江戸海道」道標のタイミングや戸板峠から駒戸峠への主要道の移動と峠名の変遷が、木地師の運んだ以仁王の伝説と共にこの百年間に醸されたと想像することができる。もちろんこれも「とは限らない」。(今度こそ山口につづく)


