郷土の先学安藤紫香氏はその著書『会津における 高倉宮以仁王―貴人流寓伝説の古里をたどって』において、南会津を遍歴した以仁王の伝説を自らの足で丁寧に跡付け、「伝説」と言いながらも、言外にその伝説が史実に限りなく近いものだと言いたい思いを溢れさせている。「以仁王の伝説を真実化する理由は何か。(中略)歴史的な人物を以仁王にもとめて、史実に近くみたてた、当時の集団社会にとり入った目的はなんであったのか。これらはいずれも交通不便な奥地に住み、食料不足な半歳を、この里で生きつづけ、長い長い冬のきびしさと闘いつづけてきた「春を待つ」この土地の里人の心そのものではなかったかと思う。」との里人の思いへ寄せた一文は、そのまま安藤氏自身が幼少期から夢をはぐくんだ伝説に向けたものでもあった。しかし地名を考察するうえでは、以仁王の事績にぶつかるたびに、そこで思考が止まってしまうことは困ったことだ。伝説による地名由来譚は安藤氏の著に詳しいのでひとまず一説として参照したうえで、そうではない可能性について考えてみたい。
山口村の地名は平安末期の承和四年に、駒止峠を降りてきた高倉宮以仁王が、案内の村人に「ここは山の入り口ですか?」とお尋ねになった事績によって「沢口村」から山口村になったという伝承があるが、この村名の変更には貴種流離譚以外にもいくつかの可能性は考えられる。
一つには、駒戸峠に向かう街道としての発達過程に沿った歴史の中で、小屋川の沢口から駒止峠への入り口へと、道に対する認識が移っていったと考えるものだ。前記事「ほとんど川」で地勢を見たように、山口村本村の平地は少なく、細長い河岸段丘の中央に小屋川が、北端には町屋沢が、共に東から流れ込んでいる。小屋川扇状地によって作られた高台が山口村で、段丘下は伊南川本流の度々の氾濫があって耕作は容易ではなかった。そのため扇状地上に田畑を作り、家は沢の浸食を避けた山際にへばりつくように数軒ずつまとまった集落を形成していたと思われる。町屋沢はその北の縁に沿って流れ、欠け落ちた段丘崖を北に落ちて流れる。(前記事「ほとんど川」航空写真参照)段丘から落ち込むあたりの地名ドドクボは水の落ちる所に多くある擬音地名で、ここはおそらく滝だろう。段丘下の地名は欠川原となっている。
江戸と上州、越後への街道としての機能が大きくなってから、山口村は宿場や運輸の要地として発達したもので、これは近世のことになるだろう。
天明五(1785)年の江戸海道の道標が山口に建立される以前、いつ頃から街道となっていたか定かではない(『南郷村史』)とされるが、寛文五(1665)年の『伊南郷村々改帳』に興味深い数値がある。山口村本村が家15軒、馬12匹となっていて、端村の板橋、臺、北原が、合わせて家14軒、馬11匹となっている。耕地が比較的多い大橋が家23軒、馬10匹、同じく木伏が、家28軒、馬10匹となっているのを見ると、山口村の家数に対する馬の数は家数の八割で、大橋と木伏の3~4割のほぼ二倍になっている。このことはすでに寛文期には街道の輸送を生業としていたのではと推定できる。江戸時代初めには街道機能を生かした山口村があったとする推定をもとに、沢口村が山口村に変更された時期を考えることができるように思う。
もう一つは、街道機能が働く以前にさかのぼれる推測(ほとんど妄想)として、古代杣人の信仰が山口村の命名に関わっていると考えるものだ。
『延喜式』神明帳の大和には「夜支布、伊古麻、巨勢、鴨、当麻、大坂、吉野、都祁」など八か所の山口神社があり・・・」(大林太良編『日本の古代10 山人の生業』中央公論社p.390)
「祈年祭の祝詞には「山口に坐す」飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無など大和国の神々に、遠山・近山に生い立っていた大木・小木を伐採して造営した皇孫の殿舎と四方の国の安泰を祈願している。」(同書)
これらは奈良時代から平安時代の殿舎造営の際の大和国の祭祀の様子だが、木材を調達する山の山口に神社を勧請していたことがわかる。神社を作らなくても「山口に坐す」当地の神に祝詞をあげている。郷村ならば山神への祝詞になるのだろう。
「山口はムラ・ノラとヤマを区画する境界であり、したがって両義的で、祭祀が執り行われる聖的な空間であった。」(千田稔「古代日本における土地分類―『山口』という場所をめぐって」『地域―その文化と自然』福武書店)
これらの引用から、「山口」は単に地形や地勢の地名ではなく、古くから祭祀が行われる聖なる場所としての普通名詞でもあったことがわかる。近世以前のある時期に公的な建造物のために沢口村の山から用木を伐採することがあれば、その山への入り口は聖なる山口として祀られたのであり、それが地名を変える理由になることは十分考えられる。
前記事「ぁ・天孫ぷりーず?」で触れた、下山口寺町にあったという二荒山神社のことが気になってくる。地元の役場支所で詳しい人に教えていただいたところによると、「寺町」という元大宮村役場のあった地名の場所は、村北端の段丘上で、町屋沢の沢口になる。地名的にも町屋と寺町で連続性が出てくることは、現在の字「村下」と較べると、沢名との関連性が大きく違ってくる。
当時「町屋」と呼べるほどの集落があったとは、今では到底思えないのだが、『新編会津風土記』には小名下山口と記されて、山口村本村とはやや隔たった所にあっただろう下山口は小屋川によって山口本村と切り離された一区画で、村はずれの伊南川を望む段丘上の寺町に二荒山神社を祀り、町屋沢沿いに村を形成した集落だったと想像できる。さらに二荒山神社が採鉱民に関係するものであったとすれば、鉄製利器による開墾、開発の一般化が進んだ時代の一時期や、中世武士政権の刀剣需要などの理由による短期間のゴールド(鉄)ラッシュにより、町屋や寺町と言ってもいいような村の規模を持ったことがあったと妄想してみる材料にはなる。
鉱山町には「○○千軒」と呼ばれたような一時的な賑わいがつきものでもある。鉱物資源調達については、臺にあった大宮鉱山と、町屋沢をさかのぼって沢が消えるあたりの尾根越しに東(入小屋村)のスガマザー源流部があり、「鉱石のようなものが流出していて昔から魚は住んでいない。」という『山散歩』の解説がある。どのような鉱石なのかは不明だ。また後世でも地蔵沢沿いにいくつかの試掘跡があるなど、古代に鉱物資源のとれた可能性はいくつか考えられる。
町屋沢は段丘を出ると山際を北流していくので、現在の国道は流路にあたる。山口から板橋・臺への道は比高30mほど上の、さらに古い時代の段丘上と山の中腹を使用していた。これは現在まで板橋から下山口の愛宕様への道として残されていて、村人によって細々と除草管理されている。「村を見下ろす高所にあり、大字山口字板橋山に祀られている。」(愛宕様の解説)
町屋沢を渡って段丘を板橋に向かって駆け下る現国道の坂道を、通称「ミヤマヤの坂」と言っていたが、これはかつてあった「ミヤマ屋」という薬局にちなむことは『山散歩』の解説でも触れている。私もこの店と坂の名前の響きや活舌を面白く感じて、よく発音していたので記憶している。「ミヤマ」はその真上にある愛宕様の祀られた山に対する尊称だろうと今は考える。そしてそれは愛宕様が祀られるよりも前から「御山」だったのだろうとも思う。村が作られたときに村を守る神を祀った山であり、板橋との村境を示す道祖神でもあり、古代の街道においては一里塚のような道標の役割もしただろう。
近世の上州街道はほぼ現在の国道289号線と400号線に沿っているが、それ以前の街道は全体に山腹や、場合によっては尾根上が使われていたような形跡がある。現在の上山口にあたる山口村の東に屹立する、断崖の城口山の東側窪にある小栗山沢の解説には「昔の街道であり」という伝承が拾われているが、時代の特定はされていない。板橋から愛宕様を経て下山口へ降りる山道と、上山口から大新田に繋がる小栗山沢の解説にある伝承の街道とをつなぐ、幻の道を仮想すると、現在の集落の裏(東)の山腹や古い段丘を辿って城口山の尾根に続いていたように思える。現国道の位置よりも上流の、小屋川の河床が低く、川幅が狭くなったところに一本橋をかけていたのだろう。中小屋は、はじめ山口村の端村だったことが文献にあることから、古代の道はこの推定よりさらに山側にあったことも考えられる。
この幻の古代街道を板橋から北に延長していくと、台の南にある大石沢左岸の高台にあるのが臺・板橋の鎮守様、若宮八幡宮となる。山抜けで失われたかと伝わる北原の鹿島大明神を合祀して、祭神はオオササギの尊(仁徳天皇)=(応神天皇の御子神)となっている。『新編会津風土記』にも同様の記載があり、ここには明治の廃仏の痕跡はない。しかしこの神社の鎮座地の地名が「大字山口字山神堂」だとわかると、在来の信仰に覆いかぶさる組織的な「ぁ・天孫ぷりーず」が明治以前にも度々あったことが見えてくる(笑)。
「山神堂」が地名となって残っていることで、現在は境内社となって石祠があるだけの山神が、はじめは主祭神だったことの証となる。しかし山神の小祠はあちこちにあり、家神的なものや、氏族(マケ)や職掌などによってもそれぞれ祀られるため、その由来は不明になっているものが多い。山口村によって祀られた山神がもう一つ、大字山口字経塚にあり、若宮八幡宮の背後数百メートル奥に鳥居と石祠がある。ここは春の雪解け後に、田に入れて肥料にする刈敷を各戸同時に採取するための「山の口」という仕事始めの行事のための集合場所だった。ここの山神が若宮八幡(山神堂)の境内社が移されたのか(明治三年再勧請)、二つが板橋と臺のそれぞれの山神なのか、祭神も経緯もわからない。臺・板橋は山口村の端村で戸数も少なかったが、大宮鉱山が古代から知られていたのであれば、採鉱に最も近い集落になるので、二荒山神社を祀った採鉱民の祀った山神ということも考えられなくはない。現在の若宮八幡神社が整えられたのは、山口村の経済が発展してからのことらしく、川沿いの集落(国道)から七、八十段もある立派な石段が設置されて、集落と伊南川を見下ろして鎮座している。集落自体が山側にあったころには、板橋から古代の段丘を伝い、大石沢によって掘られた段丘崖の北端までの山道があったものだろう。鎮守はちょうど下山口の愛宕様の位置と対をなすような地形にある。(つづく)


