古代妄想 伝承 地名 歴史 -17ページ目

古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

山口村は伊南川西岸の狭い河岸段丘上にある。「東西三十間(54m)南北一町三十九間(190m)東は山に()り西は桧枝岐川(伊南川)南北は田圃なり」(『新編会津風土記』)

北にのびる小名、(しも)山口(やまぐち)が東西二十五間(45m)南北一町五十間(162m)山麓に住す

北へ三町三十間(378m)に「端村板橋(いたばし)東西三十間(54m)一町四十二間(183m)山麓に住す。」

さらに板橋より北に二町二十間(252m)行った所の端村、(だい)(台)は二区に分かれていて南側が東西四十間(72m)南北一町(108m)、三十間(54m)離れた北側に一区、東西二十間(36m)南北三町(124m)、(みや)(とこ)村まで二十町というから、東西方向は約50mの居住地と田畑。その何倍かの幅の河原があり、南北は伊南川東岸の山麓にへばりつくような約2.1kmの細長い村落となっていた。

写真上が東方向   左が台・板橋、中央が大石沢    右が山口 右に小屋川、左が町屋沢  中間の空白は写真欠(『山散歩』より)

 

西側の越後山脈を越えてきた湿った雪が平均で2~3m積もる地域であり、春の雪解け時期と台風などによる大雨の際には、現在とは比べようもないほど川が荒れた。私の記憶しているのは護岸工事もされた1960年代後半からのものだが、当時の橋は吊り橋もあり、現在より道も低かったので川面は近かった。雪解け水の川は青みがかって分厚く、ドウドウと流れていたし、大雨時の濁流のゴウゴウという音は圧倒的で、激しく波しぶきを上げ、普段は子供らが遊ぶ川原は、濁流が幅いっぱいに堤防に寄せて川端の柳は水没し、流れてきた草木がそれにひっかかってさらに波がしらを高くしていた。出水の時の流れは、見ていると目が回って吸い込まれそうな感覚がある。しばらく見とれていて、そこから視線をあげると、山が揺れて見えるのが不思議で面白かった。

 

山口の(あら)(まち)下荒(しもあら)(まち)は現在の川をまたいで下荒町が飛び地となっているが、元は陸続きの一つの地名だったものが洪水の流路変更で分断されたため、川向こうを下荒町とした(『ふるさと南郷・里の散歩道』)とある。(がけ)河原(がわら)堀切(ほりきり)中河原(なかがーら)砂吐(すなはき)などは山口中央部に東の駒戸峠からの小屋川が伊南川に合流するあたりの氾濫原に分布する地名で、その合流地点もかなり移動が頻繁なようだ。現在の小屋川は山口の中央部から西流して伊南川に合流しているが、『新編』の記事には、現在台の南端にある(とり)井戸(いど)橋で伊南川に合流する大石沢(おおしざー)が木屋川に合するとあって、山口から山沿いに北流している。その間に山口の町屋沢(まっちゃざー)と板橋の濁沢(にごっつあー)を合わせて水量を増している。山口では西の山際を流れた伊南川が蛇行し、約1km下流では東の山際を流れる小屋川と合流する。このような段丘下に水田を作るのは大変な苦労だったことが偲ばれる。そしてこの段丘上の狭小な地面で村がどのように営まれていたのか、なぜこのような細長い村になっているのか、妄想の材料はありそうだ。

 

さらに山口村には、宮床との境に端村の北原(きたばら)があったと言われていて、「何の頃にか端村(だい)に移せり」(『新編』)とだけ記されている。その端村北原の鎮守と思われる鹿島神社が台の若宮八幡に合祀されていて、台の北端に鹿島下(かしました)の地名も残り、ここを流れる地蔵(じぞう)沢には出水のときに地蔵様が上流から流れ出して、それは現在、台の南端に祀られる延命地蔵とも言われている(現存の石仏は文政三1820年なので付会か)。北原は『新編会津風土記』の編纂された時代(19世紀初頭)においても伝承だったことがらであり、寛文五(1665)年の『伊南郷村々改帳』にも無いが、戦後の耕地整理の際、地下六尺(1.8m)から稲の株が発見されたり、鎌倉時代のものとされる手鏡が出土したりしていることから、中世のいつ頃かに鹿島神社を祀り、手鏡を使った女性が北原に居住したこと、山崩れか大水害によって集落が流されたか、埋没したことは確かなことに思える。

 『新編』の「何の頃にか端村臺に移せり」という北原の記述を信じるなら、端村臺の少なくとも一部は(二区あるので)端村北原が移動してきたものと考えることができる。

 

横道にそれてしまうが、この南郷村の神社を調べようと探し出してきた『南郷村郷土誌資料』は南郷村鴇巣の先学である安藤紫香氏によるもので、第一巻の『唐倉山の伝説』(前記事「唐・穀・柄倉山」参照)

は昭和三十六(1961)年に書き始められたようだ。2,3巻を欠いているが、4巻から7巻までを「農山村における信仰」(一)から(四)として、実に細かく鎮守、氏神、家神、石祠、寺と仏像、お堂、道祖神などを拾い上げていて貴重な記録になっている。その始まりである(一)には第一章第一節に「講ごと」の概要が挙げられ、この時代にはすでに信仰から離れてレクリエーション化しつつある講ごと全体や、消えかけている講の実態や由来を後世に残そうとする強い意図が感じられる。第二節の「信仰から来た講」で、一の恵比寿講から、山の神講、熊野神講、庚申講、伊勢講、地蔵講と続き、十七の古峯講までが取り上げられている。さらに第三節「信仰以外の講」、第二章第一節「迷信」、第二節「病気平癒祈願」、第三節「呪術」では狐踊り、コックリさんまで拾っている。

ネタ本。1961年第一巻、第九巻は1969年

 

平成十(1998)年発行の『南郷村史・民俗編』では、多くの地方史と同じく、「年中行事」の章に入っているこれらの「講ごと」を、信仰についての記録のはじめに持ってくる構成に、頭をひっぱたかれた気がした。大正七(1918)年頃の生まれと思われる安藤氏は、一人の村民として村の信仰を生きた人でもあり、村史に関わった多くの学者の誰よりも実際の「信仰から来た講ごと」を体験していたわけで、自らも中心として関わった平成時代の村史編纂で、これが「年中行事」にくくられたことについては、やむを得ない思いと同時に、寂しい違和感も持ったのではないだろうか。安藤氏の体験し、残そうとした信仰の形は「マツリ」が「祭り」、「祀り」、「政」、でもあった時代のものであり、それは領域の山、畑、水の管理などの自治から青年の通過儀礼、嫁の集落への融合、子供の自立、老人の親睦や慰労といった教育や福祉まで、あらゆる年齢と職種、階層を含み、昔の村落共同体の維持に関わるすべてのことがらを、信仰を軸にして抱え込んでいる。単なる「年中行事」という表現では物足りなかったに違いないと思う。

 

このことは、誤解を恐れずに言えば、日ごろ私が思いつくような「信仰」についての神社や祭神、寺の宗派や仏像などは、安藤氏の考える「農山村の信仰」の核心からすれば、所詮「軸」でしかなく、軸に巻き付く内容が失われた「信仰の跡」に過ぎないのかも知れない。「講ごと」を始めに据えた方針は、郷民の確かな感覚だろう。信仰の「軸」については『農山村における信仰(二)』で各村の鎮守様からという形で取り上げられる。


私自身の思い出の中でも、小学三年生頃まで行われていた昔ながらの天神講の記憶があった。部落子供会の高学年が子供らをまとめて春は山に入ってわらびを取り、秋は収穫期の田でイナゴを取って農協(?)になにがしかで引き取ってもらい、天神講の費用に当てていた(らしい)。晩秋には子供のいる家を子供会の会員が回って米やもち米を集めて当日の食べ物にした。当日天神講の宿になった家では子供達は当屋の座敷を占拠して無礼講となり、いつもなら叱り飛ばされるような夜の大騒ぎにも、大人たちは笑って許してくれていた。子供たちにすべて任されて行われ、親たちはあくまでも補助をするだけだったように思う。その場の高揚感はうまく比喩することができない独特のものだった。安藤氏の残したかった村の講ごとの記録も、大人社会の中でのそのようなマツリのニュアンスだったのではないかと推察する。残念ながら現在からでは、安藤氏の時代の講ごとの持っていた、生活と結んだ「マツリ」の持つ熱や肌触りは想像するしかないとしても、神社の境内や川端や路傍におかれた石仏、石塔、お堂の背後に、現代の一般化された対象としての「信仰」とは違う、古代からの郷民の生活が分厚く層をなしたような「マツリ」があったことは忘れてはならないだろう。


平成の『村史』でこそ「信仰」の章のはじめにおかれている神社や祭神だが、それは村民の信仰の象徴ではあっても、生活の中に信仰が生きていて、村民の自治があらゆるマツリを通して行われていた時代の、信仰と生活ではないことに気付かされた資料となった。同時に安藤氏が、信仰の要素が少なくなりレクリエーションの要素が強くなっていることを強調していることには、前者には同意しつつ、後者については信仰が生まれる(広がる)始まりの頃から、ハレの日の特質としてレクリエーション(遊び、騒ぎ)の要素は不可分であったのではないかと、疑義を呈しておきたい。今でいう「前向き」に生きるための栄養として(それがお上の統治に利用されたとしても)、悲しみや苦しみと対極をなすマツリは、初めから信仰と切り離すことはできないものだった。個人を中心に考える時代においても、マツリは色や形を様々にしながら永遠に続いていくことは間違いない。(横道にそれたまま2へつづく)