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古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

  山口の鎮守は熊野神社で、比高10mほどの河岸段丘の突端にある。現在崖下には耕地や宅地が広がるが、熊野神社が鎮座する段丘の南には、水害から子孫を守るための川除け墓とされる村の墓地があり、神社ともども段丘上に水害が及ばないことを祈った跡が残る。名称は明治期に熊野大権現が熊野神社に改められたものだ。「熊野神社は元下山口寺町にあった(旧大宮村役場跡)二荒山神社が寄宮をして合祀していたが明治維新の時、神社仏閣の統制令により、熊野大権現を熊野神社と改名し現在に至る」、「明治三年七月吉日天朝の命により仏具を取り払う。」(『南郷村郷土誌資料5』)

 

祭神はイザナギ、イザナミの二尊となっている。そして宝物として「本尊 釈迦牟尼仏 木像10センチ」とあるのは、明治期の廃仏行政による歪みと、「取り払う」に忍びなかった村人の意志の双方をうまく残している。諾冊二尊を祀るといいながら、本尊を「宝物」の名祠とした、隠れキリシタンのマリア観音を思わせるようなアイデアには感心する。宝物を届け出る必要はなかったのだろう。伊弉諾の垂迹が釈迦如来であることから、「宝物」は熊野神社の「本尊」であってもよいわけだ。

勧請は承応三(1654)年とされている。この記事中に、もと二荒山神社が祀られていた下山口の「寺町」の地名が残されていることから、二荒山神社が寺だった可能性も考えられる。両神社とも修験との由縁が強い神仏習合の神社であることから合祀されたかと思われるが、この合祀の経緯はわからない。

 

下山口愛宕山の祠
 

中のお地蔵様  勝軍地蔵像ではない?
 

日光二荒山神社は採鉱民との縁も深い神社だ。山口の端村だった台には大宮鉱山(山口鉱山)があり、近代では大正二(1913)年頃から、休止時期を挟んで昭和四(1934)年、同16(1941)年から戦後の昭和25(1950)年頃まで採掘されている。『村史』によると「大宮鉱山がいつのころ発見されたか定かでないが、明治から大正にかけて幾人かの山師と呼ばれる人たちがこの村に入ってきて採鉱を続けた。」ともあって、鉱床自体はかなり昔から知られていた可能性はある。鉱物は赤鉄鉱、黄銅鉱、閃亜鉛鉱、方鉛鉱を含む黒鉱鉱床、銅鉱床である。

 

山口の対岸の大橋にも二荒山神社があり、蔵王権現も合祀される。大橋と伊南村大字青柳との境の金山かねやまには銅鉱石の発見を端緒とした岩代金山があった。昭和六(1936)年操業するも、銅の含有量が少なく採算が取れず閉坑した。この金山については伊南村の前記事「04 小塩の焼け焦げやくっ様」に引いた『季刊 郷土研究』第三号の加賀谷氏の金山探訪記事もある。

 

 

下山口に採鉱者の求心力として二荒山を祀る寺が存在していた時代があったとするなら、それが後世に熊野大権現に合祀(寄宮)される背景には、採鉱民の移動や衰微で寺を維持できなくなった等の事情があったかもしれない。時代の要求に乗った勢力のある新来の神に、力をなくした古来の神が合祀される例は数多い。もしこれがその例ならば、その事情を伝える地名や伝承はないだろうか。たった一つ「寺町」の地名が記録にあることで、こんな妄想が膨らんでいく。

 

もう一つ「二荒山神社(下山口の氏神)を寛文十二年(1672)年」に熊野大権現に寄宮して祭っていた。」(『南郷村史・通史』)という記事の年代にも引っかかる。寛文から延宝に全国で行われた幕府の検地と、この村の神社の建立の年代とが関係している形跡があり、検地による農地面積や石高の確定と、神社社地(免税地)などとの関連なのか、あるいはまた、藩主保科正之によって寺社統制を兼ねた『寛文会津風土記』が編纂された時代でもあって、田島町中荒井の二荒山神社はこの時期に熊野神社に改名されていることから会津藩内だけのものなのか、近世歴史学に明るい方に教えを乞いたい。

 

疑問は『南郷村郷土資料5』に納められた村々の鎮守様の建立年や勧請年に延宝三(1675)年が極端に多いことからだ。下に残されている記録をあげてみる.

 

1.木伏・於加美神社(建立) 八竜神二座

2.水根沢・日吉神社(合社/勧請) *山神、稲荷神、山王神、八王子神を合社。

3.大新田・北野神社(建立) *宝物の爵木に、正暦四(993)年木伏蓮華院が護摩を焚いたという記録は、菅原道真が一条天皇により正一位を贈位された年であり、この地で奉斎した年号ではないだろう。(**大宰府天満宮創建・延喜十九(919)年、北野天満宮創建・天暦元(947)年、湯島天神勧請・正平十(1355)年)

4.大橋・二荒山神社(勧請/建立) *下野国日光山より御移 奉勧請日光天神

5.東・柄倉神社(勧請/建立) *延宝三年前は三倉大明神を祭る。

6.台・若宮八幡神社(建立) *以前は詳らかならず延宝三年三月に若宮八幡と称した。

7.界・三嶋神社(建立) *延宝三年に三島大明神と山神神社とを併せて祀る、三島神社と称しているが山神を祀るようになっている。

8.片貝・於加美神社(建立) *延宝前詳らかでないが、熊野大権現と八竜神を此処に合社した。

9.下山・鬼渡神社(勧請/建立) *下山上坪の産土の鹿島神が明治に鬼渡と改称された。下坪の熊野神を大正十年併せて祀る。境内に鹿島の要石がある。延宝三年勧請の記録は熊野。(『南郷村郷土誌資料5』)

 

これらがすべて勧請/建立を延宝三年三月吉日としている。さらに宮床・稲荷神社は山口・熊野神社と同じ寛文十二年建立とされている。寛文以前祀られていた山神と八竜神を併せて稲荷としたとある。

鴇巣と富山と和泉田(小野島含む)以外のすべての鎮守が延宝三年(九社)か寛文十二年(二社)に勧請/建立されている。但しこの勧請や建立は村の神を合祀したことによる社名の変更にともなった勧請という形のものが多く、祭祀自体はそれ以前から行われている。もう一つの共通点は、大橋以外、他はすべて伊南川東岸(右岸)の村々であること。同じ法印が祭祀に巡った範囲を示すのか、いずれにしても、1672年から1675年の間に十一社の勧請・建立が集中していて、それが慌ただしく合祀、改名されていることは、検地との関連でこうする必要があったからだと考えない方が難しい。まるで日本の寺社開基にまつわる「大同二(806)年」*註のような状態になっている。

 (*註;古い寺社開基や霊峰開山の年代に「大同二年」が多いことは有名で、近くは河沼郡柳津の円蔵寺(虚空蔵様)、磐梯町の慧日寺、筑波山中禅寺などなど数多い。興味のある方は調べてみてください。谷 有二著『山の名前で読み解く日本史』など参照)

 

先述の安藤氏の『南郷村郷土誌資料5』では由緒として「合社:明治三年七月吉日(1870年)二荒山神社は熊野神社に改名される」とあり、これは二荒山神社が熊野神社へ改名したかのように読める曖昧さがあるが、『村史』では明治の改名を「合祀熊野神社」にしたとある。両方の記事をつなぐと、現在の名称は、二荒山神社を示していた「合祀」が消えて、熊野大権現を熊野神社に改名したことにたどり着く。

『新編会津風土記』には熊野宮の相殿神として日光神をあげているので、この時点で二荒山神社ではなくなっているようにも取れるが、当時の認識として日光神=二荒山神社であると考えるので、表記は気にしないことにする。要は本来の神社が日光二荒山神社の勧請ということの確認で足りる。

下線部は下野一の宮の論社である宇都宮二荒山神社を考える時には大事な認識だと思っている。

 

墓地の一角にある双体仏、左手前五輪塔の宝珠
 

日光二荒山神社ならば、祭神はオオナムチ(大国主)、アジスキタカヒコ、タコリビメの日光三山で、熊野三山と同様、修験によって祀られる神仏習合の神社である。山口と(とう)(のす)の熊野神社の祭神は諾冊二尊になっているが、大本の熊野三山(本宮・新宮・那智宮)は、厳密には熊野神社という名ではないし諾冊二尊が主祭神ではない。熊野三社の神を総称して熊野権現(三所・十二所・十三所もある)とも呼ぶようだが、祭神の様相は全国でいろいろで、伊弉諾や伊弉冉もその中にいる(こともある)。熊野神社にこの二神を強調したのは、国造りの基をなす天孫として取り上げた明治期の国家神道の影響が強いと考えている。

 

もちろん天孫を祀っていることが自然な神社は数多いのだけれど、出雲系の神が集まる神社に一部の天孫が結び付けられ、天孫であるが故に祭神の前面にいることで、本来の祭神がわかりにくくなっているのはよくぶつかる問題だ。山口熊野神社の日光神は「寄宮」社であることや、祭神が天孫ではないことなどから明治以降表舞台から消えていくのだろう。このあたりの様子は、現在の日光二荒山にヤマトタケル(景行天皇皇子)が祀られることや(前記事「祭神と伝承その三(古布)参照」)、宇都宮二荒山神社の主祭神がトヨキイリヒコであること(崇神天皇皇子)、磐代国一の宮、伊佐須美神社のオオビコ(孝元天皇皇子)、タケヌナカワワケ父子にも共通のものだ。大橋の二荒山神社も、その由来に「下野国日光山より移す」とあるのにもかかわらず、祭神を宇都宮二荒山神社の祭神トヨキイリヒコにしているのは、勧請の由来と祭神がかみ合わないことから明治の改編が匂う。田島町荒海川流域の中荒井の熊野神社や、糸沢、福米沢の二荒山神社や他の熊野神社についても改めて調べる必要が出てくる。

 

神と神社によって古代の地域を考えようとして古本や資料をめくると、すました顔の天孫が明治期から150年あまりの歴史の上に居座っているのは煩わしい(老眼鏡をつけたまま遠くを見ているような視界)。それを古い信仰の跡や氏族の動向、持ち運ばれた伝承などによって検証していく中で、視界をクリアにした(と思えた)時に開ける展望の魅力に憑りつかれている(笑)。